第36話 責任と前進
翌朝、バイキンマンが一人で工場に来た。
朝の焼成作業が終わった頃だった。表口から入ってきて、ケンを見て、何も言わなかった。
「おはようございます」
「ああ」
「お茶を入れます」
「頼む」
テーブルに向かい合った。
バイキンマンがお茶を受け取って、一口飲んだ。
何も言わなかった。
ケンも急かさなかった。
チーズがバイキンマンの足元に来て、くっついた。前に一度もなかったことだ。バイキンマンが少し驚いたように下を見た。でも、追い払わなかった。
しばらく経って、バイキンマンが言った。
「突破口の状態を確認した」
「どうでしたか」
「閉まりかけている。あと二日から三日で、完全に閉まる」
「それまでに、また来る可能性はありますか」
「ある。ただ——昨日あいつが消えた理由を考えた」
「世界に定着できなかったから、と俺は思っていましたが」
「そうだ。でも——なぜ定着できなかったのかを考えた。あいつは純粋な悪のエネルギーだ。でもこの世界には、それを受け入れるだけの闇がなかった」
「闇がなかった」
「この世界は——たかしさんが作った。善の創造力から生まれた。だから根底に善がある。純粋な悪は、この世界の中では居場所を見つけられなかった」
ケンは少し考えた。
「だとすれば——今後来ても、同じことが起きる可能性が高い」
「そうだ。ただし条件がある」
「この世界が、善を保ち続けていれば」
「そうだ」
ケンはメモ帳に書いた。
パラレルバイキンマンが消えた理由:この世界の根底にある善のエネルギーが定着を阻んだ。条件:世界が善を保ち続けること。
「その条件を維持するために——何が必要ですか」
「わからない。でも——たかしさんの言葉を考えれば、答えは出る気がする」
「お腹を空かせた人に食べ物を分けてあげることは、きっと正しいことだと思う」
「そうだ」
バイキンマンがお茶を飲み干した。
「それが続いている限り、この世界に純粋な悪の居場所はない」
「そうだとしたら——俺の仕事は、その連鎖の中にある」
「そうだ」
チーズが尻尾を振った。
昼頃、ドキンちゃんが来た。
バイキンマンがまだいたので、少し驚いた顔をした。
「まだいたの」
「いた」
「珍しい」
「ケンと話していた」
「何の話」
「この世界のことだ」
ドキンちゃんがケンを見た。
「昨日、大変だったわね」
「そうですね。でも全員無事でした」
「ドキンちゃんが心配したって、ホラーマンから聞いたか」
バイキンマンが言った。
「聞いていません」
「あいつは報告が遅い」
「バイキン城で、ドキンちゃんが通信機を離さなかったそうだ。ずっと状況を確認しようとして」
ドキンちゃんが少し顔を赤くした。
「そんなこと言わなくていいわよ」
「事実だろ」
「事実でも言わなくていいの」
ケンは二人のやり取りを聞いていた。
バイキンマンとドキンちゃん。
昨日の戦いがあって、今日また工場に来て、ドキンちゃんのことを話している。
これが——この存在の日常だ。
「ドキンちゃん」
「なに」
「昨日、ありがとうございました」
「何が」
「折り紙を渡してくれたおかげで、バイキンマンが帰ってくると思えた、と言っていました」
ドキンちゃんがバイキンマンを見た。
「そんなこと言ったの」
「言ってない」
「でも伝わったの?」
「……まあ」
ドキンちゃんが少し笑った。
「ならよかった。作るのに時間かかったのよ、あれ」
「折り紙が得意なんですか」
「得意じゃないから時間かかったの。ハートって難しいのよ」
「そうでしたか」
「バイキンマンがハート好きかどうかも知らないし、変なもの渡したかなって思ってたけど」
「よかったですよ」
「そう?」
「そうです」
ドキンちゃんが満足そうな顔をした。
バイキンマンが短く鼻を鳴らした。
「余計なことを」
「いいじゃない」
午後、ロールパンナが広場で練習を続けていた。
昨日の戦闘を経て、左手の制御がまた変わっていた。
ケンが見に来ると、ロールパンナが振り返った。
「少し、変わった気がします」
「どう変わりましたか」
「昨日、実際にあのエネルギーと対峙した。怖かった。でも——そこで左手を使えた。恐怖の中で使えた、ということは——少し、自分のものになってきた気がします」
「具体的には」
「制御の感覚が、以前より——手の中にある気がします。手が動いてから考えるのではなく、考えてから手が動く」
「それは大きな変化ですね」
「そうですか」
「最初の頃は、手が先に動いていました。今は、あなたが決めてから動いている」
ロールパンナが自分の左手を見た。
「……怖かったです。昨日。でも——バイキンマンが隣にいてくれた」
「そうでしたね」
「あの人は——私の中のエネルギーを、誰より知っている。だから怖くても、隣にいてもらえたら動けた」
「それは大事なことですね」
「ケンさんも——ずっと通信してくれていた。どこにいるのかわかっていた」
「それが俺の仕事です」
「でも——それがあったから、動けた気がします」
ロールパンナが右手と左手を並べた。
「白と黒。善と悪。私はどちらでもあって、どちらでもないかもしれない」
「そうかもしれません」
「でも——昨日は、どちらの力も使った。どちらかだけじゃ、届かなかった」
「そうですね」
「両方でいいんじゃないか、と——アンパンマンさんが言ったそうですね。バイキンマンに」
「言いましたね。かなり前ですが」
「その言葉が、昨日やっとわかった気がします」
夕方、食パンマンが工場に来た。
いつもより少し早い時間だった。
「ケンさん、少しいいですか」
「どうぞ」
二人で奥の部屋に入った。
「地下の状態を確認してきました」
「地下」
「ロイヤルローフです。昨日の戦闘中、本体のエネルギーが急激に変動していたとワンさんから聞きました」
「ロイヤルローフが反応していた」
「そうです。私が気づいたのは戦闘が終わった後でしたが——ワンさんが計測した記録では、だだんだんが現れた直後から変動が始まっていました」
「敵の存在を、感知していたということですか」
「そうだと思います。そしてもう一つ」
「なんですか」
「エネルギーの変動の中に——別のパターンがあった、とワンさんが言っていました」
「別のパターン」
「ロールパンナの力と共鳴していたようだ、と。ロールパンナが戦闘に参加した時、本体のエネルギーが一瞬安定した」
ケンはその言葉を頭の中に置いた。
「ロイヤルローフとロールパンナが——繋がっている」
「可能性として。ただ、まだわかりません」
「ワンさんは何と言っていましたか」
「記録します、と言っていました」
ケンは少し笑った。
「ごちゃんも記録しているでしょうね」
「そうですね。それと——本体が、昨日より少し落ち着いているとも言っていました。何かが解決した後のような静けさだ、と」
「外壁の突破が成功したことを、感じているのかもしれない」
「そうかもしれません」
食パンマンが少し間を置いた。
「ケンさん」
「はい」
「地下に、少し顔を出してもらえますか。ワンさんたちが——ケンさんに話したいことがあるようです」
地下に降りると、スライス隊全員がケンを待っていた。
珍しい。全員が揃って待っているのは、初めてだった。
「どうしましたか」
ワンさんが言った。
「昨日の戦闘について、本体の記録をまとめました。ケンさんに渡したいと思って」
「ありがとうございます」
ごちゃんがノートを差し出した。
昨日のロイヤルローフのエネルギー変動が、細かく記録されていた。
「これは——貴重なデータです」
「ケンさんがいつも記録を大切にしているから、俺たちも記録した、とよんくんが言って」
よんくんが少し照れた顔をした。
「俺たちにできることはここの管理だけですが——記録することで、役に立てるかと思って」
「役に立ちます。本当に」
ケンはノートを受け取った。
さんちゃんが小さな瓶を出した。
「昨日、大変だったから——新しいジャムを作りました。少し甘めにしました」
「ありがとうございます」
「元気が出るかと思って」
「元気が出ます。ありがとうございます」
ツーちゃんが無言でケンの前に来て、深く頭を下げた。
昨日も同じことがあった。ツーちゃんのお辞儀は、いつも言葉より重かった。
「ありがとうございます、ツーちゃん」
ロイヤルローフを見た。
黄金色の表面。静かな脈動。
今日は——少し、温かい気がした。
「おかえりなさい、と言うべきかわかりませんが——外壁の突破が成功しました。バイキンマンが向こう側を見てきました」
脈動が、少し変わった。
「ここが、戻ってくる場所です。それは変わっていません」
また脈動が変わった。
強くなった、というより——落ち着いた。
夜のメモ帳。
バイキンマン来訪。突破口あと二日から三日で閉まる見通し。パラレルバイキンマンが消えた理由を分析した。この世界の根底にある善が、定着を阻んだ。
ドキンちゃん来訪。折り紙の話。
ロールパンナの変化:恐怖の中で使えた。考えてから手が動くようになった。
ロイヤルローフとロールパンナの共鳴の可能性。食パンマンとワンさんから報告。
地下でスライス隊から記録のノートを受け取った。
書き終えて、ケンはペンを置いた。
今日一日、それぞれの場所でそれぞれが動いていた。
バイキンマンが責任を感じながらも分析して前を向いた。ドキンちゃんが折り紙を渡した理由を話した。ロールパンナが昨日の戦いから何かを得た。食パンマンが地下の状態を報告した。スライス隊が記録を続けていた。ロイヤルローフが静かにいた。
全部が——この工場の中にある。
ケンはメモ帳を閉じようとして、最後にもう一行書いた。
——突破口が閉まるまで、今日と同じ仕事を続ける。
窓の外に星が出ていた。
チーズが足元で丸まった。
この世界に来て、百五十二日目の夜だった。
ケンはメモ帳を閉じた。




