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第39話 調整者

 百五十八日目の朝、ケンは新しいメモ帳を開いた。


 前のメモ帳が満杯になったのだ。最後の一行を書いて、もうページが残っていないことに気づいた。バタコさんに頼んでいた補充分が、昨日届いた。村の文具屋から取り寄せた、少し厚みのある紙のノートだった。


 新しいメモ帳の最初のページに、ケンは書いた。


 ——百五十八日目。新しいメモ帳を始める。


 それだけ書いて、少し手を止めた。


 百五十八日。


 来た時は、九十一日の試用期間すら長いと思っていた。


 今は——百五十八日が、あっという間だった気もするし、ずっと昔から here にいた気もする。


 どちらが本当かは、わからない。


 どちらも本当なのかもしれない。




 午前中の焼成を終えて、在庫の確認をしていると、ジャムおじさんが奥の部屋から出てきた。


 珍しく、紙を持っていた。計算式のびっしり書かれた紙だ。


「ケン君、少しいいか」


「はい」


「バイキンマンに確認してきた。やなせたかし、という名前について」


「なんと言っていましたか」


 老人が椅子に座った。ケンも向かいに座った。


「バイキンマンが言うには——やなせたかし、というのが本名だ。たかしという名前は知っていたが、やなせという苗字は、スケッチブックの中に一度だけ書いてあったそうだ」


「スケッチブックに」


「最初のページに、小さく。ほとんど気にしていなかったと言っていた。名前より、中身の方が大事だったから」


「そうですか」


「わしは——やなせたかし、という名前を聞いて、少し思い出したことがある」


「なんですか」


 老人が少し間を置いた。


「前の世界で、漫画家の名前だったかもしれない」


 ケンは動かなかった。


「漫画家」


「そうだ。わしはあまり詳しくないが——誰かの話に出てきた気がする。長く活躍した人だったと思う。でも、それ以上は出てこない」


「俺も——名前を聞いたことがある感触はあります。でも思い出せない」


「転生すると、前の世界の細かい記憶が薄れる。わしもそうだった」


「そうですね」


 老人が紙をテーブルに置いた。


「ただ——漫画家だったとしたら、筋が通る」


「漫画でキャラクターを描いていた人が、この世界でそのキャラクターを本物として作った」


「そうだ。描くことが生きることだった人が——この世界でも描き続けた。ホラーマンが言っていた言葉と、一致する」


 ケンはその言葉を、静かに頭の中に置いた。


 漫画家。キャラクターを描く人。


 やなせたかし。


 アンパンマンを描いた人が、この世界でアンパンマンを本物にした。


 その可能性が、今ここで静かに浮かび上がっていた。


「ジャムおじさん」


「なんじゃ」


「これを——アンパンマンさんたちに話しますか」


 老人が少し考えた。


「……今はまだ、わしらだけで持っておこうと思う」


「なぜですか」


「確認できないことを、話すより——もう少し整理してから。それと」


「それと」


「あの子たちは——自分たちがどこから来たかより、今何をするかで動いている。その方がいいと思うから」


「そうですね」


「あんたはどう思う」


「俺も同じです。今は、それでいいと思います」




 午後、ケンは地下に降りた。


 バターの補給の日だったが、それだけでなく——少し、話したいことがあった。


 ワンさんが計器の前にいた。


「ケンさん、バターをありがとうございます」


「はい。それと——少し聞いてもいいですか」


「なんでしょう」


「俺がこの世界に来た理由について、ワンさんはどう思っていますか」


 ワンさんが少し止まった。


「……突然ですね」


「そうですね。急に聞きたくなりました」


 ワンさんが計器から離れて、ケンの方を向いた。


「ジャムおじさんは——調整者として来た、と言っていましたね」


「そう聞きました。でも、調整者が具体的に何をするのかは、ずっとわかっていません」


「私が思うことを言っていいですか」


「お願いします」


 ワンさんが少し考えた。


「本体は——ケンさんが来る前と、来た後で、変わりました」


「どう変わりましたか」


「安定しました。エネルギーの変動が減った。以前は、補給が不安定な時に——本体も揺れることがあった。でも来てから、そういうことがなくなった」


「補給が安定したから、ですか」


「それだけじゃないと思います」


「どういうことですか」


「本体は——この工場全体のエネルギーと繋がっています。工場の状態が安定すれば、本体も安定する。補給だけじゃなく——人の関係、空気、そういうものも影響します」


「人の関係」


「バイキンマンが工場に来るようになった。ホラーマンが来るようになった。ブラックノワールが変わった。ロールパンナが生まれた。ドキンちゃんが来るようになった。全部、ケンさんが来てから起きたことです」


「俺が直接動かしたわけでは」


「直接じゃなくても——きっかけになった。場を整えた。それが調整だと思います」


 ケンはその言葉を、静かに受け取った。


「場を整える」


「はい。何かを作ったり、戦ったりするのとは違う。でも——場が整わないと、何も動けない。ケンさんはその役割だったんじゃないかと、私は思っています」


「在庫管理と、同じだ」


「そうかもしれません」


「何がどのくらいあるか把握して、足りない時に補充して、多すぎる時に調整して——誰かが動けるように、場を整える」


「そうです」


 ケンは少し間を置いた。


「ロイヤルローフは——今、何を感じていると思いますか」


 ワンさんが本体を見た。


「……落ち着いていると思います。ここ数日、一番安定しています」


「なぜだと思いますか」


「外壁が閉まったこともある。でも——それだけじゃない気がします」


「なぜそう思いますか」


「ケンさんが地下に来るたびに、話しかけてくれますよね。補給の日じゃない時も。今日みたいに」


「はい」


「本体がそれを、感じていると思います。誰かが気にかけてくれている、ということを」


 ケンはロイヤルローフを見た。


 黄金色の表面。静かな脈動。


「俺が来た理由が——場を整えることだったとしたら、地下もその一部だったんですね」


「そうだと思います。本体は——この世界の根っこにある存在です。根っこが安定していれば、木全体が安定する」


「ワンさん、ありがとうございます」


「私が考えたことを言っただけです」


「でも、助かりました」




 夕方、アンパンマンが哨戒から戻ってきた。


 いつも通りの着地。いつも通りの顔。


「ケンさん」


「おかえりなさい」


「今日も問題なかった。外壁も安定してる」


「ありがとうございます」


 アンパンマンがケンの横に来た。


「なんか——考えてた顔してる」


「そうですか」


「うん。珍しい顔。いつもは仕事してる顔か、メモ取ってる顔なのに」


「今日は少し、考えていました」


「何を」


「俺がここに来た理由を」


 アンパンマンが少し止まった。


「わかったの?」


「少し、近づいた気がします」


「どんな理由だったの」


「場を整えることだと思います。補給して、在庫を管理して、人と人の間を繋いで——誰かが動けるように、場を整える」


「それって——今までやってきたことだね」


「そうです。調整者、という言葉をジャムおじさんに言われた時は意味がわからなかった。でも今日、ワンさんから聞いて——少しわかった気がします」


 アンパンマンが少し考えた。


「調整者、か」


「ヒーローでも、戦士でも、賢者でもない。でも——いないと困る、という役割です」


「在庫管理みたいだね」


「まったく同じだと思います」


 アンパンマンが少し笑った。


「ケンさんらしい」


「そうですか」


「うん。ケンさんにしかできない理由だ。他の誰かじゃ、そういう役割は果たせなかったと思う」


「なぜですか」


「メモ取るのが好きで、在庫管理が得意で、急がなくていい時は急がなくて、でもやるべき時はやる人じゃないと、この工場の調整はできなかった」


 ケンは少し間を置いた。


「……そうかもしれません」


「うん。絶対そうだよ」


 アンパンマンが真顔で言った。


 その真顔が、ケンにはなんとなくおかしかった。


 笑いたくなった。今度は、堪えなかった。


「ありがとうございます、アンパンマンさん」


「どういたしまして」




 夜、バイキンマンから通信が入った。


「ケン、今いいか」


「はい」


「やなせたかし、という名前をジャムおじさんから確認した。スケッチブックのことも話した」


「聞いています」


「一つ、俺が考えていたことを話したい」


「どうぞ」


「たかしさんが——漫画家だったとして。前の世界でアンパンマンを描いていたとして。その世界でたかしさんの描いたキャラクターを知っていた人間が、なぜこの世界に来るんだと思うか」


 ケンは少し考えた。


「繋がりがあるから、ですか」


「そうだ。たかしさんの作ったものが、前の世界でも後の世界でも、誰かに届いていた。その届いた先の人間が——この世界に来た」


「俺が、やなせたかしさんの作品を知っていたかもしれない、ということですか」


「可能性として。思い出せないなら、確認できないが」


「そうですね」


「でも——仮にそうだとしたら」


「仮にそうだとしたら」


「お前がここに来たのは、偶然じゃないかもしれない」


 ケンはその言葉を、しばらく頭の中に置いた。


「バイキンマン」


「なんだ」


「偶然でも必然でも——俺はここにいます。それは変わらない」


「そうだな」


「ただ——もしたかしさんの作品を知っていたとしたら、俺は前の世界でもたかしさんに繋がっていた。それがここに来た理由の一つだとしたら——」


「だとしたら」


「——悪くないですね」


 バイキンマンが少し間を置いた。


「……変な奴だ」


「また言いましたね」


「また言った。でも——今日のは、悪い意味じゃない」


「わかっています」


「わかっているのか」


「声で、わかります。百五十八日、聞いてきたので」


 通信の向こうで、バイキンマンが短く鼻を鳴らした。


 それが今日一番、温かい音だった。




 夜のメモ帳。


 新しいメモ帳、二ページ目。


 ジャムおじさんから確認:やなせたかし、スケッチブックの最初のページに苗字があった。前の世界では漫画家だったかもしれない。


 ワンさんの言葉:調整者とは、場を整える役割。補給だけじゃなく、人の関係、空気、そういうものを整えること。


 アンパンマンさんの言葉:ケンさんにしかできない理由だ。


 バイキンマンの話:やなせたかしさんの作品を前の世界で知っていたなら、繋がりがあるかもしれない。


 書きながら、ケンは一つのことを思った。


 前の世界で、やなせたかしという名前を聞いた。どこかで聞いた。


 もしアンパンマンを知っていたなら——倉庫の棚にアンパンマンのキャラクターグッズがあったかもしれない。取引先の子供がアンパンマンのリュックを持っていたかもしれない。


 思い出せない。でも——知っていた気がする。


 ケンはメモ帳に書いた。


 ——やなせたかしさんが描いたものを、俺は前の世界で知っていたかもしれない。それがここに来た理由の一つだとしたら、悪くない。


 窓の外に星が出ていた。


 チーズが足元で丸まった。


 この世界に来て、百五十八日目の夜だった。


 新しいメモ帳の最初の夜だった。


 ケンはメモ帳を閉じた。

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