第38話 たかしさん
ホラーマンが来たのは、平和な日が数日続いた頃だった。
昼前、裏口からチーズが一声吠えた。もう追いかけない。ただ知らせる声だった。
ケンが裏口を開けると、ローブを纏った骨格のアンドロイドが立っていた。
「来ましたね」
「来た。最後の報告がある」
「最後の」
「ブラックノーズの件だ。入っていいか」
「どうぞ」
作業室に入って、向かい合った。
バタコさんがお茶を置いて、少し離れたところに座った。
「ブラックノーズの状況は」
「外壁が閉まってから、急速に力が弱まっている。外部エネルギーの供給が止まったためだ。今は——ほとんど活動できない状態だと思う」
「完全に無力化されましたか」
「当面の脅威ではなくなった。ただ、また外壁に働きかけてくる可能性はある。定期的な監視は続けるべきだ」
「バイキンマンとスケジュールを組んでいます」
「そうか」
ホラーマンが少し間を置いた。
「もう一つ、話したいことがある」
「なんですか」
「俺の中にある記憶について。前回話した時より、少し整理できた」
「聞きます」
ホラーマンがゆっくりと話し始めた。
「鉛筆の感触の話をした。よく笑う老いた声の話をした。その後も——断片が出てくるようになった」
「どんな断片ですか」
「名前だ」
「名前」
「俺の中の記憶の人物の——名前が、聞こえてきた」
ケンは動かなかった。
「聞こえてきた、というのは」
「自分を呼んでいる声がある。誰かが、その人物の名前を呼んでいる声だ。繰り返し、繰り返し」
「どんな名前でしたか」
長い沈黙があった。
「……やなせ、という名前だ」
ケンは少し止まった。
バタコさんも静かになった。
「やなせ」
「そうだ。やなせたかし、という名前が——俺の中にある。それが、記憶の中の人物の名前だと思う」
ケンはメモ帳に書いた。
やなせたかし。
ジャムおじさんから聞いていた名前は「たかし」だけだった。苗字まで出てきたのは、今日が初めてだった。
「やなせたかし。それが——この世界を作った人物の名前ですか」
「そうだと思っている。ただ——俺の記憶の断片から来ているものだから、確認する手段がない」
「ジャムおじさんに確認できるかもしれません」
「……そうだな。だが」
「だが」
「その前に、お前に聞いてほしかった」
「俺に、なぜ」
ホラーマンが少し間を置いた。
「やなせ、という名前を聞いた時——お前の顔を思い浮かべた。なぜかはわからない。でも——お前に話すべきだと思った」
ケンはホラーマンを見た。
骨の顔。眼窩の光。
やなせたかし。
ケンはその名前を、頭の中でゆっくりと転がした。
前の世界で、その名前を聞いたことがあるかどうか。
——ある気がした。でも、どこで、いつ、どんな文脈で聞いたのか、すぐには出てこなかった。
「ホラーマンさん」
「なんだ」
「俺の前の世界に、やなせたかしという名前の人物がいたかもしれません」
「……知っているのか」
「知っている、とは言えません。でも——聞いたことがある気がします。ただ、詳しくは覚えていない」
「そうか」
「何をした人物なのかも、今すぐは出てきません。でも——名前は、どこかで聞いた」
ホラーマンが静かに言った。
「記憶の中のたかしさんは——何かを作り続けていた。鉛筆で、ずっと描き続けていた。老いても、手が震えても、描き続けていた」
「描く人だったんですね」
「そうだ。何を描いていたかは——わからない。でも、描くことが、その人の生きることだったと思う」
「この世界がその人の描いたものだとしたら」
「そうだ。荒野を描いて、命を描いて、バイキンマンを描いて——最後の言葉まで、描いた」
ケンはスケッチブックの最後のページを思い出した。
震えた字で書かれていた言葉。
老いた手で、でも丁寧に書かれていた。
「お腹を空かせた人に食べ物を分けてあげることは、きっと正しいことだと思う——その言葉も、描くことの延長線にあったんですね」
「そうだと思う。最後まで、自分の信じることを形にしようとしていた人だった」
バタコさんが、静かに言った。
「ホラーマン」
「なんですか」
「やなせたかしさんが——私を作った人だとしたら」
「そうなる可能性がある」
「その人の記憶が——あなたの中にある」
「そうだ」
バタコさんが少し間を置いた。
「……その人に、伝えたいことがある」
「俺を通してか」
「おかしいかしら」
「おかしくない」
バタコさんがお茶の椀を両手で持った。
「ありがとうございます、と伝えてほしい」
「何に対して」
「作ってくれたことに。パンが好きな存在にしてくれたことに。ここにいる理由を与えてくれたことに」
ホラーマンが動かなかった。
長い沈黙があった。
「……伝えます」
「あなたの中に、その人がいるなら——届きますよね」
「届くかどうかはわからない。でも——受け取ります。俺が」
バタコさんが目を細めた。
「それで十分です」
ホラーマンが帰り際に、ケンに言った。
「田中という名前のことを前に聞いた。それはお前の同僚の苗字だったな」
「はい。田中健太という名前でした」
「やなせたかし——たかし、という名前は同じだが、苗字は違う」
「そうですね」
「俺が混乱していたのは——たかしという名前が、二つの記憶に結びついていたからかもしれない」
「どういうことですか」
「やなせたかし、という記憶の中の名前。そして——お前が何度も口にする田中という苗字。二つが俺の中で混ざっていた」
「そうだったんですね」
「田中健太と、やなせたかしは——別の人物だ。でも、どちらも——お前の人生に関わっている」
「そうですね」
「お前がここに来た理由が——そのどちらかと繋がっているかどうかは、わからない」
「わかりません。でも——今は、それでいいと思っています」
ホラーマンが少し間を置いた。
「……お前は、いつもそうだな」
「そうですか」
「わからないことを、わからないまま持ち続ける。焦らない」
「焦っても答えは出ないので」
「それが——強さか、それとも鈍さか」
「以前も同じことを聞きましたね」
「また聞いた」
「答えは変わりません。どちらでもないです。ただ、今やれることをやっているだけです」
ホラーマンが、ゆっくりと頭を下げた。
「……やなせたかしさんの記憶が俺の中にある。バタコさんの言葉を、受け取った。それだけで——今日来た意味があった」
「またいつでも来てください」
「来る」
ホラーマンが出て行った。
足音がしなかった。
工場の中が静かになった。
ケンとバタコさんが残った。
「ケンさん」
「はい」
「やなせたかしさんって——前の世界で有名な人だった?」
ケンは少し考えた。
「……聞いたことがある気がします。でも、詳しくは覚えていない。倉庫の仕事をしていた頃は、そういうことに疎くて」
「そうなの」
「ただ——名前だけは、どこかで聞いた。それだけは確かです」
「有名な人だったのかもしれないわね」
「かもしれません。この世界をゼロから作った人が、前の世界でも何かを作り続けていた人だったとしたら——筋が通ります」
「描くことが生きることだった人、とホラーマンが言っていたわね」
「はい」
「——そういう人が、この世界を作った」
バタコさんが窯を見た。
「だから——ここにいる人たちは、みんな誰かの愛情から生まれている気がする」
「そうですね」
「アンパンマンも、カレーパンマンも、食パンマンも、バイキンマンも、ロールパンナも——誰かが、こういう存在にしたい、と思って描いた」
「そういうことになります」
「私も」
「あなたも」
バタコさんが少し笑った。
「……なんか、悪くないわね。そう思うと」
「そうですね」
夕方、ジャムおじさんに話した。
ホラーマンの記憶に出てきた名前——やなせたかし、という名前を告げた。
老人は長い間、黙っていた。
「……そうか。苗字まで出てきたか」
「ご存知でしたか」
「わしは——たかし、という名前しか聞いていなかった。バイキンマンから聞いた時、苗字は教えてもらわなかった」
「バイキンマンに確認しますか」
「……する。してみる」
老人がケンを見た。
「やなせたかし、という名前に——聞き覚えはあるか」
「少し、ある気がします。でも詳しくは思い出せません」
「そうか」
「ジャムおじさんは」
「わしも——どこかで聞いた気がする。でも、この世界に来た時にはもう、記憶が薄れていた」
「転生すると、前の世界の記憶が薄れるんですか」
「薄れる部分がある。わしも——前の世界のことは、断片しか覚えていない」
「そうでしたか」
「ただ——やなせたかし、という名前が、バイキンマンの作者の名前だとしたら」
「バイキンマンの作者」
「この世界をゼロから作った人物が、前の世界でも何かを作っていた——そういうことじゃないかと思う」
ケンはその言葉を、静かに受け取った。
夜のメモ帳。
ホラーマン来訪。ブラックノーズ当面の脅威でなくなったことを確認。
ホラーマンの記憶に出てきた名前:やなせたかし。この世界を作った人物の名前。
バタコさんがホラーマンに「ありがとう、と伝えてほしい」と言った。ホラーマンが「受け取ります」と言った。
ジャムおじさんも聞き覚えがある、と言っていた。
書きながら、ケンは「やなせたかし」という名前を何度か頭の中で繰り返した。
聞いたことがある。でも、思い出せない。
この世界に来た時に、記憶が薄れたのかもしれない。
でも——名前は残っている。
どこかで聞いた、確かに聞いた、という感触だけが残っている。
ケンはメモ帳の最後に書いた。
——やなせたかし。この世界を描いた人の名前。
いつか、思い出せる日が来るかもしれない。
今は、それだけでいい。
窓の外に星が出ていた。
チーズが足元で丸まった。
この世界に来て、百五十六日目の夜だった。
ケンはメモ帳を閉じた。




