第14話 スケッチブック
バイキンマンが次に来たのは、三日後だった。
今度も朝だった。チーズが一声吠えて、それで終わった。もう追いかけない。慣れたのか、諦めたのか、チーズなりの判断があるのだろう。
ケンが表口を開けると、バイキンマンが広場に立っていた。脇に何か抱えていた。
古い、布で包まれた冊子だった。
テーブルに向かい合って座った。
バイキンマンが布包みをテーブルの上に置いた。
ゆっくりと、布を開いた。
中から出てきたのは、厚みのあるノートだった。表紙は変色していて、端が少し傷んでいる。長い年月が、その一冊に刻まれていた。
「これがスケッチブックですか」
「そうだ」
「触っていいですか」
「……ゆっくり」
ケンは両手でそっと受け取った。
重かった。物理的な重さだけじゃない、別の重さが手に伝わった。
表紙を開いた。
最初のページは、地図だった。
荒野の地図だ。等高線のような線が描かれていて、所々に「汚染濃度・高」「汚染濃度・中」という書き込みがある。日本語だった。
ケンは少し止まった。
日本語だ。
「この文字を読めるか」
バイキンマンが言った。
「読めます。日本語です」
「にほんご」
「俺が前の世界で使っていた言葉です」
「……そうか。たかしさんも同じ言葉を使っていた。わしには読めなかった」
ケンはページをめくった。
二ページ目は生物の設計図だった。小さな生き物の骨格が鉛筆で描かれていて、横に細かい数値が書いてある。三ページ目は植物の図解。四ページ目は——
ケンは手を止めた。
人の顔が描いてあった。
丸い顔。大きな目。柔らかい輪郭。
その横に、こう書いてある。
「明るくて、元気で、誰かが困っていたら助けに行く子にしたい」
バイキンマンが静かに言った。
「それが最初の住民の設計図だ」
「絵が——上手ですね」
「漫画家だったそうだ。前の世界で」
ケンはそのページをしばらく見た。
設計図というより、スケッチだ。数値も書いてあるが、それより「こういう子にしたい」という言葉の方が先にある。
住民を作る前に、どんな人にしたいかを言葉にした。
それから設計した。
「ページを進めていいですか」
「いい」
ページをめくるたびに、この世界の歴史が出てきた。
バイキンマンの設計図。「この世界の汚染を浄化する者。でも心は優しく」という書き込みがある。かびるんるんの設計図。土壌改良菌の詳細なスケッチ。村の最初の設計図。建物の配置。井戸の掘り方。
そして——
「ここが外壁の記録ですか」
ページの中盤あたりに、複雑な図が描いてあった。
球体の断面図のような図形。中心から外側に向かって、何層にも分かれている。一番外側の層に「外壁」と書いてあった。
「そうだ。たかしさんが転生した直後から観察していた」
「この世界全体が、層になっているんですね」
「内側から三層目までは安定している。問題は外側の二層だ」
バイキンマンが立ち上がって、ケンの横に来た。図を指差した。
「ここに——突破口がある。たかしさんが見つけた場所だ。外壁が他より薄い部分が一か所だけある」
「場所は特定できますか」
「北の空の果て。山脈のずっと向こう」
「遠いですか」
「飛んで半日」
ケンは図を見た。
外壁。突破口。北の山脈の向こう。
「帰ってくる方法は、どこかに書いてありますか」
「それが——最後まで見つからなかった。たかしさんの記録では、一方通行の可能性が高いと書いてある」
「一方通行」
「出たら戻れない。少なくとも、たかしさんの研究では」
ケンはページを見たまま、少し考えた。
「たかしさんの研究が終わってから、何年経ちますか」
「百五十年以上だ」
「この世界の技術は、それから進んでいますか」
「……ジャムおじさんのパンエネルギーシステムは、たかしさんの時代にはなかった」
「では——たかしさんの研究結果が最終答えではないかもしれない」
バイキンマンが少し止まった。
「どういう意味だ」
「一方通行だというのは、百五十年前の技術での話です。今は違うかもしれない。ジャムおじさんの技術と、あなたの研究を合わせれば、新しい方法が見えてくるかもしれない」
「……俺とジャムおじさんが、一緒に研究するということか」
「おかしいですか」
バイキンマンが少し黙った。
「おかしくはない。ただ——あの人が了承するかどうか」
「聞いてみます」
「お前が聞くのか」
「俺が間に入る方が、話が通りやすいと思うので」
バイキンマンがケンを見た。
「……お前は本当に、在庫管理担当なのか」
「バイトです。正式採用になりましたが」
「正式採用」
「三ヶ月の試用期間が終わりました」
バイキンマンが短く鼻を鳴らした。
ページを最後まで進めた。
後半は設計図が減って、観察記録が増えた。植物の成長記録。住民の様子のスケッチ。空の色の変化。季節ごとの気温。
たかしという人物が、この世界のことをずっと見ていたことが伝わってきた。
作った後も、ただ見ていた。
記録し続けた。
そして——最後のページ。
ケンはゆっくりとめくった。
他のページより字が大きかった。老いた手で書いたような、少し震えた字だった。
こう書いてあった。
「お腹を空かせた人に食べ物を分けてあげることは、きっと正しいことだと思う」
ケンは動かなかった。
ジャムおじさんから聞いた言葉だった。バイキンマンから読んでもらったと聞いた言葉だった。
でも——直接見るのは、初めてだった。
震えた字で書かれた、その一文。
百五十年以上前に、老いた手で書かれた言葉。
それが今でも、この世界を動かしている。
アンパンマンが空を飛ぶ理由になっている。
ケンはしばらく、その一文を見ていた。
バイキンマンは何も言わなかった。
隣に立ったまま、黙っていた。
「……バイキンマン」
「なんだ」
「たかしさんは——最後、どんな様子でしたか」
バイキンマンが少し間を置いた。
「穏やかだった。苦しそうではなかった。ただ——眠るように」
「何か、最後に言いましたか」
「いくつか言った」
「このページのことは」
「……書き終わった後に、俺に読んで聞かせた。これが答えだと思う、と言っていた」
「答え」
「長い間、正義とは何かを考えていたそうだ。この世界に来る前から、ずっと。最後までわからなかった。でも——これだけは確かだと思う、と」
ケンはその言葉を、静かに受け取った。
答えがわからないまま、でもこれだけは確かだと思う。
「たかしさんらしいですね」
「そうか」
「最後まで断言しない。でも確かだと思うことは言う」
バイキンマンが少し黙った。
「……そうかもしれない」
ケンはスケッチブックをゆっくり閉じた。
両手で持ったまま、バイキンマンに返した。
「ありがとうございました」
「読んで、どう思った」
「たかしさんが、この世界をどれだけ大切にしていたかが伝わりました」
「大切に、か」
「設計図より、観察記録の方がずっと多かった。作った後も、ずっと見ていた。記録し続けた」
バイキンマンが布でスケッチブックを包みながら、言った。
「……俺も、よく読んだ」
「何度くらいですか」
「数えていない。でも——落ち込んだ時に読んだ。悔しい時に読んだ。あの人の字を見ると、少し落ち着く」
「今も読みますか」
「今も読む」
ケンはバイキンマンを見た。
布包みを大切そうに抱えている。それだけで、この存在がこのスケッチブックをどう思っているか、十分伝わった。
「ジャムおじさんに話してみます。一緒に帰還の方法を研究できないか」
「あの人が了承するとは思えないが」
「話してみなければわかりません。たかしさんも、答えがわからなくても確かだと思うことは言いましたよね」
バイキンマンが少し黙った。
「……そういう言い方をするか」
「使えそうだったので」
「悪い奴だな、お前も」
「悪くないです。バイトです」
バイキンマンが短く笑った。
今日で何度目かわからない、でも本物の笑いだった。
夕方、バイキンマンが帰った後、ジャムおじさんに話した。
今日読んだこと。外壁の突破口の場所。一方通行かもしれないという記録。でも百五十年前の話で、今の技術なら違う可能性があること。バイキンマンと一緒に研究できないかということ。
老人は黙って聞いていた。
話し終えると、しばらく沈黙があった。
「……バイキンマンと、一緒に」
「はい」
「あの子が了承するか」
「了承すると思います。俺に任せてもらえますか」
老人がケンを見た。
「……あんたに任せる」
「ありがとうございます」
「ただ——一つだけ、条件がある」
「なんですか」
「バイキンマンとジャムおじさんが話す時、最初だけでいいから——あんたも同席してくれ」
ケンは少し考えた。
「仲介ですか」
「仲介じゃない。ただ——あんたがいると、わしも話せる気がする」
老人の声に、少し照れがあった。
七十年以上生きてきた老人の、子供みたいな正直さだった。
「わかりました」
夜のメモ帳。
スケッチブックを見た。たかしさんの文字を見た。最後のページの言葉を、直接見た。
外壁の突破口:北の山脈の向こう。一方通行の可能性あり、ただし百五十年前の研究。
次の課題:ジャムおじさんとバイキンマンの共同研究のセッティング。
書き終えて、ケンはペンを持ったまま止まった。
たかしさんの字を思い出した。
震えていた。老いた手の字だった。
でも——ひと文字ひと文字が、丁寧だった。
最後の言葉を書く時、時間をかけたのだと思う。震えながら、それでも丁寧に書いた。
お腹を空かせた人に食べ物を分けてあげることは、きっと正しいことだと思う。
ケンはその言葉を頭の中でもう一度読んだ。
正しいことだと思う、だ。
断言じゃない。
でも、確かだと思う、という言葉が込められている。
それで十分だ。
チーズが足元に来た。
窓の外に星が出ていた。
次は——ジャムおじさんとバイキンマンを、同じ部屋に座らせる番だ。
ケンはメモ帳を閉じた。




