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第7話 骨の参謀

 窯の増設作業は、思ったより地味だった。


 ジャムおじさんが設計図を紙に書き出した。図面というより、覚え書きに近かった。寸法が書いてあり、素材が書いてあり、ところどころに「ここは勘で」と書いてあった。


「勘で、というのは」


「長年の経験で最適な厚みがわかっておる。数値にするのが難しいんじゃ」


「数値にする方法を一緒に考えましょうか」


「あんたがいれば数値にせんでもいいんじゃないか」


「俺がいない時のためです」


 老人がケンを見た。


「……わしより先のことを考えておるな」


「必要なことなので」


 老人は少し笑って、設計図の余白に書き足し始めた。数値と、それを測る方法を。


 材料は村の石工から取り寄せた。耐熱レンガと、接合のための特殊な泥。ジャムおじさんが調合方法を知っていた。ケンはその分量を記録した。


 作業は三日かかる予定だった。




 二台目の窯の基礎を作り始めた翌日の昼過ぎ、ケンは工場の裏手で耐熱レンガの数を確認していた。


 ひとつ、ふたつ、と数えながら、メモ帳に書き込んでいた。


「鈴木ケン、で間違いないですか」


 声がした。


 聞いたことのない声だった。低く、乾いた、感情の薄い声だ。


 ケンは手を止めて、振り返った。


 ローブを纏った人影が立っていた。


 頭部が——骨だった。


 白い骨格。眼窩に、かすかな光がある。体はローブに隠れているが、細い。手の甲が見えた。やはり骨だった。


 ケンはその姿に見覚えがあった。


 ホラーマン。バイキン帝国の参謀。バイキンマンの作戦立案と情報分析を担う幹部。


 チーズは今日、アンパンマンと一緒に哨戒に出ていた。バタコさんは村への買い出し中だ。ジャムおじさんは工場の中にいる。


 一人だった。


「そうです」


 ケンは答えた。声は、自分でも驚くくらい普通だった。


「少し話せますか」


「攻撃してきますか」


「しません。今日は一人で来ました。バイキンマンも知らない」


「ドキンちゃんと同じですね」


 ホラーマンが少し止まった。


「……そのことを知っているんですか」


「本人から聞きました。ジャム目当てで来たと」


「そうですか」


 ホラーマンは一歩近づいた。ケンは動かなかった。


「話を聞きます。ただ、工場の中の情報は話せません」


「それで構いません。聞きたいのは——工場のことではない」




 ケンはレンガの上に腰を下ろした。


 ホラーマンは立ったままだった。座るという動作が、この体では難しいのかもしれない。


「何を聞きたいですか」


「あなたが来た世界のことです」


 ケンは少し間を置いた。


「俺の前の世界、ということですか」


「そうです。どんな世界でしたか」


「……具体的に何が知りたいですか」


「何でも。景色でも、匂いでも、仕事でも」


 不思議な質問だった。


 ケンはホラーマンを見た。骨の顔。眼窩の奥の光。感情は読めない。でも——声のトーンが、情報収集のそれではなかった。もっと個人的な、何かを確かめるような問い方だった。


「どうして俺に聞くんですか」


「あなたから——似た匂いがするから」


「似た匂い」


「別の世界の匂いです。ジャムおじさんとも違う、もっと近い世界の」


 ケンはその言葉を頭の中に置いた。


 バイキン帝国の参謀が、別の世界の匂いを感知できる。


 なぜそんなことができるのか、今は理由がわからない。でも嘘をついている様子はない。


「俺の前の世界は」


 ケンはゆっくり話し始めた。


「都市でした。コンクリートとアスファルトで作られた街。建物が密集していて、人間がたくさんいた。空気はあまり綺麗じゃなかった。でも飯は美味かった」


「飯」


「食べ物です。色んな種類があって、安くて、すぐ手に入った。コンビニという店が街中にあって、二十四時間開いていた」


「二十四時間」


「眠らない店です。夜中でも明るくて、食べ物が買えた」


 ホラーマンが少し黙った。


「……その世界に、パンはありましたか」


「ありました。種類が多すぎるくらい。食パン、あんパン、クロワッサン、バゲット——棚一面に並んでいた」


「食パン」


「はい」


「どんな味でしたか」


 ケンは少し考えた。


「素朴な味です。小麦と塩と少しのバター。焼いたばかりのは耳がパリパリしていて、中がふわふわで——朝に食べると、一日が始まる感じがした」


 ホラーマンはしばらく黙っていた。


 長い沈黙だった。


 骨の顔に表情はない。でもその沈黙の中に、何かがある。言葉にならない何かが、そこにある気がした。


「ホラーマンさん」


「なんですか」


「なぜ食パンを聞くんですか」


 また沈黙があった。


 今度は、もっと長かった。


「……私の中に、記憶があります」


 ホラーマンがゆっくり言った。


「記憶」


「食パンを食べた記憶です。白い、四角い。バターを塗って食べた。朝の、明るい場所で」


「それは、あなた自身の記憶ですか」


「わかりません」


 ホラーマンの声が、わずかに変わった。乾いた声のままだが、どこかに——困惑のような、小さな揺らぎがあった。


「自分の記憶なのか、それとも別の何かなのか、判然としないんです。でも——消えない」


 消えない記憶。


 ケンにもある。前の世界の、消えない記憶が。冬の倉庫の匂い。田中の背中。荷物が崩れてきた瞬間の音。


「消えなくていいんじゃないですか」


 ケンは言った。


「消えない理由があるから、消えないんだと思います」


 ホラーマンが動かなかった。


 骨の顔。感情が読めない。でも——眼窩の光が、わずかに揺れたような気がした。




「一つ聞いていいですか」


 ケンから聞いた。


「なんですか」


「あなたがバイキンマンの参謀をしているのは、なぜですか」


「役割だからです」


「役割、というのは」


「私はそのために作られた。分析し、計画を立て、バイキンマンを支える。それが私の機能です」


「機能、と言いますが——今日ここに来たのは機能のためじゃないですよね」


 ホラーマンが少し止まった。


「……そうですね」


「今日来た理由は何ですか。本当の理由」


 長い沈黙があった。


 ケンは急かさなかった。レンガの上に座ったまま、風が草を揺らす音を聞いていた。


「確かめたかった」


 ホラーマンがようやく言った。


「何を」


「あなたが——その記憶の世界から来た人間かどうか」


「俺が食パンを知っているかどうか、ということですか」


「それだけではない。でも——そういうことに、近い」


 ケンはホラーマンを見た。


 バイキン帝国の参謀が、目的も言語化できないまま、単独でここに来た。バイキンマンにも内緒で。


 それは、計算や分析で動く人間のすることじゃない。


 もっと、衝動に近い何かで動いている。


「確かめられましたか」


「……はい」


「それで」


「それで、十分です」


 ホラーマンが立ち上がった。帰る気配だった。


「また来ますか」


 ケンが聞いた。


 ホラーマンが少し止まった。


「……バイキンマンが許可しません」


「今日も許可なしに来ましたよね」


「それは——」


「また来たければ、来ていいと思います。話を聞きます」


 ホラーマンが振り返った。骨の顔がケンを見た。


「なぜそう言うんですか」


「あなたが消えないと言った記憶が、俺のいた世界と繋がっているなら——俺にも、聞きたいことがあるかもしれないから」


「あなたが、私に?」


「そのうちに」


 ホラーマンは少し黙った。


「……あなたは、変な人間ですね」


「よく言われます」


「バイキンマンも同じことを言っていた」


「そうですか」


「そうです」


 ホラーマンはローブをひるがえして、歩き出した。


 工場の裏手を回って、姿が消えた。


 足音がしなかった。来た時も、帰る時も。




 夜、ケンはメモ帳の新しいページを開いた。


 ホラーマンとの会話。記憶の中にある食パンの話。「確かめたかった」という言葉。


 書きながら、頭の中で整理した。


 ホラーマンはバイキン帝国の参謀だ。骨格のアンドロイドで、ナノロボットで動いている——とジャムおじさんから少し聞いていた。それ以上の詳細は、まだわからない。


 でも今日の会話で、一つだけはっきりした。


 ホラーマンの中に、別の世界の記憶がある。それも、ケンがいた世界に近い場所の記憶が。


 なぜそんな記憶があるのか。


 誰の記憶なのか。


 ケンにはまだわからない。でも——消えない記憶があると言った時の、あの声の揺らぎは本物だった。


 ペンを止めて、天井を見た。


 田中のことを思った。


 前の世界で庇った、あの新人社員。田中健太。あの子は今頃どうしているだろう。


 ——なぜ急に田中を思い出したのか、自分でもわからなかった。


 ただ、ホラーマンが「消えない記憶」と言った時、なぜかあの子の顔が浮かんだ。


「考えすぎか」


 ケンは声に出して言った。


 チーズが顔を上げた。


「寝ろ。俺も寝る」


 チーズがまた丸まった。


 メモ帳を閉じた。


 窓の外で風が鳴っていた。


 この世界に来て、もうすぐ三週間になる。

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