第12話 予告
正式採用から四日後の昼過ぎ、ホラーマンが来た。
今度は夜ではなかった。昼間、工場の裏手に来た。ケンが保管庫の換気をしようと裏口を開けたところに、立っていた。
驚かなかった。
驚かなかった自分に、少し驚いた。
「また来ましたね」
「来ていいと言った」
「言いました」
ホラーマンが裏手の草むらの前に立った。前回と同じ場所だ。ケンは裏口の扉に背を預けた。
「今日は何を聞きたいですか」
「今日は——聞きたいことではなく、伝えに来ました」
「伝えに」
「バイキンマンが、近いうちにここに来ます」
ケンは少し間を置いた。
「近いうちというのは」
「三日から五日の間です。正確にはわかりません。ただ、そういう気配があります」
「戦闘目的ですか」
「違います。あなたに会いに来ます」
ケンはホラーマンを見た。
骨の顔。眼窩の光。ローブの裾が風に揺れている。
「バイキンマンが、俺に会いに来る」
「そうです」
「理由は」
「山での会話の続きをしたいようです。ただ——それだけではない」
「どういうことですか」
ホラーマンが少し間を置いた。
「バイキンマンは今、岐路に立っています」
「岐路」
「外への脱出計画を、続けるかどうか。ブラックノーズとの連携を、続けるかどうか」
ケンはその言葉を頭の中に置いた。
「ブラックノーズとの連携を、やめるかもしれないということですか」
「あの戦闘の後から、バイキンマンが変わりました」
「どう変わりましたか」
「考える時間が増えました。一人で城の外に出て、空を見ていることが多くなった」
山の上の岩で空を見ていたバイキンマンの横顔を、ケンは思い出した。
「あなたと話してから変わったのだと思います」
「俺が何か言いましたか」
「何かを言ったというより——あなたが今は止めない、と言ったことで、バイキンマンの中で何かが動いたのだと思います」
「止めないと言っただけで」
「止めると言われ続けてきた存在には——止めないという言葉が、別の重さを持つことがある」
ケンはその言葉を、静かに受け取った。
ホラーマンが続けた。
「バイキンマンがここに来る時、あなたに何かを話すと思います。その前に、あなたに知っておいてほしかった」
「何を」
「バイキンマンの中にある、本当の迷いを」
ホラーマンがゆっくり話し始めた。
「外への脱出計画は、たかし様の故郷を見たいという気持ちから始まりました。それは本当のことです。でも——それだけではなくなってきた」
「別の理由が生まれたということですか」
「バイキンマンの体内精製炉が、少しずつ機能を落としています」
ケンは眉を寄せた。
「機能を落とす、というのは」
「この世界の汚染がほぼ消滅したため、処理する汚染物質がなくなりました。精製炉は汚染を喰らうことで維持される設計です。喰らうものがなければ——炉が錆びていく」
「それは、体に影響しますか」
「長期的には、機能不全に繋がります」
ケンは少し黙った。
「だから外に出たい。外の世界にまだ汚染が残っているかもしれない、だから——」
「そうです。ただ」
ホラーマンが続けた。
「バイキンマンはそのことをあまり話しません。弱みを見せることが苦手だから。でも——私にはわかります。長い付き合いだから」
「ホラーマンさんはバイキンマンに、この話をしましたか」
「しました。一度だけ」
「どうでしたか」
「『余計なことを言うな』と言われました」
ケンは少し考えた。
「……なぜ俺にそれを話すんですか」
「あなたならバイキンマンと、正面から話せると思うから」
「ジャムおじさんでは、という話でしたね」
「ジャムおじさんは——答えを持てないことへの罪悪感があります。バイキンマンに向き合う時、その罪悪感が邪魔をする」
「俺には罪悪感がない」
「あなたはこの世界に来てまだ日が浅い。しがらみが少ない。それが——かえって強みになると思います」
ケンはホラーマンを見た。
骨の顔に、感情は読めない。でも今日の声は、前回より少し違う気がした。何かを決めてから来たような、そういう声だった。
「ホラーマンさん」
「なんですか」
「あなたは、バイキンマンに外に出てほしいですか」
長い沈黙があった。
「……わかりません」
「わからない」
「外に出ることが、バイキンマンを救うかもしれない。でも——外に出て、この世界はどうなるのか。住民はどうなるのか。それが怖い」
「あなたが怖い、という言葉を使うとは思いませんでした」
「めったに使いません」
ケンは少し間を置いた。
「ホラーマンさんも——この世界が好きですか」
また沈黙があった。
「……消えない記憶があります。この世界を初めて見た時の記憶が」
「誰の記憶ですか」
「わかりません。でも——荒野だった場所に、初めて草が生えた時の記憶です。緑色が広がった時の記憶です。その時の気持ちが——消えない」
ケンはその言葉を、静かに聞いた。
荒野に草が生えた時。それはこの世界が作られていく過程の記憶だ。誰の記憶なのか、ホラーマン自身はわからないと言っている。でも消えない。
「それは大切な記憶ですね」
「そうかもしれません」
「消えなくていい理由がある記憶だと思います」
ホラーマンが動かなかった。
少し間があった。
「……あなたは、前回も同じようなことを言いましたね」
「同じことが言える場面が続いているんだと思います」
「そうですか」
ホラーマンが少しだけ、首を傾けた。
「あなたは——どうしたいと思っていますか。バイキンマンが来た時、どう話すつもりですか」
「わかりません」
ケンは正直に言った。
「わからないまま話します。でも——一つだけ、決めていることがあります」
「なんですか」
「この世界に生きている人たちのことを、忘れないで話します」
ホラーマンが少し間を置いた。
「……それだけですか」
「それだけです。それ以上は、その場にならないとわからない」
「単純ですね」
「単純じゃないと判断できないので」
ホラーマンはそれ以上何も言わなかった。
でも、眼窩の光が少し変わった気がした。
ホラーマンが帰り際に、足を止めた。
「一つ確認させてください」
「はい」
「あなたは——怖くないですか」
「何がですか」
「バイキンマンと、正面から話すことが」
ケンは少し考えた。
「怖いかどうかより、やることがあるので」
ホラーマンが少し止まった。
「……以前にも、似たことを言っていましたね」
「アンパンマンさんにも同じようなことを言いました。たぶん俺の癖です」
「怖くなる暇がない」
「そういうことです」
「それは——強さですか、それとも鈍さですか」
ケンは少し考えた。
「どちらでもないと思います。ただ——今やるべきことがあれば、そっちに集中するだけです。怖さを感じる余裕がない、というのとも違う」
「では何ですか」
「怖くても、やることはやる。それだけです」
ホラーマンはしばらく動かなかった。
それからゆっくり言った。
「……たかし様も、そういう人でした」
ケンは少し驚いた。
「バイキンマンから聞いた話ですか」
「そうです。どんな状況でも、手を動かしていた。荒野で一人でも、老いていても——やることをやっていた、と」
「俺はそんな大したものじゃないですが」
「大したものかどうかは、私には判断できません。ただ——似ていると思っただけです」
ホラーマンはそれだけ言って、今度こそ歩き出した。
足音がしなかった。
草むらの向こうに消えた。
夜のメモ帳。
ホラーマン来訪。バイキンマンが三日から五日以内に来る予告。バイキンマンの体内精製炉の機能低下。脱出計画の背景にある、もう一つの理由。
書き終えて、ケンはペンを持ったまま止まった。
ホラーマンが最後に言った言葉を、もう一度頭の中で聞いた。
たかし様も、そういう人でした。
ケンはその言葉の意味を、ゆっくりと噛み締めた。
たかしという老人は——荒野で一人で、ずっと手を動かしていた。誰もいない世界で、スケッチブックを広げて、命を設計した。その積み重ねが今のこの世界になった。
自分はそれとは比べ物にならない。
でも——似ていると言われた。
やることをやっていた、という点で。
ケンはメモ帳を閉じた。
チーズが足元に来て、くっついた。
三日から五日以内。
バイキンマンが来る。
その前に、やっておくことがある。
ケンは立ち上がって、もう一度メモ帳を開いた。
新しいページに、書き始めた。
——バイキンマンが来た時のために、確認しておくべき在庫と、想定される状況と、その場合の判断基準を。
それが今の、やるべきことだった。




