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第11話 試験期間終了

 工場に戻ったのは夕方だった。


 リュックに光粉の袋を入れて、チーズと並んで山道を下りた。空が赤く染まり始めていた。


 工場の表口を開けると、バタコさんが作業台の前にいた。振り返って、ケンのリュックを見た。


「採れた?」


「二週間分は確保できました」


「よかった。遅かったから心配してた」


「途中で少し——寄り道しました」


 バタコさんが手を止めた。


「寄り道」


「バイキンマンと会いました」


 静寂。


 バタコさんがゆっくりとケンを振り向いた。


「……山で?」


「岩の上に一人で座っていました。空を見ていた」


「攻撃されなかった?」


「されませんでした。話しました」


 バタコさんはしばらくケンを見た。何か言おうとして、言葉が出てこないような顔だった。


「……ジャムおじさんに報告してきなさい。私も行く」




 奥の部屋に三人で入った。


 ケンが話した。バイキンマンとの会話を、そのまま。計算が狂ったという話。たかしさんのことを聞いた話。外への脱出計画を続けると言われたこと。今は止めないと答えたこと。


 ジャムおじさんは黙って聞いていた。


 バタコさんも黙っていた。


 話し終えると、しばらく誰も何も言わなかった。


 最初に口を開いたのは、ジャムおじさんだった。


「それでよかった」


「よかった、というのは」


「今は止めない、と言ったことじゃ。それが正しい」


 ケンは少し考えた。


「止めた方がよかったんじゃないですか。脱出計画を続けると言っているのに」


「止めても、あの子は止まらない。それはわしが一番よく知っておる」


 老人は椅子の背もたれにゆっくり体を預けた。


「わしはずっと、どう向き合えばいいかわからなかった。バイキンマンが世界の外に出たいという気持ちは、わしにもわかる。わしも最初はそう思っておったから。でも、この世界の住民を守らなければいけない。答えが出ないまま、ずっとすれ違ってきた」


「ジャムおじさんとバイキンマンは、話したことはないんですか」


「話したことはある。でも——わしが答えを出せないまま話すから、いつも途中で止まってしまう」


 老人が少し笑った。疲れた笑いだった。


「あんたは違う。答えを持たないまま、でも話せる」


「答えがないのは同じじゃないですか」


「同じじゃない。答えがないのに話せる、というのは——少し勇気がいる。わしにはできなかった」


 バタコさんが静かに言った。


「ケンさん、バイキンマンとまた話す気はある?」


「機会があれば」


「向こうから来るかもしれない」


「来たら話します」


 バタコさんとジャムおじさんが顔を見合わせた。


 その顔に、何かがあった。ケンには読めなかったが、二人の間に何かが通じたような気がした。




 その夜、ケンはメモ帳に今日のことを書いた。


 光粉採取、二週間分確保。バイキンマンとの会話。ジャムおじさんの反応。


 書きながら、ふとカレンダーを思い出した。


 この世界にカレンダーはないが、ケンは来た日から日数を数えていた。


 今日で、九十一日目だ。


 ケンは少し手を止めた。


 九十一日。


 三ヶ月と、一日。


 試用期間は三ヶ月だった。


 ジャムおじさんとの最初の会話を思い出した。試用期間は三ヶ月でいいですか、その間に判断します——そう言ったのは、ケン自身だった。


 気づいていなかった。気づかないうちに、三ヶ月が過ぎていた。




 翌朝、ケンはジャムおじさんに声をかけた。


 食事が終わって、バタコさんが片付けをしている時間だった。老人が立ち上がろうとするのを、ケンは「少しいいですか」と引き止めた。


「なんじゃ」


「試用期間が終わりました」


 老人がケンを見た。


「……気づいておったか」


「昨日の夜に気づきました。九十一日目でした」


「一日過ぎておるな」


「うっかりしていました」


 老人がふっと笑った。


「バタコさん」


 バタコさんが振り返った。


「ケン君の試用期間が終わったそうじゃ」


「知ってた」


「知っていたのか」


「三日前から数えてた」


 ケンはバタコさんを見た。


「なぜ言わなかったんですか」


「あなたが自分で気づくのを待ってた」


「意地悪ですね」


「そうかしら」


 バタコさんが少し微笑んだ。本当に少しだったが、ケンには見えた。


 ジャムおじさんが改まった顔をした。


「ケン君、改めて聞く。この工場で、正式に働いてくれるか」


 ケンは少し間を置いた。


 三ヶ月前の最初の朝を思い出した。木の天井。パンの匂い。試用期間は三ヶ月でいいですか、と言った。


 あの時は、まだこの世界のことを何もわかっていなかった。


 今は——全部わかっているとは言えない。でも、知っていることが増えた。


 アンパンマンが空に戻っていく背中。カレーパンマンの「悪くない考え方だ」という言葉。食パンマンの「補給が途切れなかった、それが全て」という声。バタコさんの「来てくれてよかった」。ワンさんの「ありがとうございます」。チーズの尻尾。ジャムおじさんの「受け取ってくれると助かる」という顔。


 バイキンマンが山の上で空を見ていた横顔。


 ホラーマンの「消えない」という声。


 ロイヤルローフが温かくなった気がした夜。


 九十一日分の、積み重ねがある。


「続けます」


 ケンは言った。


「条件は変わりますか」


「食事と宿はそのままじゃ。ただ——」


 老人が少し考えた。


「月に一度、村に下りていいことにしよう。外の空気を吸う時間も必要じゃろう」


「ありがとうございます。それと一つお願いがあります」


「なんじゃ」


「地下室への定期訪問を、正式な業務に含めてください。今は自分の判断でやっていますが、役割として明確にしたい」


 ジャムおじさんが目を丸くした。


「……それは、わしが言い出すべきだったな」


「俺から言います。地下は俺の管轄にしてください」


 老人が頷いた。


「任せる」


「ありがとうございます」


 バタコさんが腕を組んだ。


「もう一つ条件を言いなさい」


「え?」


「欲しいものがあれば今のうちよ。正式採用の交渉は今だけだから」


 ケンは少し考えた。


「メモ帳を、定期的に補充してください。消費が早くて」


 バタコさんが一瞬止まった。


 それから、声を上げて笑った。


 今度は遠慮のない笑い声だった。


「……メモ帳」


「記録が仕事なので」


「わかった。補充する」


 ジャムおじさんも笑っていた。


「では正式採用じゃな、ケン君」


「よろしくお願いします」




 午後、ケンは地下室に降りた。


 ワンさんに報告するためだった。


「正式に、地下室の管理を担当することになりました」


 ワンさんが少し止まった。


 それから、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 三ヶ月前のバター補給の件の時と同じ言葉だった。でも重さが違った。


 ごちゃんがすかさずノートに書いた。


「記録します。本日より鈴木ケン様、地下室担当に正式就任」


「様はいらないです」


「記録は正確に」


「様はいらないと正確に記録してください」


 ごちゃんが少し迷った顔をした。


「……鈴木ケン、地下室担当に正式就任、様称号辞退」


「それでいいです」


 よんくんが白衣のポケットから何かを取り出した。小さな瓶だった。


「ケンさん、これを」


「なんですか」


「本体から分けてもらいました。焼成に使う油です。少量加えると焼き色が安定します。秘伝の配合です」


 ケンは瓶を受け取った。薄く黄金色に輝く油だった。


「本体が?」


「はい。ケンさんへの、就任祝いです」


 ケンはロイヤルローフを見た。


 黄金色の表面。静かな脈動。


「ありがとうございます」


 返事はなかった。


 でも、脈動が少し強くなった——気がした。




 さんちゃんが小さな包みを出してきた。


「これも」


「なんですか」


「ジャムです。さっき作りました。ケンさんの正採用のお祝いに」


 包みを開けると、小さな瓶が入っていた。ラベルに「いちご」と書いてある。さんちゃんの字だ。


「ドキンちゃんも好きなやつですね」


「はい。でもケンさんの分は別に作りました。少しだけ生姜を入れています。大人向けに」


「大人向け」


「ケンさんには合うと思って」


 ケンは瓶を受け取った。


「ありがとうございます。大切に食べます」


「食べてみて、感想を教えてください。次の配合の参考にします」


「わかりました」


 ツーちゃんが無言でケンの前に立った。


 何か言うのかと思ったら、ただケンを見ていた。


「ツーちゃん?」


 ツーちゃんが、ゆっくりと頭を下げた。


 それだけだった。


 でも、そのお辞儀の深さに、三ヶ月分のものがあった。




 地下から戻って、工場の表口に出た。


 夕暮れだった。空がオレンジ色に染まっている。


 アンパンマンが哨戒から戻ってきた。着地して、ケンを見た。


「聞いたよ。正式採用、おめでとう」


「バタコさんから聞きましたか」


「うん。——よかった」


「そうですか」


「本当によかった。俺、少し心配してた」


「何をですか」


「試用期間が終わったら、帰るんじゃないかって」


 ケンは少し驚いた。


「帰るというのは——前の世界にですか」


「そう。帰る方法があるなら、帰りたいんじゃないかって」


 ケンは少し考えた。


「帰れるとしたら——どうだろう」


 自分でも、今初めて考えた気がした。


「帰りたいか、って」


「うん」


 ケンは空を見た。オレンジ色が少しずつ濃くなっていく。


「田中が助かったかどうか、確認したい気持ちはあります」


「田中、というのは」


「前の世界で——庇った人です。助かったかどうか、今でもわからない」


「会いたいの?」


「会えるものなら」


 アンパンマンがケンを見た。


「ここにいたくない、ってこと?」


「そうじゃないです」


 ケンははっきり言った。


「ここにいたい、と思っている。ここの仕事が好きです。皆のことも」


「じゃあ」


「田中のことが気になるのと、ここにいたいのは、両方本当です。矛盾しているかもしれないけど」


 アンパンマンは少し黙った。


「矛盾しないと思う」


「そうですか」


「二つとも本当なら、矛盾じゃない。ただ——難しい」


「難しいですね」


「でも——ここにいてくれてよかった」


 アンパンマンの声は、普段通りの落ち着いた声だった。でも、その中に何か真剣なものがあった。


「ありがとうございます」


「仕事でも、ありがとうって言っていい?」


「アンパンマンさんは毎回ありがとうと言いますよね」


「だって毎回助かってるから」


 ケンは少し、笑いたくなった。


 今度は堪えなかった。


 小さく、笑った。


 アンパンマンが目元を緩めた。


「ケンさんが笑うの、初めて見た」


「そうですか」


「うん。よかった」




 夜のメモ帳。


 試用期間終了。正式採用。地下室担当を正式業務に。メモ帳の補充を確約。


 よんくんから焼成油をもらった。さんちゃんから生姜入りイチゴジャムをもらった。ツーちゃんに深いお辞儀をしてもらった。ごちゃんに「様称号辞退」と記録してもらった。


 アンパンマンに、初めて笑ったと言われた。


 ケンはペンを置いた。


 田中のことを思った。


 助かっていてほしい。それは三ヶ月経っても変わらない。


 でも——今日、自分でも初めてはっきりわかった。


 俺はここにいたい。


 この工場で、この仕事で、この人たちと一緒に。


 それが、今の答えだ。


 チーズが足元で丸まった。


 窓の外に星が出ていた。


 この世界に来て、九十一日目の夜だった。


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