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第37 成し遂げた事

突破口が閉まったのは、翌々日の朝だった。


 バイキンマンから通信が来た。


「閉まった。完全に。外壁の薄い部分も、元の厚さに戻っている」


「確認ありがとうございます。これでパラレルワールドからの侵入は」


「当面はない。ただし——外壁の状態は定期的に確認する必要がある」


「わかりました。スケジュールを組みます」


「頼む」


 通信が切れた。


 ケンはメモ帳に書いた。


 突破口、完全閉鎖確認。外壁の定期監視スケジュールを組むこと。


 それから、一度ペンを置いた。


 窓の外を見た。


 空が青かった。


 束の間の、平和だった。




 その日の昼前、工場の表口に声がした。


「ケンさんいる?!」


 カバオくんの声だった。


 ケンが出ると、カバオくんとちびぞうくんとウサコちゃんとピョン吉くんが並んでいた。


 全員、走ってきたらしく少し息が上がっていた。


「いますよ」


「やった!」


 カバオくんが飛び上がった。


「今日、工場に来ていいって——ケンさんに聞いてから来いって、みみ先生に言われた」


「よく聞いてきましたね」


「えらい?」


「えらいです」


「やった! じゃあパン食べていい?」


「それは別の話です」


 カバオくんがぶーと唇を膨らませた。


 ちびぞうくんがおずおずと言った。


「工場の中、見てみたかった」


「見ますか」


「いいの?」


「バタコさんに聞いてからですが、たぶん大丈夫です」


 バタコさんに確認した。バタコさんが子供たちを見て、少し顔をほころばせた。


「入っていいわよ。でも窯には触らないこと。あと在庫の棚も触らないこと」


「わかった!」


 カバオくんが真っ先に入った。




 工場の中を案内した。


 窯を見て、ちびぞうくんが「おっきい」と言った。保管庫を見て、ウサコちゃんが「いろんなものがある」と言った。作業台を見て、ピョン吉くんが「ここでパン作るの?」と聞いた。


「そうです」


「ケンさんが作るの?」


「バタコさんとジャムおじさんが主に作ります。俺は焼くのを手伝ったり、材料の管理をしたりしています」


「管理って何」


「何がどのくらいあるか、いつなくなりそうかを把握しておくことです」


「難しそう」


「慣れれば普通です」


 カバオくんが振り返った。


「ケンさんって、ずっとここにいるの?」


「今のところはそうです」


「ずっといてよ」


「なぜですか」


「ケンさんがいると、なんかよかった気がするから」


「なんかよかった、というのは」


「わかんない。でも——前にパンを届けに来てくれた時、なんかよかった」


 ケンは少し間を置いた。


「わかりました。ありがとうございます」


「また来ていい?」


「バタコさんに怒られなければ」


 バタコさんが横から言った。


「怒らないわよ。でもいつでも来ていいとは言わない。ちゃんと連絡してから来ること」


「はい!」


 カバオくんが元気よく返事した。




 子供たちが帰り際、ロールパンナに会った。


 廊下を歩いていたロールパンナと、保管庫から出てきたカバオくんが鉢合わせした。


 カバオくんが、ロールパンナの顔を見た。


 白と黒に分かれた顔。二色の目。


 少し止まった。


 ロールパンナが身構えた。


「……こんにちは」


 カバオくんが言った。


「こんにちは」


「あなたは——工場に住んでいるの?」


「最近、ここにいます」


「そうか。——きれいな顔だね」


 ロールパンナが止まった。


「きれいな」


「うん。白と黒、両方あって。なんか——すごいと思った」


 ロールパンナが何も言えなかった。


 カバオくんはそれだけ言って、また走っていった。


 ちびぞうくんが後をついて走った。


 ウサコちゃんが振り返って、ロールパンナに「またね」と言った。


 ピョン吉くんが「またね」と言って飛んでいった。


 ロールパンナがケンの方を向いた。


「……きれいな顔、と言われた」


「言われましたね」


「初めて、そう言われました」


「そうですか」


「怖い、とか、変だ、とか——そういうことは、思われてもしょうがないと思っていました」


「カバオくんは、そういう子ではないですから」


「ああいう子が——この世界にいる」


「たかしさんが最初に設計した住民の子孫たちです。こういう子にしたい、と言いながら設計した」


 ロールパンナが少し間を置いた。


「……よかった。この世界に生まれて」


 その言葉は、小さかった。


 でも、本物だった。




 夕方、バイキンマンが来た。


 子供たちが帰ってから数時間後だった。


 テーブルに向かい合って、お茶を飲んだ。


 しばらく黙っていた。


「カバオくんたちが来たそうだな」


「バタコさんから聞きましたか」


「ドキンちゃんから聞いた。ロールパンナがきれいな顔と言われた、と」


「そうです」


「あの子は——変わったな」


「ロールパンナさんがですか」


「そうだ。来た時と全然違う」


「毎日、少しずつ変わっています」


「お前が見ているからか」


「見ているだけです。変わっているのは本人です」


 バイキンマンがお茶を飲んだ。


 少し間があった。


「ケン」


「はい」


「一つ聞いていいか」


「どうぞ」


「お前は——この世界で、何を成し遂げたと思うか」


 ケンは少し止まった。


 予想していなかった問いではなかった。でも、実際に聞かれると、すぐには答えが出なかった。


「難しい質問ですね」


「難しい質問をしている」


「わかっています」


 ケンはお茶を一口飲んだ。


 窓の外を見た。空がオレンジ色に染まり始めていた。


「俺が成し遂げたことは——たぶん、何もないです」


「何もない」


「在庫が切れなかった。補給が間に合った。記録を取り続けた。窯を増やした。スケジュールを組んだ。それは全部、誰かのために動いたことです。俺が何かを生み出したわけじゃない」


「それは謙遜か」


「謙遜ではないです。事実を言っています」


 バイキンマンが少し黙った。


「では——お前がここにいた意味は、なかったということか」


「そうは思っていません」


「矛盾している」


「矛盾していません」


 ケンはバイキンマンを見た。


「俺がいた分だけ、みんなが動けた。それで十分だと思っています」


 バイキンマンが少し止まった。


「俺がいた分だけ、みんなが動けた」


「はい。アンパンマンさんが飛べた。カレーパンマンさんが戦えた。食パンマンさんが守れた。バイキンマンが研究できた。ジャムおじさんが考え続けられた。バタコさんがパンを焼き続けられた。ロールパンナさんが練習できた。それぞれが、自分のことに集中できた。俺が補給と管理をしていたから」


「それを成し遂げた、と言えるのか」


「成し遂げた、というより——俺の分があった、という感じです。欠けていなかった、と言う方が近いかもしれない」


 バイキンマンが窓の外を見た。


「……たかしさんに似ているな」


「たかしさんに」


「あの人も、そういう言い方をした。俺は大したことをしていない、ただここにいただけだ、と。でも——あの人がいたから、俺はここにいる。この世界がある」


 ケンは何も言わなかった。


「お前もそうだ」


 バイキンマンが静かに言った。


「お前がいたから——俺は外に出られた。ジャムおじさんと話せた。アンパンマンと飛べた。ロールパンナが生まれた。ブラックノワールが変わった。全部、お前がいたから続いていた」


「そんな大げさなことは」


「大げさじゃない。事実を言っている」


 ケンが言った言葉を、バイキンマンが返してきた。


 ケンは少し、口元が動いた。


「……変な奴だ」


 バイキンマンが言った。


「何回目ですか」


「数えていない」


「俺は数えています。今日で何回か——少し忘れましたが、たくさんです」


「たくさん変な奴と言ってきた」


「はい」


「それだけ——理解できない行動をしてきた、ということだ。お前が」


「そうですか」


「でも——」


 バイキンマンが少し間を置いた。


「嫌いじゃない。変な奴だが、嫌いじゃない」


 ケンは少し驚いた。


 今まで「変な奴だ」は言ってきたが、「嫌いじゃない」は初めてだった。


「ありがとうございます」


「礼を言うことじゃない」


「でも嬉しいので言います」


 バイキンマンが短く鼻を鳴らした。




 バイキンマンが帰った後、バタコさんが横に来た。


「聞こえていたわ」


「全部ですか」


「全部」


「聞こえていましたか」


「聞こえていたわよ。——よかった」


「何がですか」


「バイキンマンが、そういうことを言えるようになった。来たばかりの頃は、絶対に言わなかった」


「俺に言ったんじゃなく、事実を言っただけだと思いますが」


「同じでしょ」


 ケンは少し考えた。


「……そうかもしれません」


 バタコさんが少し間を置いた。


「ケンさん」


「はい」


「田中さんのこと——最近どう思ってる?」


 ケンは少し驚いた。


「なぜ急に」


「なんとなく。バイキンマンがあなたのことを言っている時、田中さんのことを思い出した」


「そうですか」


 ケンは少し考えた。


「助かっていると思うことにしました」


「根拠は」


「ありません」


「根拠なしに」


「バタコさんが以前、縁起の問題だと言っていたので」


 バタコさんが少し止まった。


「私、そんなこと言ったっけ」


「突破の朝、晴れている方が縁起がいいと言っていました」


「……それとこれは違う話じゃないの」


「根拠なくいいと思うことは、同じだと俺は思いました」


 バタコさんがしばらく黙っていた。


 それから、小さく笑った。


「……そうね。同じかもしれない」


「田中は助かっている。そう思います。根拠はないです。でも——ここで百五十日以上見てきたものを考えると、信じられる気がします」


「何を見てきたの」


「言葉が届くことを。バイキンマンが変われることを。ブラックノワールが自分で決めることを。ロールパンナが生まれてきれいだと言われることを。カバオくんが転んでもすぐ笑うことを。チーズがバイキンマンにくっつくことを」


 バタコさんが静かに聞いていた。


「全部が——信じていいものだと教えてくれた気がします。田中が助かっているということも、信じていい」


「……根拠なしに」


「根拠なしに」


 バタコさんが目を細めた。


「よかった。答えが出て」


「出たというより——決めた、という感じです」


「同じでしょ」


「そうかもしれません」




 夜のメモ帳。


 百五十三日目。


 カバオくんたちが工場に来た。ロールパンナが「きれいな顔」と言われた。バイキンマンが「お前はこの世界で何を成し遂げたと思うか」と聞いた。


 俺が成し遂げたことは何もない。でも——俺がいた分だけ、みんなが動けた。それで十分だ。


 田中は助かっていると思う。根拠はない。でも、信じることにした。


 ケンはそれだけ書いた。


 今日のメモ帳は、今まで一番短かった。


 でも——それだけでよかった。


 窓の外に星が出ていた。


 チーズが足元で丸まった。


 この世界に来て、百五十三日目の夜だった。


 ケンはメモ帳を閉じた。

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