第40話 再来
それは、何の前触れもなく来た。
百六十日目の朝。ケンが窯の温度を確認していた時、チーズが吠えた。
前回と同じ吠え声だった。怯えているような、でも必死に知らせようとしているような。
ケンは窯を離れた。
窓から北の空を見た。
黒い。
あの黒さだ。
前回より——早かった。突破口が閉まってから十日も経っていない。
「バタコさん!」
バタコさんが飛んできた。
一目見て、顔色が変わった。
「また来た」
「そうです。通信を入れます」
カレーパンマンへの通信は、繋がった瞬間に向こうから声が来た。
『今見えた。同じだ。だだんだんと——上に乗ってる奴』
「前回と同じですか」
『同じだ。でも——動きが違う。前回より速い』
「学習していますか」
『わからない。でも——前回来た時のことを、覚えているかもしれない』
ケンは少し止まった。
パラレルワールドのバイキンマンが、前回この世界に来た記憶を持って戻ってきた可能性がある。
「バイキンマンに連絡します」
『頼む。急いでくれ』
バイキンマンへの通信を入れた。
「聞こえますか。また来ました」
少し間があった。
『……来たか。外壁の状態は』
「確認できていません」
『突破口が閉まってから日が浅い。薄い部分が残っていたかもしれない。今から向かう』
「わかりました。三戦士も動き始めています」
『ケン』
「はい」
『今日は——長くなるかもしれない』
「補給の準備をします。帰ってきてください」
工場の中が動き始めた。
ケンは補給パンの在庫を全量確認した。あんパン十二個、カレーパン八個、食パン六枚。緊急補給用として、さらに倍を焼成できる材料がある。
バタコさんが窯を二台フル稼働させた。
「今日は俺も焼成に入ります」
「お願い」
ロールパンナが広場に出てきた。
「私は」
「工場の外周を守ってください。ブラックノーズが来る可能性もある。もし感知したら、すぐ知らせてください」
「わかりました」
食パンマンが地下に向かった。
「ロイヤルローフの状態を確認してきます。エネルギーを使うかもしれない」
「お願いします」
ブラックノワールが工場の前に来ていた。
「来た」
「知っています。今日も動いてもらえますか」
「来たのはそのためだ」
「ありがとうございます」
ブラックノワールが北に向かって飛んでいった。
戦闘が始まった音は、前回より遠かった。
今回は工場から離れた場所で迎撃しているようだった。カレーパンマンが判断したのかもしれない。前回だだんだんが工場に近づきすぎた反省だ。
通信が続いた。
カレーパンマンから。
『迎撃開始。だだんだんの移動速度、前回より二割速い。やはり学習している』
「カレービームは」
『前回と同じ。効かない。装甲の硬さも変わっていない』
「ブラックノワールは」
『今向かっている。前回フィールドを割った——あいつに頼るしかない』
アンパンマンから。
『ケンさん、聞こえる?』
「聞こえています」
『前回と同じように動く。ブラックノワールがフィールドを割った瞬間に突入する。でも——』
「でも」
『今日のあいつ、前回より——目が据わってる。学習している、というより、怒っている感じがする』
「怒っている」
『前回消えた時——くやしかったのかもしれない。今日は最初から本気の目をしている』
ケンは通信機を握り直した。
前回消えた。今日は学習して戻ってきた。そして怒っている。
純粋な悪意が、目的を持って動いている。
「アンパンマンさん、無理はしないでください。消耗したら引いて」
『わかった。でも——今日は引けないかもしれない』
「なぜですか」
『あいつ、村の方に向かってる。工場じゃなく、村を狙っている』
ケンは止まった。
「村を」
『そうだ。前回俺たちと戦ったから、今回は別のものを壊しに来た』
バタコさんがケンの横に来た。
「聞こえた」
「はい」
「村に——カバオくんたちがいる」
「はい」
ケンは考えた。
村に向かっているということは、三戦士は村の前で迎え撃つ形になる。後ろに守るものがある状態での戦闘になる。
「ロールパンナ」
通信で呼んだ。
「はい」
「村の方向に向かっています。あなたも動いてください。三戦士の援護と、村の住民の誘導を」
「住民の誘導、というのは」
「建物の中に入ってもらう。外に出ないよう、伝えてほしい。戦えなくてもいい。そっちをお願いします」
「わかりました」
ロールパンナが飛んでいった。
バタコさんが言った。
「私が行けたら——」
「バタコさんはここにいてください。補給が途切れると、全員が動けなくなる。ここを守ることが一番大事です」
「……わかった」
ケンは焼成の確認に戻った。
手を動かしながら、通信を聞き続けた。
戦闘の報告が続いた。
カレーパンマンが側面から攻撃を続けた。効かないとわかっていても、動きを牽制するために。
食パンマンが村の前にバリアを展開した。だだんだんの直撃を防ぐためのフィールドだ。エネルギーを大量に消費する。
アンパンマンがパラレルバイキンマンと正面から向き合った。
ブラックノワールが黒いフィールドの解析を始めた。前回割った経験がある。今回も同じ方法で割れるかどうか確認しながら動いている。
「アンパンマンさん、状況は」
『フィールドがある。でも——今日はブラックノワールが早い。前回の経験があるから、攻略ルートがわかってる』
「ブラックノワールが」
『うん。前回よりずっと速く動いてる。あいつも学習した』
ブラックノワールから通信が来た。珍しかった。
『ケン、聞こえるか』
「聞こえます」
『フィールドの構造を理解した。今回は前回より早く割れる。ただし——割った後、パラレルバイキンマンが今回は迎撃態勢を取る可能性がある』
「どういうことですか」
『前回アンパンチで倒された経験がある。今回はそれを防ぐ動きをするかもしれない。アンパンマンに伝えてほしい』
「わかりました」
アンパンマンに通信した。
「アンパンマンさん、ブラックノワールから。フィールドを割った後、パラレルバイキンマンが迎撃態勢を取る可能性があります」
『……どう動けばいい?』
「二手に分けることはできますか。フィールドを割った後、カレーパンマンさんが先に飛び込む。注意を引いた瞬間にアンパンマンさんが打つ」
『前回と同じだ。カレーパンマンが動く前に打つじゃなくて、今度はカレーパンマンが先に動く』
「はい。順番を逆にします」
『カレーパンマンに伝える』
補給の一回目が来た。
食パンマンだった。バリアの展開でエネルギーを消耗していた。
「残量は」
「三十五パーセント。もう少しバリアを維持したい」
「食パンを渡します。三秒」
差し込んだ。三秒。
「七十パーセント。助かりました」
「続けられますか」
「続けます。村の前のバリアは、まだ必要です」
「わかりました。だだんだんの動きは」
「少し遅くなっています。カレーパンマンの牽制が効いています」
「そうですか。気をつけて」
食パンマンが戻った。
次にカレーパンマンが来た。装甲の腐食痕が今日は三か所あった。
「大丈夫ですか」
「問題ない。でも——次の作戦に入る前に補給したかった」
「カレーパンを」
「頼む」
差し込んだ。三秒。
「八十パーセント。行く」
「作戦、うまくいきますように」
「うまくいかせる」
カレーパンマンが飛んでいった。
作戦が始まった。
ブラックノワールがフィールドを割った。前回より、確かに速かった。
カレーパンマンが先に飛び込んだ。
パラレルバイキンマンがカレーパンマンに向かった——その瞬間。
アンパンマンが入った。
「アンパンマンさん、状況は」
『——今だ』
閃光が見えた。
工場の窓から、遠くに光が走った。
アンパンマンの声が来た。
『当たった!』
「一発で止まりますか」
『……止まってない。でも——動きが大きく乱れた』
「もう一発打てますか」
『補給があれば』
「来られますか」
『今から』
アンパンマンが戻ってきた。
今日一番の消耗だった。残量を聞いたら、二十パーセントと言った。
「あんパンを」
「二個頼む」
二個、続けて差し込んだ。
「九十パーセント。ありがとう、ケンさん」
「行けますか」
「行ける」
「気をつけて」
「うん」
アンパンマンが空に戻った。
二発目が入った。
今度は遠くても光がはっきり見えた。
強かった。前回より強いアンパンチだった。
通信が静かになった。
しばらく経って、カレーパンマンから来た。
『……止まった』
「だだんだんが」
『止まった。動いていない』
「パラレルバイキンマンは」
少し間があった。
『上にまだいる。動いていない』
「消えましたか」
『……まだ消えていない』
また間があった。
アンパンマンから通信が来た。
『ケンさん』
「はい」
『あいつが——何か言った』
「何と言いましたか」
『……聞こえたか確認してほしくて』
「なんと言ったんですか」
少し間があった。
『「お前たちは——俺の世界のアンパンマンたちより強い」と言った』
ケンは動かなかった。
「それだけですか」
『それだけだ。言って——消えた』
「消えた」
『消えた。だだんだんも、一緒に消えた。今回も——倒れず消えた』
全員が工場に戻ってきたのは、昼過ぎだった。
前回より消耗が少なかった。作戦がうまくいったからだ。
でも——全員が、少し静かだった。
パラレルバイキンマンの最後の言葉が、その場にいた全員の頭に残っていた。
「お前たちは——俺の世界のアンパンマンたちより強い」
補給パンを配りながら、ケンはその言葉を何度も転がした。
アンパンマンが受け取りながら言った。
「……強い、って言ったのは、どういう意味だと思う」
「わかりません。でも——」
「でも」
「強い、という言葉を使った。感情のない存在が、評価の言葉を使った」
「そうだな」
「向こう側のアンパンマンたちより強い——それは、この世界の何かが違うということだと思います」
「何が違うんだろう」
バイキンマンが口を開いた。
「根底の善だ」
全員がバイキンマンを見た。
「前回も同じ結論を出した。この世界の根底にある善が、純粋な悪の定着を阻む。同じ理由で、今回もあいつは消えた。そしてあいつ自身がそれを感じ取った」
「お前たちの方が強い——その強さは、力じゃない」
「そうだ。ここにある——繋がりだ。パンが届いて、誰かが食べて、喜んで、またパンを作る。それが続いている。その根底の善が、この世界を強くしている」
沈黙があった。
チーズが足元に来て、アンパンマンの足元に丸まった。
ロールパンナが静かに言った。
「私も——その善の一部ですか」
「そうだ」
バイキンマンが短く言った。
「お前は善と悪の両方から生まれた。でも——ここにいて、きれいな顔と言われて、誰かを守ろうとした。それは善の側で動いている」
「……そうですか」
「そうだ」
ロールパンナが、自分の右手を見た。
白く光る手を。
夜のメモ帳。
パラレルバイキンマン再来。だだんだん引き連れ。今回は村を標的にした。
作戦変更。カレーパンマンが先に入り、アンパンマンが続く。二発のアンパンチで停止。
消えた。今回も倒れず消えた。
最後の言葉:「お前たちは俺の世界のアンパンマンたちより強い」
補給記録:アンパンマン二回(うち二個同時一回)、カレーパンマン一回、食パンマン一回。バタコさん、窯二台フル稼働。問題なし。
書きながら、ケンは最後の言葉を何度も考えた。
向こう側のアンパンマンたちより強い。
力が強い、ということではないはずだ。
この世界に来て、二回戦って、二回消えた。消えるたびに学習して戻ってくる。でも定着できない。
この世界の何かが、受け入れない。
それが——たかしさんの言葉が続いている世界の、根底にある強さ。
ケンはメモ帳の余白に書いた。
——強さは力じゃない。繋がりだ。
窓の外に星が出ていた。
チーズが足元で丸まった。
この世界に来て、百六十日目の夜だった。
ケンはメモ帳を閉じた。




