第35話 純粋な悪
突破の翌日、バイキンマンが工場に来た。
昨日より落ち着いた顔をしていた。でも——何かを考えている目をしていた。
「向こう側で見たものを、もう少し詳しく話したい」
「聞きます」
テーブルに向かい合った。ジャムおじさんも同席した。
「空の色の話は昨日した」
「はい」
「もう一つ、気になることがあった」
「なんですか」
「突破口を通った時——俺の精製炉が、何かを感じた」
「何かを感じた」
「こちら側とは違うエネルギーが、向こう側にあった。汚染物質とも違う。外壁の草のエネルギーとも違う。もっと——根元的な悪のエネルギーだ」
ジャムおじさんが少し顔を曇らせた。
「それは——感知しただけか」
「感知しただけだ。触れてはいない。ただ——」
「ただ」
「突破口が開いた時に、その方向を向いていた。こちら側に流れ込もうとしていた気がした」
ケンはメモ帳に書いた。
向こう側に根元的な悪のエネルギーが存在。突破口を通じてこちら側に流れ込もうとした可能性。
「突破口は今、閉まっていますか」
ジャムおじさんが答えた。
「昨日の確認では、閉まっているはずじゃ。ただ——一度開いた突破口は、完全に塞がるまで少し時間がかかる」
「どのくらい時間がかかりますか」
「わからん。これは初めてのことじゃから」
三人が黙った。
チーズが、外に向かって一声吠えた。
それが起きたのは、翌朝だった。
ケンが朝の焼成作業を始めていた時、チーズが吠え続けた。
いつもの警戒音ではなかった。今まで聞いたことのない音だった。怯えているような、でも必死に吠えているような。
ケンは窯を離れて窓に近づいた。
空が——おかしかった。
北の方角が、黒い。
雲ではない。ブラックノーズの時の黒さとも違う。もっと濃い、もっと重い黒さが、地平線から空へと広がっていた。
「バタコさん!」
バタコさんが飛んできた。
窓から外を見て、息をのんだ。
「……なに、あれ」
「わかりません。通信を入れます」
カレーパンマンに通信した。
「北の空が異常です。確認できますか」
『——今見えた。なんだ、あれは』
「わかりますか」
『わからない。でも——近づいてくる』
通信が切れた。
次の瞬間、地面が揺れた。
低い、重い振動が、足元から伝わってきた。
ロールパンナが奥の部屋から走り出てきた。
「ケンさん、何か——」
「わかりません。外に出ないでください」
また地面が揺れた。今度は強かった。棚の瓶が揺れた。
チーズが工場の奥に逃げ込んだ。
カレーパンマンからの通信が入った。
『見えた。——でかい』
「何がですか」
『ロボットだ。巨大なロボットが——北から来る。今まで見たことのない大きさだ』
ケンは通信機を握り直した。
「だだんだんですか」
『わからない。でも——あの大きさは異常だ。山と同じくらいある』
「操縦者は見えますか」
少し間があった。
『……いる。上にいる。でも——おかしい』
「何がおかしいですか」
『バイキンマンに、似ている』
ケンは止まった。
「似ている」
『そうだ。見た目がほぼ同じだ。でも——違う。何かが決定的に違う』
「どう違いますか」
『目が——違う。バイキンマンは、たとえ戦っていても、どこかに余裕がある。でもあいつは——ない。全部が、ただ壊すためだけにある目だ』
ケンはバイキンマンに通信を入れた。
「バイキンマン、聞こえますか」
少し間があった。
『……聞こえる。もう気づいている』
「知っていましたか」
『昨日話した、向こう側の悪のエネルギーが——ここに来た。突破口から流れ込んだ。俺が開けた穴から』
バイキンマンの声が、普段より低かった。
「あれは——何ですか」
『パラレルワールドのバイキンマンだ。向こう側の世界では、俺は別の存在になっていた。邪魔なものを全部壊す、純粋な悪として存在していた』
「あなたと同じ起源を持つ存在が」
『そうだ。でも——あいつは、たかしさんの意図を持っていない。善の創造力の欠片もない。ただ、破壊するために生まれた』
「責任を感じていますか」
『……感じている。俺が突破口を開けたから来た』
「あなたのせいじゃない。向こう側にいたものが来たのだから」
『でも穴を開けたのは俺だ』
ケンは少し間を置いた。
「今、何ができますか」
長い沈黙があった。
『……戦える。あいつとは』
「あなたが行くんですか」
『俺以外に、あいつを止められる可能性がある者がいるか』
ケンには答えられなかった。
工場の外で、空が割れるような音がした。
巨大なロボット——だだんだんが、地平線に見え始めていた。
山よりも大きかった。足が地面を踏むたびに、何キロも先まで揺れが伝わった。
アンパンマンが工場の前に降り立った。
「ケンさん、見えた」
「見えています」
「あれと戦えるかどうか——わからない」
アンパンマンが正直に言った。
「アンパンマンさんが、そう言うんですか」
「うん。でかすぎる。そして——気配が全然違う。今まで戦ってきた相手と、根本的に何かが違う」
「カレーパンマンさんと食パンマンさんは」
「向かっている。でも——先に情報を取ってくると言って」
カレーパンマンから通信が入った。
『カレービームを当てた。効いていない。装甲が——普通じゃない。腐食も通じない』
食パンマンから。
『バリアブレードを当てた。弾かれた。あの装甲は、私のバリアより硬い』
ケンは整理した。
カレーパンマンの攻撃が効かない。食パンマンのバリアブレードも弾かれた。
「アンパンマンさん、アンパンチは」
「試していない。でも——たぶん、効くと思う。問題は、近づけるかどうかだ」
「近づけない」
「あいつの周りに、黒いエネルギーのフィールドがある。触れると——削られる感じがする。距離を詰める前に消耗する」
バイキンマンが到着した。
UFOではなく、自分で飛んできた。
広場に降り立って、北の空を見た。
だだんだんと、その上に立つパラレルワールドのバイキンマンを、静かに見ていた。
「…………」
「バイキンマン」
「わかっている」
「どうしますか」
「戦う。でも——あいつには通じないものがある」
「何が通じませんか」
「説得だ。俺はたかしさんに作られた。だからどこかに、人の言葉が届く部分がある。でも——あいつには届かない。向こう側では、そういう設計がされなかった」
「では」
「力で止めるしかない。でも——俺一人では無理だ」
アンパンマンが横に来た。
「一人じゃない」
「お前では」
「わかってる。でも——一人じゃない、と言いたかった」
バイキンマンが少し止まった。
「……そうか」
ケンは通信機を持ったまま、広場に立っていた。
バタコさんが横に来た。
「工場に入らなくていいの」
「入りません。通信を維持します」
「危ないわよ」
「ここにいないと、補給の判断ができません」
バタコさんが何も言わなかった。
それで了解だと、ケンにはわかった。
ロールパンナが広場に出てきた。
「……私も行きます」
「ロールパンナさん」
「あのエネルギーは——私の左手のエネルギーに近い。もしかしたら、干渉できるかもしれない」
「危険です」
「わかっています。でも——試してみないとわからない」
ケンは少し考えた。
「バイキンマンに確認してください。あなたの力が干渉できるかどうか」
「はい」
ロールパンナがバイキンマンの方に走った。
二人が短く話した。
バイキンマンがロールパンナを見て、何かを言った。ロールパンナが頷いた。
ロールパンナが戻ってきた。
「干渉できる可能性があると言っていました。ただ——近づかないといけない」
「近づいた時のリスクは」
「バイキンマンが——隣にいてくれると言っていました」
ケンはバイキンマンを見た。
バイキンマンが頷いた。
「……わかりました。ただし——何かあればすぐ引いてください」
「はい」
「補給は俺がここから送ります。三戦士への補給は、今日は距離があるので——バタコさんが中継地点に行けますか」
「行けるわ」
「お願いします。俺はここで通信を維持します」
バタコさんが頷いた。
エプロンを結び直して、補給パンの袋を持った。
「行ってきます」
「気をつけてください」
バタコさんが工場を出た。
戦闘が始まった。
アンパンマンがだだんだんの正面に向かった。
カレーパンマンが側面から牽制した。
食パンマンが空中でバリアを展開し、周囲への被害を最小化しようとした。
ブラックノワールが——現れた。
どこから来たのか、広場の横に突然いた。
「遅くなった」
「来てくれたんですか」
「来た。あいつは——俺と近い設計だ。少しわかる」
「干渉できますか」
「できるかもしれない。やってみる」
ブラックノワールが空に上がった。
だだんだんの上に立つパラレルバイキンマンに向かっていった。
ケンは通信を続けながら、工場の前で状況を把握し続けた。
アンパンマンから。
『黒いフィールドが——少し薄くなった。ブラックノワールが何かしている』
「突入できますか」
『もう少し。バイキンマンが——正面から向かっている』
バイキンマンから。
『あいつに話しかけた。返事がなかった。言葉が届かない。でも——一瞬だけ、動きが止まった』
「止まった」
『俺の声を聞いて、止まった。届いていないようで——何かが届いている』
「続けてください」
『続ける』
通信が数分間途切れた。
工場から遠くに、閃光が見えた。
アンパンマンの攻撃だ、とケンにはわかった。
それから、別の光が見えた。
白と黒の光——ロールパンナの力だ。
地面が揺れた。
それから——だだんだんの動きが、少し変わった。
ゆっくりになった。
完全に止まったわけではない。でも、確かに鈍くなった。
アンパンマンから通信が来た。
『——当たった。アンパンチが、当たった』
「突入できましたか」
『ブラックノワールがフィールドを割ってくれた。その隙間に入れた。バイキンマンが注意を引いている間に——アンパンチを打てた』
「だだんだんは」
『動きが、止まっている。でも——まだ立っている。一発では足りない』
「補給はできますか。バタコさんが中継地点にいます」
『頼む。カレーパンマンが消耗している』
ケンはバタコさんに通信した。
「バタコさん、カレーパンマンさんへの補給をお願いします」
『今届けます』
戦闘は一時間続いた。
最終的に、五人の連携でだだんだんを停止させることができた。
アンパンマンが三回目のアンパンチを打った時、だだんだんがついに倒れた。
地面が大きく揺れた。
パラレルバイキンマンは——どこかに消えた。
倒れたのではなく、消えた。
この世界に定着しきれなかったのかもしれない、とケンは後で考えた。向こう側のエネルギーが、こちら側の世界に馴染めなかったのかもしれない。
全員が工場に戻ったのは、昼過ぎだった。
消耗していた。特にアンパンマンとカレーパンマンが。
ケンが補給パンを配った。
全員が黙って受け取った。
バイキンマンが、工場の壁に背を預けて立っていた。
「ケン」
「はい」
「俺が開けた穴から来た」
「そうかもしれません」
「俺の責任だ」
「向こう側に何があるかは、行く前にはわからなかった。それは誰のせいでもない」
「でも」
「でも、あなたが責任を感じるなら——次に備えればいい。突破口が完全に閉まるまで警戒を続ける。それが今できることです」
バイキンマンが少し黙った。
「……お前は、いつも前を向かせる」
「前を向かないと、仕事が止まるので」
「在庫管理か」
「はい」
バイキンマンが短く鼻を鳴らした。
今日の戦いの後にしては、いつもより柔らかい音だった。
夜のメモ帳。
パラレルワールドのバイキンマン出現。だだんだんを引き連れて来た。突破口からこちら側に流れ込んだ。
五人の連携で撃退。消えた。定着できなかったと推測。
ただし——突破口が完全に閉まるまで、同様の事態が起きる可能性がある。警戒継続。
書きながら、ケンは今日の戦いを思い返した。
今日、初めて「戦力が足りないかもしれない」と本気で思った場面があった。
カレーパンマンの攻撃が効かなかった時。食パンマンのバリアが弾かれた時。
でも——五人が連携した。バイキンマンが声をかけ続けた。ブラックノワールがフィールドを割った。ロールパンナが干渉した。カレーパンマンが牽制し続けた。食パンマンが防衛した。そしてアンパンマンが打った。
誰か一人が欠けていても、届かなかった。
ケンはメモ帳の余白に書いた。
——今日の補給:アンパンマン三回、カレーパンマン二回、食パンマン一回、バイキンマン一回。バタコさんの中継が機能した。
数字を書いてから、ケンは少し笑った。
今日みたいな日でも、記録を取っている。
それがこの仕事だ。
チーズが足元に来た。
窓の外に星が出ていた。
この世界に来て、百五十一日目の夜だった。
ケンはメモ帳を閉じた。




