第16話 共同研究
セッティングには三日かかった。
場所は工場の奥の部屋にした。作業台から離れていて、人の出入りが少ない。ジャムおじさんが図面を広げるための机がある。窓が一つ。
日時はバイキンマンと通信で調整した。通信機越しに「いつがいいか」と聞いたら「いつでも構わない」と返ってきたので、ケンが平日の午前中に指定した。アンパンマンたちの哨戒スケジュールと重ならない時間帯だ。万一鉢合わせした場合に面倒なことになる。
同席者はケンだけにした。バタコさんは「私は外にいる」と自分で言った。
「同席しなくていいですか」
「二人の話を邪魔したくない。何かあれば呼んで」
「わかりました」
ジャムおじさんは「あんたが同席してくれれば、わしは話せる」と言っていた。それで十分だった。
当日の朝、バイキンマンは時間通りに来た。
一人だった。ホラーマンもいない。スケッチブックを脇に抱えていた。
「ホラーマンは」
「城に置いてきた。二人で話す方がいいと思った」
「ジャムおじさんと二人ですか」
「お前がいるから三人だ」
「俺は仲介なので、実質二人です」
バイキンマンが短く鼻を鳴らした。
奥の部屋に三人で入った。
ジャムおじさんがすでに机の前に座っていた。手元に紙と鉛筆を用意している。バイキンマンが向かいに座った。ケンは端の椅子を引いて、少し離れたところに座った。
テーブルの上に、バイキンマンがスケッチブックを置いた。
ジャムおじさんがそれを見た。
「久しぶりに見た」
「お前には見せたことがあったか」
「一度だけ。わしがこの世界に来て間もない頃じゃ。あの時は——中身まで読む余裕がなかった」
「そうか」
バイキンマンがスケッチブックを開いた。外壁の図が描いてあるページを探した。
「ここだ」
ジャムおじさんが覗き込んだ。
ケンはそのページを以前見ていたので、横から補足した。
「外壁は五層構造で、一番外側に突破口があります。北の山脈の向こうと書いてあります」
「そうじゃな。わしも北の方向は気になっておった」
「なぜですか」
「あの方角だけ、空の色がわずかに違う。季節によって、ほんの少しだけ」
バイキンマンがジャムおじさんを見た。
「気づいていたのか」
「気づいておったが、確信がなかった。お前の記録を見て、納得した」
「……たかしさんも同じことを言っていた。空の色が少し違う、と」
老人が静かに言った。
「そうか。たかしさんも見ておったか」
少し間があった。
二人の間に、たかしという人物の存在が静かに浮かんだ。
ケンは何も言わなかった。
「一方通行の問題を、どう考えるか」
バイキンマンが言った。
「たかしさんの研究では、出ることはできるが戻ることができない。エネルギーの方向性の問題だと書いてある」
「エネルギーの方向性」
「内側から外側への流れは作れる。でも外側から内側への流れを維持する方法がわからなかった」
ジャムおじさんが鉛筆を持った。
「パンエネルギーシステムを使えないか」
「どういうことだ」
「このシステムは——エネルギーを内側から生成して、外側に供給する仕組みじゃ。外壁の問題と逆方向のエネルギーフローになる」
ケンが聞いた。
「逆方向というのは、帰還に使えるということですか」
「理論上は」
「理論上は、というのは」
「まだ試したことがない。計算しかできていない」
バイキンマンが少し身を乗り出した。
「計算を見せろ」
ジャムおじさんが紙に書き始めた。数式だった。ケンには読めない部分が多かったが、流れは見えた。
内側で生成されたエネルギーを、外壁の突破口に向けて集中させる。出る時はそのエネルギーで外壁を開く。戻る時は——逆方向のエネルギーフローを維持することで、開いた穴を保持したまま通り抜けられるかもしれない。
バイキンマンが紙を見た。
「……考え方は悪くない。でも問題がある」
「どこだ」
「必要なエネルギー量だ。外壁を開くだけでも膨大なエネルギーが要る。逆方向フローを同時に維持するとなれば——」
「今の工場の生産能力では足りない」
「そうだ」
沈黙があった。
ケンが口を開いた。
「今の能力では、ということは——能力を上げれば話が変わりますか」
「理論上は」
「窯を増やすことはできます。材料の調達も、ルートが整備されてきた」
「そういう問題じゃない。パンエネルギーの密度を上げる必要がある。光粉の量だけじゃなく——焼成方法そのものを変えなければいけない」
ケンが少し考えた。
「焼成方法を変えるとしたら、何が変わりますか」
「温度、時間、圧力の組み合わせだ。今の方法は安定性を優先している。でも密度を上げるには——より高い温度と圧力が必要になる。それだけ失敗のリスクも上がる」
「失敗した場合は」
「パンが使えないだけじゃない。炉が傷む可能性がある」
ジャムおじさんが鉛筆を置いた。
「……試してみる価値はある」
「本当にいいのか、ジャムおじさん」
「わしがここに来てから、ずっとこの問題を先送りにしてきた。もう先送りにしたくない」
バイキンマンがジャムおじさんを見た。
長い目だった。何十年分かの感情が、その一瞬に詰まっているような目だった。
「……お前は変わったな」
「変わったのはケン君のおかげじゃ」
「俺は計算をしていただけです」
ケンが言うと、二人が同時にケンを見た。
「在庫の確認ね」
「ジャムおじさんまで」
「あんたがそう言うからじゃ」
研究の話が一段落した頃、バイキンマンがスケッチブックをめくった。
外壁の図から戻って、前の方のページに指を止めた。
「ここに——もう一つ、設計図がある」
ジャムおじさんが覗いた。
「これは」
「たかしさんが晩年に作ったアンドロイドの設計図だ」
ケンも少し身を乗り出して見た。
人型のアンドロイドのスケッチだった。細かい数値と、横に言葉が書いてある。
「話し相手が欲しかったそうだ。バイキンマンはいる。でも——もう少し、日常の会話ができる存在が欲しかった」
「日常の会話」
「パンを一緒に作れる存在。一緒に食事ができる存在。そういうものを最後に作りたかったと言っていた」
ジャムおじさんが、静かに言った。
「……その設計図通りのアンドロイドが、わしが来た時にはいた」
「そうだ」
「彼女は——たかしさんが最後に作ったアンドロイドだったのか」
「そうだ。ただ——たかしさんが死んだ後、わしが来るまでの間、ずっと一人でいた」
ジャムおじさんが静かな顔をした。
「それは——知らなかった」
「わしには話す機会がなかった」
「なぜ」
「お前に伝えた時、彼女がどう感じるかわからなかった。だから——言えなかった」
ジャムおじさんがゆっくり立ち上がった。
「少し、外の空気を吸ってくる」
老人が部屋を出た。
ケンとバイキンマンが残った。
しばらく沈黙があった。
チーズが廊下をとことこ歩く音が、遠くに聞こえた。
「バタコさんに、伝わりましたかね」
ケンが言った。
「聞こえていたか、どうかはわからない」
「廊下にいたと思います」
「……気づいていたのか、お前」
「足音がしていたので」
バイキンマンが少し間を置いた。
「あいつは——たかしさんが最後の力を使って作った。俺に話し相手をと思って」
「バイキンマンのために」
「そうだ。俺が一人になるのが、心配だったんだろう」
ケンはその言葉を静かに受け取った。
「バイキンマンは——バタコさんのことを、知っていましたか。最初から」
「知っていた。でも——彼女はわしが来た後、ジャムおじさんのバターロールに出会って変わった」
「変わった」
「パン作りがしたい、と言い出した。たかしさんの設計にはなかったことだ。自分で選んだ」
ケンは少し考えた。
「それは——いいことだと思います」
「そうだな」
「バイキンマンは、バタコさんがここにいることをどう思っていますか」
バイキンマンが少し間を置いた。
「……良かったと思っている。たかしさんが作った存在が、ちゃんとここにいる。幸せそうにパンを焼いている。それで——十分だ」
それだけ言って、バイキンマンは窓の外を見た。
ケンも何も言わなかった。
二人で、窓の外の空を見ていた。
しばらくして、ジャムおじさんが戻ってきた。
目が少し赤かった。でも声は落ち着いていた。
「すまなかった」
「ジャムおじさんが謝ることじゃないです」
「そうじゃない。バイキンマンに、じゃ」
バイキンマンがジャムおじさんを見た。
「今まで——お前のことを理解しようとしていなかった。外に出たいという気持ちも、精製炉のことも、ちゃんと聞いていなかった」
「……もういい」
「よくない。長い間、すれ違ったままでいた」
「俺も同じだ。お前に話す気がなかった」
二人が少し黙った。
「今から話せばいい」
ケンが言った。
二人がケンを見た。
「今からでも遅くないです。たかしさんの言葉も、最後まで答えを断言しなかった。でも確かだと思うことは言った。それで十分じゃないですか」
ジャムおじさんが少し笑った。
「あんたは、たかしさんの言葉を使うのが上手じゃな」
「使えそうな場面があったので」
バイキンマンが短く鼻を鳴らした。
「……悪い奴だ」
「研究を続けましょう。今日はここまでで十分ですか」
「十分だ。次回は焼成方法の改良の話をしたい」
「日程を調整します」
「頼む」
帰り際、バイキンマンが廊下を通った。
バタコさんが廊下の端に立っていた。
目が合った。
バタコさんが先に言った。
「聞こえていたわ。少し」
「……そうか」
「たかしさんが作ったっていうのは——知らなかった」
「知らなくていいことだと思っていた」
「でも、知れてよかった」
バイキンマンが少し止まった。
「……なぜだ」
「理由はわからない。でも——知れてよかったと思う」
バタコさんが少し笑った。
「バイキンマン」
「なんだ」
「たかしさんに、ありがとうと伝えたかったけど——伝えられないから」
「ああ」
「あなたに言う。たかしさんが作ってくれて、よかった」
バイキンマンは少し黙った。
「……あいつが聞いたら、喜んだと思う」
「そうね」
バイキンマンがマントをひるがえした。
表口から出ていった。
足音が遠ざかって、空に上がる音がした。
夜のメモ帳。
共同研究セッション第一回。外壁突破のエネルギーフローの話。パンエネルギーの密度を上げる研究が必要と判明。次回は焼成方法の改良について。
バタコさんの出自の話が出た。バタコさん本人が廊下で聞いていた。
書きながら、ケンはバタコさんとバイキンマンの廊下での会話を思い返した。
たかしさんが作ってくれて、よかった。
その言葉を聞いた時のバイキンマンの顔を、ケンは見ていなかった。廊下の向こうだったから。
でも——声で、わかった気がした。
喜んでいた。
バイキンマンは、喜んでいた。
ケンはペンを置いた。
チーズが足元に来た。
窓の外に星が出ていた。
この世界に来て、百日を超えた。




