第42話 工事見学
ミミ先生から手紙が来たのは、百六十三日目の朝だった。
村の子供を連れて工場を見学させてほしい、という内容だった。社会見学の一環として、パンがどのように作られているかを子供たちに見せたい。日程はこちらに合わせます、と丁寧に書いてあった。
ケンがバタコさんに見せると、バタコさんが少し考えてから言った。
「ジャムおじさんに聞いてみましょう」
ジャムおじさんは、手紙を読んで少し目を細めた。
「……来てもらいなさい。この工場は、村の子供たちのためのパンを作っているんじゃから」
「いつにしますか」
「三日後はどうかな。それまでに少し片付けもできる」
ケンはミミ先生に返事を書いた。
三日後、午前中。五人まで。
当日の朝、ケンは五時に起きた。
いつもより一時間早い。見学に合わせて、朝の焼成を早めに終わらせておきたかった。焼き立てのパンを見せてあげたいし、触らせてあげたいし、できれば少し手伝いもさせてあげたい。
バタコさんが降りてきた。
「早いわね」
「見学の準備です」
「何から始めるの」
「今日の焼成を早めに終わらせます。それから保管庫を整理して、子供が入れるスペースを作ります。あとは生地を少し多めに用意して、子供たちに触らせてあげます」
バタコさんが少し目を丸くした。
「ちゃんと考えてるのね」
「メモしていました。昨夜」
「……そういうとこよね、あなたは」
九時半、子供たちが来た。
カバオくん、ちびぞうくん、ウサコちゃん、ピョン吉くん、そして今日は初めて来る子がいた。
小さなクマの男の子——くまお、と呼ばれていた。少し引っ込み思案で、ミミ先生のスカートをつかんでいた。
「いらっしゃいませ」
「ケンさん!」
カバオくんが走ってきた。
「走らない」
「あ、ごめんなさい」
珍しく謝った。
ミミ先生が頷いた。
「ちゃんと言えたわね、カバオくん」
「えへ」
ケンがくまおの前に膝をついた。
「初めまして。ケンといいます。工場で働いています」
くまおが少し上目遣いでケンを見た。
「……くまお」
「くまおくんですね。今日はよく来てくれました」
「パン、好き」
「よかったです。今日、一緒に作りましょう」
くまおの目が、少し輝いた。
まず工場の中を案内した。
窯を見せた。カバオくんが「おっきい! 前より大きくなってる!」と言った。前回来た時より窯が一台増えていた。
「そうですね。増やしました」
「なんで増やしたの」
「たくさん焼けた方が、みんなに届けられるから」
「じゃあ、ぼくたちのためにも増やしてくれたの?」
「そういうことになります」
「やった!」
ちびぞうくんが保管庫を覗いた。
「こんなにいっぱいあるの?」
「材料の在庫です。無くならないように管理しています」
「なくなったらどうなるの」
「パンが作れなくなります」
「それは大変だ」
「そうです。だから毎日確認します」
ウサコちゃんが光粉の瓶を見つけた。
「これ、光ってる」
「光粉です。パンに混ぜると、特別なエネルギーが生まれます」
「食べても大丈夫?」
「大丈夫です。でも子供には少し強すぎるかもしれないので、今日は使いません」
「残念」
「また大きくなったら」
ウサコちゃんが「絶対来る」と言った。
くまおが、ケンの袖をそっと引いた。
「……あの、大きいパン、あるの」
「大きいパン、というのは」
「地下に——大きいパンがいるって、カバオくんが言ってた」
カバオくんが「そうそう、地下に食パンがいるって!」と言った。
ケンは少し考えた。
「見たいですか」
「……うん」
ワンさんに事前に連絡を入れていた。子供たちを連れていく、と。
ワンさんが「どうぞ」と言ってくれた。
地下に降りると、スライス隊が全員並んでいた。
子供たちが入ってきた瞬間、全員が少し止まった。
ロイヤルローフが——そこにあった。
黄金色の巨大な食パン。高さ三メートル。静かな脈動。
くまおが、声を失った。
カバオくんも、珍しく黙った。
ちびぞうくんが「でかい……」と小声で言った。
ウサコちゃんが「生きてるの?」と聞いた。
「生きています。この工場の一番大切な存在です」
「触っていいの?」
「優しくなら」
ウサコちゃんが、そっと手を伸ばした。
触れた瞬間、脈動が少し変わった。
「……温かい」
「そうですね」
くまおが、恐る恐る近づいた。
ロイヤルローフを見上げた。
それから、小さな手を伸ばした。
触れた瞬間——くまおの目が、ふわりと柔らかくなった。
「……おいしそう」
ワンさんが思わず笑った。
さんちゃんが「ありがとうございます」と言った。
ごちゃんが記録ノートに書いた。「くまお様:おいしそうとのご意見」
パン作り体験は、午前の後半にやった。
子供たちに生地を触らせた。
バタコさんが指導した。
「まず、こうやって伸ばして——」
「べたべたする!」
「そうね。それが普通よ」
「ぼくのはやぶれた」
「気にしない。次はうまくできる」
カバオくんが張り切って生地を伸ばしすぎた。薄くなりすぎて穴が開いた。
「あ、穴あいた」
「大丈夫。重ねてもう一回伸ばせばいい」
「ほんとに?」
「パン作りは、失敗してもやり直せることが多いの」
「やった!」
ちびぞうくんが丁寧にやっていた。慎重に、少しずつ。
「ちびぞうくんは上手ですね」
「……ゆっくりやると、うまくいく気がして」
「そうですね。急がなくていいです」
ウサコちゃんが丸めた生地を見せた。
「ケンさん、これどう?」
「きれいに丸まっています」
「ほんとに?」
「本当に」
「えへへ」
くまおが、生地をじっと見ていた。
「くまおくん、どうしましたか」
「……なんか、かわいい」
「生地が、ですか」
「うん。丸くて、やわらかくて——かわいい」
「そうですね」
「ぼく、これ、誰かにあげたい」
「誰にあげたいですか」
「……おかあさんに」
ケンは少し間を置いた。
「焼いてから持って帰りましょう。お母さんに届けられるように包んであげます」
「いいの?」
「もちろんです」
くまおが、嬉しそうな顔をした。
昼前、バイキンマンが来た。
今日は連絡なしだった。表口を開けると、工場の中の声がいつもと違うことに気づいたのか、少し立ち止まっていた。
「今日は来客中です」
「来客」
「村の子供たちが見学に来ています」
バイキンマンが中を覗いた。
子供たちがパン生地を丸めている。バタコさんが指導している。ケンが横で見守っている。
「……入らない方がいいか」
「入れますが、子供たちが驚くかもしれません」
「そうか。では外で待つ」
バイキンマンが表口の外に出た。
子供たちが窯に入れたパンを待っている間、ケンが外に出た。
「バイキンマン、少しいいですか」
「なんだ」
「子供たちに、外の空気を吸わせようと思っています。その時——顔を見せてもらえますか」
「俺を? 子供に?」
「子供たちは、アンパンマンさんをよく知っている。バイキンマンのことも、名前くらいは知っているかもしれない」
「怖がらせる可能性がある」
「そうかもしれません。でも——怖がらせないで会える可能性もある。どうですか」
バイキンマンが少し間を置いた。
「……お前が、そう言うなら」
焼きたてのパンを待ちながら、子供たちを外に出した。
広場に出た瞬間、カバオくんが「あ!」と言った。
「バイキンマンだ!」
バイキンマンが少し身を固めた。
カバオくんが走ってきた——ではなく、少し立ち止まって、バイキンマンを見た。
「本物だ」
「そうだ」
「ぼく、バイキンマンってもっと怖いと思ってた」
「……怖くないのか」
「怖いかな——でも、なんか、思ってたのと違う」
「どう違う」
「もっとでかいと思ってた」
バイキンマンが少し止まった。
「……そうか」
ちびぞうくんが近づいてきた。
「バイキンマンって、アンパンマンと戦うんでしょ」
「そうだ」
「なんで戦うの」
バイキンマンが少し間を置いた。
「……色々ある」
「色々」
「そうだ。一言では言えない」
「そっか」
ちびぞうくんがうんうんと頷いた。
「うちのお父さんも、仕事のことを聞いたら一言では言えないって言ってた。難しいんだね、色々あると」
バイキンマンが、少し表情が変わった。
くまおがバイキンマンの前に来た。
見上げた。
手に、焼き立てのパンを持っていた。
「……どうぞ」
「俺に、か」
「さっき、ケンさんが——自分で作ったパンを誰かにあげると嬉しいって言ってた」
「俺が言ったのは——」
ケンが静かに首を振った。
「くまおくんが作ったパンです。受け取ってあげてください」
バイキンマンが、くまおを見た。
小さなクマの男の子が、一生懸命丸めたパンを、両手で差し出している。
バイキンマンが——受け取った。
「ありがとう」
くまおが、ぱっと笑顔になった。
「おいしいといいな」
「……そうだな」
子供たちが帰った後、バイキンマンはしばらく広場に残っていた。
手の中に、くまおのパンを持ったまま。
ケンが横に来た。
「どうですか」
「……小さいな」
「くまおくんが初めて作ったパンです」
「歪んでいる」
「初めてなので」
「でも——」
バイキンマンが少し間を置いた。
「重い」
「重い」
「こんな小さなパンが——重く感じる」
「誰かが、誰かのために作ったものは——そういうものだと思います」
バイキンマンが、パンを見た。
「たかしさんが——この世界を作った時も、こんな感じだったのかもしれない」
「どういうことですか」
「誰かのために作ったものは——小さくても重い」
ケンはその言葉を、静かに受け取った。
「そうですね」
「……帰る」
「はい」
「このパン——食べる」
「くまおくんが喜びます」
「あいつに伝えておけ」
「伝えます」
バイキンマンがマントをひるがえした。
空に上がった。
南の方角に消えていった。
夜のメモ帳。
ミミ先生と子供たち五人、工場見学。カバオくん、ちびぞうくん、ウサコちゃん、ピョン吉くん、くまお。
ロイヤルローフに全員触れた。くまおが「おいしそう」と言った。
くまおが作ったパンを、バイキンマンに渡した。バイキンマンが受け取った。「誰かのために作ったものは、小さくても重い」と言った。
書きながら、ケンは今日一日を振り返った。
カバオくんが穴を開けた生地を直した。ちびぞうくんがゆっくり丁寧に作った。ウサコちゃんがきれいに丸めた。くまおがお母さんに渡すために作った。
全員が、誰かのために作った。
たかしさんが言っていたことと——同じだ。
お腹を空かせた人に食べ物を分けてあげることは、きっと正しいことだと思う。
それは、誰かのために作ること、渡すこと、喜んでもらうこと——全部が続いている。
この工場は、その連鎖の中にある。
ケンはメモ帳の最後に書いた。
——誰かのために作ったものは、小さくても重い。バイキンマンが言った。たかしさんも、きっとそう思っていた。
窓の外に星が出ていた。
チーズが足元で丸まった。
この世界に来て、百六十三日目の夜だった。
ケンはメモ帳を閉じた。




