第13話 バイキンマンの話
バイキンマンが来たのは、五日目の朝だった。
ケンが窯の温度を確認していた時、チーズが吠えた。
いつもの警戒音ではなかった。一声だけ、短く。それから止まった。
ケンは窯から離れて、表口に向かった。
バタコさんが先に出ていた。表口の前に立って、広場を見ていた。
バイキンマンが広場の中央に立っていた。UFOもない。ホラーマンもいない。マントを羽織った小柄な体だけが、朝の光の中にあった。
バタコさんの背中が硬かった。当然だ。ケンでも、正直なところ緊張している。
「バタコさん」
「わかってる」
バタコさんが振り返った。
「ジャムおじさんに連絡する。あなたは——」
「話します」
「一人で?」
「一人で」
バタコさんがケンを見た。何か言いたそうだった。でも、言わなかった。
「……チーズはここに置いていく。何かあればすぐ呼んで」
「わかりました」
バタコさんが工場の中に戻った。
ケンは広場に出た。
バイキンマンはケンが来るのを待っていた。
近づいてくるケンを見て、動かなかった。逃げる様子もなく、構える様子もなく、ただ立っていた。
「来ましたね」
「来た」
「中に入りますか」
バイキンマンが少し止まった。
「工場の中に、俺を入れるのか」
「座れる場所があった方が話しやすいので」
「……いいのか」
「バタコさんには了解を取ります。少し待ってください」
ケンは振り返って、工場の窓に向かって手を挙げた。窓の内側に、バタコさんの顔があった。
ケンは親指を立てた。
バタコさんが少し間を置いてから、頷いた。
「どうぞ」
作業台から少し離れたところに、古いテーブルと椅子がある。来客用というわけでもないが、ジャムおじさんが時々図面を広げる場所だ。
バイキンマンはその椅子に座った。
ケンは向かいに座った。
チーズがテーブルの下に来て、丸まった。
バイキンマンがチーズを見た。
「噛まないのか、こいつは」
「噛まないです」
「前は追いかけてきたが」
「慣れたんでしょう」
「犬に慣れてもらえると思わなかった」
ケンはお茶を二つ用意した。自分の分と、バイキンマンの分。
バイキンマンが椀を見た。
「飲むか」
「……飲む」
一口飲んだ。
「美味いな」
「バタコさんが選んだ茶葉です」
「バタコさんが作ったのか」
「俺が入れました」
「お前が」
「湯の温度と蒸らし時間を記録しています。再現性が取れています」
バイキンマンが少し止まった。それからまた一口飲んだ。
「……お前は本当に変な奴だな」
「四回目ですね」
「数えているのか」
「数えています」
バイキンマンが短く鼻を鳴らした。
しばらく、お茶を飲みながら二人とも黙っていた。
工場の奥から、ジャムおじさんの気配がした。出てこない。でも、聞いているかもしれない。それはそれでいいとケンは思った。
「山での話の続きをしに来たんですか」
ケンが口を開いた。
「そうだ。それと——確認したいことがある」
「なんですか」
「ホラーマンが来たか」
「来ました。二回」
「……二回か」
「一回目は自分の用事で、二回目はあなたのことを伝えに来ました」
「俺のことを」
「体内精製炉の話を聞きました」
バイキンマンが少し固まった。
それから、ゆっくりお茶の椀を置いた。
「あいつは余計なことを言う」
「俺はそう思いません」
「お前には関係ない話だ」
「俺に話しに来たんですよね、今日」
「それとこれとは別だ」
「そうですか」
ケンは急かさなかった。お茶を一口飲んだ。バイキンマンも沈黙の中でお茶を飲んだ。
チーズが寝息を立て始めた。
「……炉が、錆びている」
バイキンマンが言った。
声が、少し低かった。
「この世界の汚染がほぼなくなった。喰らうものがなくなった。炉は喰らうことで動く。だから——」
「少しずつ機能が落ちている」
「そうだ」
「外に出れば、また汚染を処理できるかもしれない」
「そうかもしれない。でも——それだけじゃない」
「たかしさんの故郷を見たい、という気持ちも」
「それもある」
バイキンマンが窓の外を見た。朝の光が差し込んでいる。
「俺は——この世界に何十年もいる。ずっと悪役をやってきた。負けて、また来て、負けて、また来て」
「飽きませんか」
「飽きない。飽きるようには作られていない」
「設計上」
「そうだ。でも——最近、初めて思うことがある」
「なんですか」
バイキンマンが窓から視線を戻した。ケンを見た。
「このままでいいのか、と」
ケンは黙って聞いた。
「アンパンマンと戦って、負けて、また戦う。それがこの世界の仕組みだとわかっている。でも——炉が錆びていく。外には出られない。たかしさんの故郷は見られない。このままでは——」
「このままでは、何ですか」
「この世界の中で、消えていく」
重い言葉だった。
ケンはその言葉を、すぐに返さなかった。少し時間を置いた。
「消えていくというのは——機能不全になる、ということですか」
「そうだ」
「いつ頃」
「正確にはわからない。ホラーマンの計算では——数年から十年の間に」
ケンは頭の中で整理した。
数年から十年。長いようで、短い。
「外に出る計画は、今どのくらい進んでいますか」
「お前が来てから計算が狂った。データが取れていない」
「元の計算では」
「あと半年、データが揃えば突破口が見えるはずだった」
「今は」
「一年以上かかる」
「精製炉が持つかどうか、ぎりぎりのラインですね」
「そうだ」
バイキンマンがケンを見た。
「お前は——俺の話を聞いて、どう思う」
ケンは少し考えた。
「正直に言っていいですか」
「言え」
「あなたが外に出たい理由は、全部本物だと思います。炉のことも、たかしさんのことも」
「でも」
「でも——外壁を突破する時に、この世界に何が起きるか、俺にはまだわからない」
「消滅するかもしれない」
「そうですか」
「可能性の一つだ。わからない。わしもわからない」
「ジャムおじさんも」
「あの人もわからない。だから踏み切れなかった」
ケンはお茶の椀を両手で包んだ。
「一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「外に出た後——戻ってくることはできますか」
バイキンマンが少し止まった。
「戻る、というのは」
「この世界に」
「……考えたことがなかった」
「外に出ることばかり考えていて、戻ることは考えていなかった」
「そうだ」
ケンは少し間を置いた。
「もし戻れるなら——外に出て、たかしさんの故郷を見て、炉を満たして、戻ってくる。そういう方法はないですか」
バイキンマンが黙った。
長い沈黙だった。
「……そんな方法があるとは、考えていなかった」
「俺も今思いついた話なので、できるかどうかわかりません。ただ——外に出ることと、この世界を守ることが、必ずしも矛盾しないなら、一緒に考えられると思って」
「お前は——」
バイキンマンが、少し違う目でケンを見た。
「なぜそういう発想をする」
「在庫管理の仕事をしていると、どちらかを選ぶより、どちらも成立させる方法を探す癖がつきます。どちらかを切り捨てると、どこかで必ず不足が出るので」
「在庫管理の話か」
「根っこは同じです」
バイキンマンはしばらく黙っていた。
それからお茶を飲み干した。
「……研究する価値はある」
「そうですね」
「ただ——俺一人ではできない。外壁の構造を理解している者が必要だ」
「ジャムおじさんは」
「あの人は外壁より内側の専門家だ。外壁を研究したのは——」
バイキンマンが少し間を置いた。
「たかしさんですか」
「そうだ。スケッチブックに記録がある」
「スケッチブックを、見せてもらえますか」
バイキンマンがケンを見た。
静かな目だった。値踏みでも警戒でもなく、ただ見ている目だった。
「……お前に見せることになるとは思わなかった」
「嫌ですか」
「嫌ではない。ただ——大事なものだ」
「わかっています。見せてもらった後は返します。コピーは取りません」
「コピー」
「写し、という意味です。内容を俺の中に残すだけで、物は返します」
バイキンマンは少し考えた。
「……今日は持ってきていない」
「次に来る時でいいです」
「次に来る時」
「また来るつもりはありますか」
バイキンマンが少し黙った。
「……来る」
「では、その時に」
帰り際、バイキンマンが表口を出たところで立ち止まった。
振り返って、ケンを見た。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「お前は——この世界に来て、後悔しているか」
ケンは少し考えた。
「後悔している部分はあります」
「どこを」
「田中が助かったかどうか、確認できないこと」
「田中、というのは前の世界の人間か」
「庇って死んだ時に、助けた同僚です。今どうしているかわからない」
バイキンマンが少し黙った。
「でも——ここにいることは後悔していません」
「矛盾しないのか」
「アンパンマンさんにも同じことを言われました。矛盾しないと思っています」
バイキンマンがケンを見た。
「……お前は、奇妙なくらい正直だな」
「嘘をつくのが苦手なので」
「たかしさんも、そういう人だった」
ケンは少し驚いた。
「ホラーマンさんにも同じことを言われました」
「そうか」
「偶然ですか」
「……わからない」
バイキンマンはそれ以上言わなかった。
マントをひるがえして、空に上がった。
音もなく、南の方に消えていった。
工場の中に戻ると、ジャムおじさんが奥の部屋から出てきた。
「聞こえておったよ」
「全部ですか」
「全部じゃ」
老人の顔が、少し違った。安堵とも、感慨とも違う。もっと複雑な何かだった。
「戻ってくる方法、というのを言ったな」
「思いついたことを言いました。できるかどうかはわかりません」
「わしは考えたことがなかった。外に出ることと、戻ることを——一緒に考えることを」
「俺も今日初めて思いついたことです」
「でも——あの子の目が変わった」
ケンは老人を見た。
「変わりましたか」
「変わった。希望みたいなものが入った」
老人がゆっくり椅子に座った。
「ケン君」
「はい」
「あんたがここに来た理由が——少しわかった気がする」
「俺はまだわかっていません」
「そうか」
「でも——やることはやります」
老人が目を細めた。
「それで十分じゃ」
夜のメモ帳。
バイキンマン来訪。話の内容を整理して書いた。精製炉の残り時間。脱出計画の現状。外に出て戻ってくる方法の可能性。スケッチブックを次回持ってくるという約束。
書き終えて、ケンはペンを置いた。
田中が助かったかどうか、わからない。
でも——田中を庇って死んだことを、後悔していない。
それは今日、バイキンマンに言って、初めてはっきりわかった。
後悔していない。
あの時、体が動いた。動いた結果、ここに来た。ここで仕事をしている。ここが好きだと思っている。
それが全部つながっている。
チーズが足元で丸まった。
窓の外に星が出ていた。
バイキンマンがスケッチブックを持ってくる。
その日まで——今日みたいに、やることをやっていよう。
ケンはメモ帳を閉じた。




