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第6話 初めての限界

アンパンマンが戻ってきた時、様子がおかしかった。


 バイト十七日目の夕方。ケンは工場の表口で翌日の焼成スケジュールを確認していた。空が赤く染まり始めた頃、アンパンマンが降りてきた。


 着地がいつもと違った。


 ふらついた。右足が一歩、余計に出た。体勢を立て直すのに一秒かかった。


 ケンは立ち上がった。


「アンパンマンさん」


「……ただいま」


 声が低かった。息も、少し乱れている。


「どのくらい消耗していますか」


「残量——たぶん、三十パーセントくらい」


「顔は」


「無事。ぶつかってはいない」


「怪我は」


「ない。でも——」


 アンパンマンが広場の端に座り込んだ。珍しかった。いつもは工場の中に入るまで座らない。


「何かあったんですか」


 アンパンマンはしばらく黙っていた。


 それから、言った。


「黒い機体に会った」




 工場の中で、ジャムおじさんとバタコさんを呼んだ。


 カレーパンマンと食パンマンには通信で繋いだ。


 アンパンマンが話し始めた。


「北の巡回をしていたら、山の稜線から出てきた。黒い、人型の機体。俺と同じくらいの体格だった」


「攻撃されましたか」


 ケンが聞いた。


「された。でも——妙な攻撃だった」


「どう妙だったんですか」


「殺しに来ていない。試している感じだった」


 カレーパンマンの声が通信越しに言った。


『俺が先日見た機体と同じだ。動き方が特殊だと言っただろう』


「そう。動き方が——俺の攻撃を、最初から知っているみたいだった」


 ケンは頭の中で設定アーカイブを思い出した。


 ブラックノワール。コピーアナライズ。相手のスキルをスキャンし、劣化コピーを即座に生成する。カウンターブレイク。相手の攻撃パターンを学習し、二回目以降は完璧に対処する。


「最初の一撃は当たりましたか」


「当たった。でも二撃目からは全部避けられた」


「アンパンチは」


「一回打った。かすった。でもほとんどダメージがなかった」


 バタコさんが言った。


「アンパンチが効かなかったの?」


「効かなかったというより——吸収された。黒いオーラみたいなものが全身にあって、それがパンチを受け止めた」


 バイキンアーマー、とケンは思った。腐食性の黒いオーラ装甲。


「どのくらい戦いましたか」


「五分くらい。向こうから引いた。最後に——」


 アンパンマンが少し間を置いた。


「最後に、こっちを見て言った。『データは十分だ』と」


 沈黙が落ちた。


 通信越しに、カレーパンマンの低い声がした。


『データを取りに来た。こちらの戦闘パターンを記録しに』


「そういうことだと思います」


 ケンが言った。


「次に来た時は——カウンター込みで来る」




 夜、対策会議になった。


 珍しく食パンマンの機体も工場に来ていた。地下のロイヤルローフのエネルギー残量が安定していたため、今日は動ける日だったらしい。


 テーブルを囲んで、四人と二人が向かい合った。四人はアンパンマン、カレーパンマン、食パンマン、バタコさん。二人はジャムおじさんとケン。


「カウンター込みで来る、ということは」


 食パンマンが言った。


「今まで通りの戦い方では通じない」


「そうなります」


「攻撃パターンを変えれば」


「相手は学習します。変えた後のパターンも、二回目からは対処される」


「では——」


「初見の動きを毎回作るか、学習できない速さで動くか、あるいは」


 ケンは少し間を置いた。


「三人同時に当たれば、処理が追いつかない可能性があります」


 カレーパンマンが腕を組んだ。


「同時に動けば、どれか一つはすり抜ける」


「理論上は。ただ——」


「ただ?」


「三人が同時に消耗します。補給のタイミングが重なる」


 バタコさんが言った。


「それが問題ね。一人ずつなら順番に対応できる。でも三人同時だと」


「焼成が間に合わない可能性があります。今の設備では三個を同時に最高品質で焼くのは難しい」


 沈黙があった。


 ケンは自分が言ったことの意味を、改めて確認するように頭の中で繰り返した。


 三人が同時に消耗したら、補給が間に合わない。


 今まで、補給が間に合わなかったことはなかった。在庫を確保して、スケジュールを組んで、一個ずつ丁寧に焼いてきた。それで機能してきた。


 でも、今回は——一個ずつでは足りないかもしれない。


 初めての感覚だった。


 管理の限界、ではない。設備の限界だ。焼ける速度に、物理的な上限がある。


「窯を、もう一台増やせますか」


 ケンはジャムおじさんに聞いた。


 老人は少し考えた。


「作れなくはない。ただ——時間がかかる」


「どのくらい」


「一週間以上じゃな」


「設計図はありますか」


「わしの頭の中に」


「書き出せますか。俺が材料の手配をします」


 ジャムおじさんがケンを見た。


 その目が、少し細くなった。


「……あんた、窯を作ることに口を出すのか」


「窯が増えれば補給速度が上がります。補給速度が上がれば三人が安全になります。俺の仕事の範囲内だと思います」


「なるほど」


 老人は少し笑った。


「わかった。明日、書き出す」




 会議が終わって、三人が帰った後。


 ケンは一人で作業台の前に残っていた。


 今日の焼成記録をメモ帳に書きながら、頭の中で今夜の会議を反芻していた。


 補給が間に合わない可能性がある、と言った。


 言いながら、少し怖かった。


 ケンはこの十七日間、一度も在庫を切らしていない。一度も補給が遅れていない。それが自分の仕事だと思っていた。でも今日、初めて「間に合わないかもしれない」という状況を自分の口で言った。


 管理でカバーできないことがある。


 それは当たり前のことだ。前の世界でも、どんなに在庫管理を徹底しても、トラック事故や工場火災が起きたら対応できなかった。外部の要因は管理できない。


 でも——


「まだいたの」


 バタコさんの声がした。


 奥の部屋から戻ってきたらしい。エプロンを外しながら、ケンの横に立った。


「記録を整理していました」


「アンパンマン、落ち込んでたわ」


「アンパンチが効かなかったことですか」


「そう。あの子、あれが唯一の必殺技だから」


「他にも技はあります」


「でも本人的には——アンパンチが通じないのは、自分の一番を否定されたみたいな感覚があるんだと思う」


 ケンはペンを置いた。


「明日、話してみます」


「何を話すの」


「アンパンチが通じなかった理由と、次に通じさせる方法を」


 バタコさんが少し目を細めた。


「通じさせる方法があるの?」


「あります。相手が学習するなら、学習できないタイミングで打てばいい」


「どういうこと?」


「カウンターブレイクは、相手の攻撃パターンを学習する。でも学習には一瞬の時間がかかるはずです。その隙間——たとえばカレーパンマンが注意を引いた直後、食パンマンのバリアが展開された瞬間——に打てば、相手の学習が間に合わない可能性がある」


 バタコさんが黙っていた。


「……それ、三人の連携が完璧にないと成立しない」


「そうです。だから今すぐは難しい。でも方向性として、アンパンマンに持っておいてもらえれば」


「なんで私に話すの。本人に直接言えばいい」


「バタコさんから聞いた方が、アンパンマンは受け取りやすいと思って」


 バタコさんが少し止まった。


「……なんで?」


「バタコさんはずっと見てきた人だから。俺より言葉の重さが違います」


 バタコさんはしばらく黙っていた。


 それから、小さく息を吐いた。


「……伝えるわ。私なりの言い方で」


「お願いします」


「あなたに頼まれるのも、だいぶ慣れてきたわね」


「迷惑でしたか」


「迷惑じゃない。ただ——」


 バタコさんが少し笑った。


「来て十七日で、ここの中枢みたいになってるわよ、あなた」


「バイトです」


「わかってる。でも、そうなってる」




 その夜遅く、ケンは地下室に降りた。


 バターの補給の日ではなかったが、少し気になることがあった。


 ワンさんが計器の前にいた。ほかの四体は休眠中らしく、部屋の隅で静かにしていた。


「夜分にすみません」


「いえ。どうされましたか」


「本体の今日の状態を確認したかったんです。食パンマンが長時間動いていたので」


「エネルギー残量、五十一パーセント。ギリギリですが許容範囲内です」


「膨張率は」


「変化なし。安定しています」


「よかった」


 ケンはロイヤルローフを見た。


 黄金色の表面。静かな脈動。


「今日、対策会議がありました」


 ワンさんに言うでもなく、ロイヤルローフに向けるでもなく、ただ言った。


「難しい相手が来ます。三人が同時に消耗するかもしれない。俺の管理だけでは追いつかない場面が来るかもしれない」


 部屋が静かだった。


「でも——できることをやります。窯を増やす手配をします。スケジュールを見直します。足りない部分は正直に言います」


 脈動が、少し変わった気がした。


 いつものように、「気がした」だけだ。確認しようがない。


 でも今日は、それで十分だった。


「おやすみなさい」


 ケンは階段を上がった。


 地下室の静けさが、背中についてくるようだった。




 夜のメモ帳、最後の一行。


 ——窯、二台目の手配。明日ジャムおじさんから設計図を受け取る。


 ペンを置いた。


 チーズが足元にいた。


 今日は、初めて「足りないかもしれない」と思った日だった。


 でも、足りない分を埋める方法を考えた日でもあった。


 それで、十分だ。

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