第15話 パンを買いに
その日の朝、バイキン城では珍しいことが起きていた。
ドキンちゃんが動かなかった。
朝食の時間になっても、自室から出てこない。ホラーマンが呼びに行くと、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。
「食事の時間です」
「いらない」
「食べないと」
「いらない」
ホラーマンがバイキンマンに報告した。バイキンマンが部屋に行った。
「どうした」
「……ジャムおじさんのパンが食べたい」
バイキンマンが少し止まった。
「昨日も城の中で作ってやったろ」
「違うの。ジャムおじさんが焼いたやつが食べたい。あの窯で焼いた、あのパン。城のと全然違う」
「……どこが違うんだ」
「匂いが違う。味が違う。なんか、全部違う」
バイキンマンはしばらくドキンちゃんを見た。
「買いに行けばいいじゃないか」
「買いに行けるの?」
「さんちゃんのジャムを買いに行ってるだろ、お前」
「でもパンはまた別でしょ。バタコさんに怒られるかもしれないし」
「ケンに話をつける」
ドキンちゃんが少し顔を上げた。
「本当に?」
「ただし俺とホラーマンが一緒に行く」
「……なんで二人も」
「お前一人では心配だ」
ドキンちゃんが少し頬を染めた。
「べ、別に心配しなくていいんだけど」
「ホラーマン、準備しろ」
「……了解しました」
工場の表口に、三人が立った。
バイキンマン、ドキンちゃん、ホラーマン。
縦に並んで、工場の扉の前に立っている。
チーズが扉の隙間から覗いて、三回吠えた。
ケンが表口を開けた。
三人を見て、一秒だけ止まった。
「……いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませって言うのね」
ドキンちゃんが少し笑った。
「商売ですから」
「パンを買いに来た」
バイキンマンが言った。
「ドキンちゃんが食べたいと」
「そうだ。売ってもらえるか」
「バタコさんに確認します。少し待ってください」
バタコさんを呼んだ。
表口に来たバタコさんは、三人を見て、深く息を吸った。
「……また来たの」
「ジャムおじさんのパンが食べたいの」
ドキンちゃんが言った。
「売ってほしいんですって」
ケンが添えた。
バタコさんが腕を組んだ。しばらく考えた。
「……ジャムおじさんに聞いてくる」
「よろしくお願いします」
バタコさんが奥に消えた。
表口の前で四人が待った。バイキンマン、ドキンちゃん、ホラーマン、ケン。
チーズがケンの足元に来て、バイキンマンを下から見上げた。
「相変わらず慣れているな、この犬」
「チーズは賢いので」
「犬に慣れてもらえるとは思わなかった」
「前にも同じことを言いましたよね」
「二度目か」
「二度目です」
ドキンちゃんが二人のやり取りを見て、首を傾げた。
「なんか……仲良いわね、あんたたち」
「そうか?」
「そう見える」
「仕事上の関係です」
ケンが言うと、バイキンマンが短く鼻を鳴らした。
奥からジャムおじさんが出てきた。
バイキンマンを見て、少し目を細めた。
「久しぶりじゃな」
「……そうだな」
「中に入りなさい。今焼きたてがある」
「いいのか」
「ドキンちゃんが食べたいんだろ。それくらい構わんよ」
ジャムおじさんが工場の中に入っていった。
ドキンちゃんが小声でバイキンマンに言った。
「ジャムおじさん、優しいのね」
「……そうだな」
バイキンマンの声が、少し変わった。
ケンは聞こえないふりをした。
作業台の前に、ジャムおじさんとバタコさんが並んで立っていた。
焼きたてのパンが並んでいる。あんパン、バターロール、丸いちぎりパン。
ドキンちゃんが目を輝かせた。
「どれがいいですか」
バタコさんが聞いた。
「全部ほしい」
「全部は多いわ」
「じゃあ——バターロールと、あんパンを二つずつ」
「わかりました」
バタコさんがパンを袋に入れ始めた。
ドキンちゃんが作業台を眺めながら言った。
「バタコさん、いつもここでパン焼いてるの?」
「毎朝ね」
「楽しい?」
バタコさんが少し止まった。
「楽しいわ」
「なんで?」
「焼きたてのパンが好きだから」
ドキンちゃんが少し考えた。
「私も好き。匂いが特に」
「そうね。窯から出た時の匂いは特別」
二人が自然に会話していた。
ケンはその様子を横で見ていた。
敵の幹部と工場のスタッフが、パンの匂いについて話している。
おかしな状況だが——成立している。
バイキンマンはジャムおじさんの近くに立っていた。
少し距離がある。でも離れすぎてもいない。
ジャムおじさんが窯の前で次のパンの準備をしながら、背中越しに言った。
「ケン君から聞いたよ。スケッチブックを見せてくれたそうじゃないか」
「……ああ」
「ありがとう」
「礼を言うことじゃない」
「でもわしには見せてくれなかった。ケン君には見せた」
バイキンマンが少し黙った。
「……あいつは、読めるから」
「日本語が、か」
「そうだ」
ジャムおじさんが振り返った。
「外壁の研究を、一緒にやってみないか」
工場の中が、少し静かになった気がした。
バタコさんとドキンちゃんの会話が、わずかに小さくなった。
「ケン君からも聞いた。百五十年前の研究では一方通行かもしれないが、今は違う可能性があると」
「……そう言ったのはケンだ」
「でも、研究する価値はあると思う」
バイキンマンが少し間を置いた。
「なぜ今更、お前が」
「お前が外に出たい理由を、わしはずっと止める立場でいた。でも——」
老人が少し間を置いた。
「止めることしか考えていなかった。一緒に方法を探すことを、考えていなかった」
「……遅い」
「そうじゃな。遅かった」
バイキンマンは何も言わなかった。
老人が続けた。
「わしの創造力は、もうほとんど残っていない。お前もそうだろう。でも——研究する頭はまだある」
「……俺に、お前と協力しろと言うのか」
「頼む、と言っている」
また沈黙があった。
ケンはテーブルの前に座って、メモ帳を広げていた。関係ないふりをしながら、何か書いているふりをしていた。
バイキンマンがケンを見た。
「お前は何をやってる」
「在庫の確認です」
「今じゃなくていいだろ」
「手持ち無沙汰なので」
バイキンマンが短く息を吐いた。
「……お前がいると、やりにくい」
「邪魔なら外に出ます」
「いなくなったらもっとやりにくい」
「どっちですか」
「いろ」
「わかりました」
バイキンマンがジャムおじさんに向き直った。
「……一度、話を聞く。それだけだ」
「それで十分じゃ」
バタコさんとドキンちゃんの会話は続いていた。
「ここのバターロール、なんでこんなに美味しいの」
「バターの質と、焼き加減ね。それとこの窯」
「窯が特別なの?」
「ジャムおじさんが設計した窯よ。温度の伝わり方が均一で、外はさっくり、中はふわっと焼き上がる」
「へえ」
ドキンちゃんが袋の中からバターロールを一つ取り出して、その場で食べた。
目を細めた。
「……美味しい」
「よかった」
「バタコさんって、パン好きなんだね」
「好きよ。ずっと好き」
「ずっとって、いつから?」
バタコさんが少し間を置いた。
「……最初から、かな。気がついたらパンが好きだった」
「最初から」
「そう。物心ついた時には、もうパンの匂いが好きだった」
ドキンちゃんが少し首を傾げた。
「なんか——わかる気がする。私も気がついたらバイキンマンの近くにいたから」
「似てるかもしれないわね」
「似てる? 私とバタコさんが?」
「最初からそこにいた、という意味で」
ドキンちゃんが少し考えた。
「……そうかも」
バタコさんが袋の口を結びながら、ドキンちゃんを見た。
「また来ていいわよ」
「え?」
「ジャムおじさんに怒られなければ、ね」
「……バタコさんが怒らないの?」
「あなたは——まあ、いい子だと思うから」
ドキンちゃんが少し頬を赤くした。
「い、いい子なんかじゃないわよ。私はバイキン帝国の幹部なんだから」
「そうね。でもここではお客さん」
「……お客さん」
ドキンちゃんがその言葉を繰り返した。
少し、嬉しそうだった。
帰り際、三人が表口から出ていった。
ドキンちゃんがパンの袋を大事そうに抱えていた。ホラーマンが後ろに静かに続いた。
バイキンマンが最後に出た。
振り返って、ジャムおじさんを見た。
「……次は、研究の話をする」
「待っておる」
「ケン」
「はい」
「セッティングを頼む」
「わかりました」
バイキンマンがマントをひるがえした。
三人が空に上がっていった。
ドキンちゃんが空の上から手を振った。バタコさんが小さく手を振り返した。
三人が消えた後、工場の前でケンとバタコさんとジャムおじさんが並んで空を見ていた。
「バタコさん」
「なに」
「ドキンちゃんと、自然に話していましたね」
「そう?」
「パンの話、楽しそうでした」
バタコさんが少し考えた。
「……あの子、パンのことになると素直になるのよ。嫌いじゃない」
「バイキンマンも、ジャムおじさんと少し話せましたね」
「聞こえてたわ、少し」
「どうでしたか」
「……七十年分のすれ違いが、少し動いた気がした」
ジャムおじさんが静かに言った。
「動いたのは、あんたのおかげじゃ」
「俺は在庫の確認をしていただけです」
「そうじゃな」
老人が笑った。
「でも——いてくれてよかった」
ケンは少し、空を見た。
バイキンマンたちが消えた方向を見た。
次はジャムおじさんとバイキンマンが、本格的に話す。
それをどうセッティングするか。
メモ帳を出した。
「ケンさん、今書くの」
「思いついたうちに」
バタコさんがため息をついた。
「……本当にあなたって人は」
「バイトなので」
「正社員でしょ、もう」
「正社員でも癖は変わらないので」
バタコさんが小さく笑った。
チーズが足元でくるりと一回転して、また丸まった。
空は青かった。
夜のメモ帳。
ドキンちゃん、バイキンマン、ホラーマン来訪。目的:パンの購入。問題なく終了。
バイキンマンとジャムおじさんが初めて工場の中で言葉を交わした。研究の話を一度聞く、という約束を取り付けた。
バタコさんとドキンちゃん、パンの話で自然に会話。ドキンちゃんが「また来ていい」と言われて頬を赤くしていた。
次の課題:ジャムおじさんとバイキンマンの研究セッションのセッティング。場所、日時、同席者の確認。
ペンを置いて、ケンは少し窓の外を見た。
バタコさんとドキンちゃんの会話を思い返した。
最初からそこにいた、という感覚。
バタコさんは「最初からパンが好きだった」と言っていた。
物心ついた時から。
——それはどういう意味なのか、今のケンには聞く手段がない。
でも何か、引っかかるものがあった。
今はわからない。
いつか、わかるかもしれない。
チーズが足元に来て、丸まった。
窓の外に星が出ていた。




