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第41話 居場所と善意と

ブラックノワールが工場の近くにいることに、最初に気づいたのはチーズだった。


 百六十二日目の朝。ケンが裏手の広場で光粉の状態を確認していると、チーズが北の方角に向かって一声吠えた。警戒音ではない。でも知らせる声だった。


 ケンが見ると、工場の外壁に沿った木立の陰に、黒い影が立っていた。


 ブラックノワールだった。


 何もしていない。ただ、立っている。


「来ていたんですか」


「……来ていた」


「いつからですか」


「今朝から」


「何か用がありましたか」


「……ない」


 ケンは少し考えた。


「入りますか」


「入っていいか」


「どうぞ」




 作業室に入って、ブラックノワールが椅子に座った。


 ケンがお茶を置いた。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 カレーパンマンが補給に来て、ブラックノワールを見て少し止まった。


「何の用だ」


「用はない」


「用もなく来たのか」


「そうだ」


 カレーパンマンがケンを見た。ケンが少し頷いた。カレーパンマンが補給パンを受け取って、外に出た。出る前に振り返って、ブラックノワールを一度見た。それだけだった。


 ブラックノワールがお茶を一口飲んだ。


「ケン」


「はい」


「俺は——なぜここにいるんだ」


「俺に聞くんですか」


「お前以外に聞ける者がいない」


 ケンは少し考えた。


「戦闘がない時でも、ここに来たかったんですか」


「……来ていた。気づいたら来ていた」


「理由はわかりますか」


「わからない。ブラックノーズの命令でもない。バイキンマンに頼まれたわけでもない。ただ——」


「ただ」


「ここが、落ち着く」


 ケンはその言葉を、静かに受け取った。


「落ち着く」


「おかしいか」


「おかしくないです」


「俺はこの工場の敵だった。命令でケンを排除しようとしていた」


「していましたね」


「なぜ、そんな俺がここで落ち着くんだ」


 ケンは少し間を置いた。


「居場所になったんじゃないですか」


「居場所」


「ここに来るたびに、何かがあった。話した。動いた。役に立てた。そういう場所は——居場所になります」


 ブラックノワールが動かなかった。


「居場所、か」


「そう呼んでいいと思います」


「俺が——ここを居場所にしていいのか」


「ダメだと思う理由はないです」


「でも俺は」


「でも、今はここにいる。それで十分じゃないですか」


 ブラックノワールが少し間を置いた。


「……お前は、いつもそういう言い方をするな」


「今のままでいい、という言い方ですか」


「そうだ。過去を問わない」


「過去は変えられないので、問っても意味がないです。今何をするかだけが変えられる」


「在庫管理の発想か」


「そうです。消費した分は消費した。でも今の在庫は今の量だ。それをどう使うかを考えます」


 ブラックノワールが少し、首を傾けた。


「……面白い考え方だ」


「そうですか」


「俺には思いつかなかった」


「それぞれ、得意な考え方があるので」




 昼過ぎ、ドキンちゃんが来た。


 今日は手に何かを持っていた。小さな瓶だった。


「なんですか、それ」


「ジャム。昨日、城で作ってみた」


「ドキンちゃんが作ったんですか」


「さんちゃんのを見ていたら、自分でもやってみたくなって」


 さんちゃんに見せると、さんちゃんが瓶を受け取って蓋を開けた。一口味見した。


「……美味しい」


「本当に?」


「うん。ちょっと甘すぎるかな、でも基本はできてる」


「甘すぎる?」


「砂糖の量を少し減らすといいかも。あとは——もう少し煮詰めると、とろみが増す」


「教えてくれる?」


「もちろん」


 さんちゃんとドキンちゃんが、地下の作業場でジャム作りを始めた。


 ケンが補給作業を続けながら、横目で見ていた。


 ドキンちゃんが真剣な顔で鍋をかき混ぜていた。わがままで、食いしん坊で、バイキンマンに駄々をこねるドキンちゃんが——今日は静かに、集中していた。




 夕方、バイキンマンが来た。


 表口から入ってきて、工場の中を見渡した。


「ドキンちゃんはいるか」


「地下でさんちゃんとジャムを作っています」


「……また来ていたのか」


「昨日も来ましたか」


「昨日は城でジャムを作ると言って出かけた。ここに来ていたのか」


「今日は来て、さんちゃんに教えてもらっています」


 バイキンマンが少し呆れた顔をした。


「仕方がない奴だ」


「迎えに来たんですか」


「そうだ。城に戻らないから」


「もう少しかかると思います。一緒に待ちますか」


「……待つ」


 バイキンマンがテーブルに座った。


 ブラックノワールがまだ部屋の隅にいた。バイキンマンがブラックノワールを見た。


「お前もいたのか」


「いた」


「何の用だ」


「用はない」


「用もなく来たのか」


「そうだ」


 バイキンマンが少し間を置いた。


「……そうか」


 それ以上何も言わなかった。


 ケンはその会話を聞きながら、お茶を二人分足した。




 地下からドキンちゃんの声が聞こえてきた。


「できた!」


 しばらくして、ドキンちゃんが地下から上がってきた。


 手に新しい瓶を持っていた。


「バイキンマン」


「遅い」


「ごめん。でも——見て、これ。さんちゃんに教えてもらって、もう一回作った。今度はとろみもちゃんとついてる」


 バイキンマンが瓶を見た。


「お前が作ったのか」


「そう。自分で作ったの」


「なぜ」


「なぜって——」


 ドキンちゃんが少し考えた。


「さんちゃんのジャムが美味しかったから、自分でも作れたらいいと思って。それだけ」


「城に持って帰るのか」


「バイキンマンに食べてほしいから作った」


 バイキンマンが、少し動きを止めた。


「俺に」


「そう。あなたが美味しいって言うかどうか、聞きたい」


 ケンはその場面を、横で静かに見ていた。


 バイキンマンがドキンちゃんを見ている目。


 怒っていない。呆れてもいない。


 ただ——見ていた。


 その目の中に、ケンが今まで何度も見てきた「バイキンマンの素顔」があった。


 たかしさんの死に泣いた存在。山の上で空を見ていた存在。ドキンちゃんの頭に手を置いた存在。


「……持って帰れ」


「試食してからでいい?」


「ここで食べるのか」


「ダメ?」


「……好きにしろ」


 ドキンちゃんがバターロールを一つもらって、さんちゃんのジャムと自分で作ったジャムを両方塗って、食べ比べた。


「……違う。さんちゃんのより少し酸っぱい。でも、これはこれで美味しい」


「さんちゃんのの方が美味いだろう」


「違う味だから、比べられない」


「減らず口だな」


「本当のことを言ってるの」


 バイキンマンが短く鼻を鳴らした。


 でも——口元が、わずかに緩んでいた。




 二人が帰った後、ケンは一人で作業室に残った。


 ブラックノワールも、夕方のうちにどこかへ去っていた。


 バタコさんが片付けをしながら言った。


「今日は賑やかだったわね」


「そうですね」


「ドキンちゃん、変わったわね」


「変わりましたね。前はジャムをもらいに来るだけだった」


「今日は作り方を覚えようとしていた」


「はい」


「バイキンマンのために作った、って言ってたわね」


「聞こえていましたか」


「聞こえていたわ」


 バタコさんが少し笑った。


「バイキンマン、嬉しそうだったじゃない」


「そうでしたね」


「隠してたけど、わかるわよ、長く一緒にいると」


「俺にもわかりました」


「ケンさんも長くなったのね、ここに」


「百六十二日ですから」


「長いわね」


「長いです」


 ケンは少し間を置いた。


「バタコさん、一つ聞いていいですか」


「なに」


「バイキンマンがドキンちゃんを作った時——どういう気持ちで作ったと思いますか」


 バタコさんが手を止めた。


「突然ね」


「今日の場面を見ていて、気になりました」


「……私は、バイキンマンから直接聞いたわけじゃないから、わからない。でも」


「でも」


「あの目は——大切にしている目よ。作ったものを、大切にしている」


「悪意から生まれた存在が、大切にされている」


「そうね。でも——悪意から生まれた存在が、あんなふうに受け取られるかしら」


「どういう意味ですか」


「さんちゃんのジャムを美味しいと思って、自分でも作れるようになりたいと思って、バイキンマンに食べさせたいと思う。そういう子が——悪意から作られるかな、と思って」


 ケンは少し止まった。


「……そうですね」


「ケンさんは、どう思う」


「俺も——同じことを思い始めています」


「同じこと」


「悪意から作られた存在は、誰かを喜ばせようとしない。ドキンちゃんは——バイキンマンを喜ばせようとした。それは」


 ケンは少し間を置いた。


「善意から生まれた存在がすることだと思います」


 バタコさんが頷いた。


「でも——バイキンマンは自分が悪の存在だと思っている」


「思っています」


「だとしたら」


「だとしたら——バイキンマンは、自分の中に善意があることを知らない」


 バタコさんが静かに言った。


「いつか、誰かが教えてあげなきゃいけないわね」


「はい」


「それは——ケンさんがやるの?」


 ケンは少し考えた。


「……やるべき時が来たら、やります。でも今日はまだ、じゃないと思います」


「なぜ」


「今日気づいたばかりだから。もう少し、確かめてから」


 バタコさんが少し笑った。


「メモ帳に書いておきなさい」


「書きます」




 夜のメモ帳。


 ブラックノワールが用もなく工場に来ていた。「ここが落ち着く」と言った。「居場所になった」と伝えた。


 ドキンちゃんがさんちゃんにジャム作りを教わった。バイキンマンのために作った。


 バイキンマンがドキンちゃんを見ていた目——大切にしている目だった。


 今日のバタコさんとの会話から:ドキンちゃんがバイキンマンを喜ばせようとした。それは善意から生まれた存在がすること。バイキンマンは自分の中に善意があることを、まだ知らない。


 書いて、ケンは少し手を止めた。


 一行追加した。


 ——バイキンマンがドキンちゃんを作った時の気持ちは、まだ確認していない。でも——ドキンちゃんがバイキンマンに向ける気持ちを見れば、答えはわかる気がする。愛情から生まれた存在は、愛情で動く。


 窓の外に星が出ていた。


 チーズが足元で丸まった。


 この世界に来て、百六十二日目の夜だった。


 ケンはメモ帳を閉じた。


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