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第34話 外壁の向こう

出発の朝は、晴れていた。


 前回は曇りだった。今日は違う。空が青く、雲が少ない。風もない。


 ケンは五時に起きて、窯に火を入れた。


 携帯パンの最終確認をした。あんパン八個。バターロール六個。非常食の詰め合わせ。前回より多く用意した。ジャムおじさんが「多すぎるくらいでいい」と言ったので、多くした。


 バタコさんが降りてきた。


「今日は晴れてよかった」


「そうですね」


「前回は曇ってたから——今日の方が縁起がいい気がする」


「根拠はないですが」


「根拠なくていいの。気持ちの問題よ」


「そうですね」


 バタコさんがエプロンをつけた。


「今日の朝食は、ちゃんと食べさせる。特別にする」


「何を作りますか」


「あなたに決めてほしい。工場に来てから一番好きだったものを」


 ケンは少し考えた。


「さんちゃんのイチゴジャムを、バターロールに塗ったものが好きです」


「シンプルね」


「シンプルでいいです。今日は、いつも通りの朝食がいい気がします」


 バタコさんが少し笑った。


「……そうね。それにしましょう」




 朝食は、工場の全員で食べた。


 アンパンマン、ジャムおじさん、バタコさん、ケン、カレーパンマン、食パンマン、ロールパンナ、ブラックノワール——今日は珍しく、ブラックノワールも来ていた。バイキンマンが連絡したらしい。


 ドキンちゃんは昨日のうちにバイキン城に戻っていた。今日は来なかった。でも昨日の夜、バイキンマンに何かを渡していたのをケンは見ていた。小さな包みだった。バイキンマンが受け取る時、少しだけ手が止まった。


 テーブルにバターロールとジャムが並んだ。


 全員が黙って食べた。


 それが自然だった。言葉より先に、今日という日があった。


 ジャムおじさんが言った。


「美味いな、今日も」


「さんちゃんのジャムです」


「そうじゃ。あの子は本当に上手になった」


 バタコさんが少し笑った。


「成長してるのよ、みんな」


 ブラックノワールが黙ってバターロールを食べていた。


 食べ終えて、テーブルを見た。


「……美味い」


 珍しかった。ブラックノワールが食べ物の感想を言うのは、ケンが聞いた限り初めてだった。


「そうですか」


「こういうものを、村の子供たちも食べているのか」


「食べています。カバオくんはあんパンが好きで、ちびぞうくんはバターロールが好きです」


「そうか」


 ブラックノワールが少し間を置いた。


「……守る価値がある」


 誰も何も言わなかった。


 でも——全員が、その言葉を聞いた。




 六時半、出発だった。


 バイキンマンが携帯パンの袋を受け取った。


 昨日ドキンちゃんに渡された小さな包みを、マントの内側から取り出して確認してから、また戻した。


「行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「……その言い方は昨日も言ったな」


「今日も言います」


 バイキンマンが短く鼻を鳴らした。


 アンパンマンがジャムおじさんを抱えて浮き上がった。


「ケンさん、待っていてね」


「待ちます」


「チーズも」


 チーズが一声吠えた。


 三人が北の方角に向かって飛んでいった。




 午前中は静かだった。


 ケンは通常の焼成作業をしながら、通信機を手元に置いた。


 カレーパンマンと食パンマンは外の警戒についた。ロールパンナは裏手で最後の練習をしていた。ブラックノワールは工場の外周を確認していた。


 バタコさんが隣に来た。


「落ち着かないわね」


「そうですね。焼成の温度管理に集中しにくいです」


「人間らしいじゃない」


「バタコさんは落ち着いていますか」


「落ち着いていない。でも——落ち着いていないままやることをやるしかないでしょ」


「そうですね」


 バタコさんが窯を確認した。


「温度、少し上がりすぎてるわよ」


「すみません」


 ケンが調整した。


「こんなこと、今まで一度もなかったわよ」


「そうですね」


「——頼もしいわよ。そういうとこが」


「そうですか」


「そうよ」




 昼過ぎ、ブラックノワールが工場の前に来た。


「来る」


「ブラックノーズですか」


「そうだ。外壁に触れ始めた。面の干渉を展開しようとしている」


 ケンは通信機を取った。


「アンパンマンさん、ブラックノーズが動き始めました」


『——バイキンマンに伝える。今、突破口の前に立った。あと少しだ』


「急いでください」


『わかった』


 カレーパンマン、食パンマン、ブラックノワールが北へ飛んだ。


 広場に、ケンとバタコさんとロールパンナが残った。


「ケンさん」


 ロールパンナが言った。


「はい」


「私は——何をすればいいですか」


「今は待ちます。何か来た時に動ける準備だけしていてください」


「わかりました」




 通信が続いた。


 カレーパンマンから。


『ブラックノーズが見えた。前回より大きい。面の干渉を展開している』


「ブラックノワールは動けますか」


『動いている。でも——前回より本気だ、ブラックノーズが』


 アンパンマンから。


『今、バイキンマンが突破口に手を当てた。前回より——エネルギーが大きい。光が——』


 少し間があった。


『——開いた』


「突破口が開きましたか」


『開いた。バイキンマンが——入ろうとしている。ジャムおじさんが——バイキンマンの腕を、持っている』


「一緒に入ろうとしていますか」


『そうだ。バイキンマンが止めない。ジャムおじさんの手を振り払わない』


 ケンは何も言えなかった。


 バタコさんが横でじっと通信機を見ていた。


『二人が——入った。突破口から——消えた』




 しばらく通信が途絶えた。


 ケンは通信機を持ったまま、動かなかった。


 カレーパンマンから。


『ブラックノーズが——止まった。干渉が、弱まっている』


「突破口が開いたからですか」


『そうだと思う。外壁の薄い部分が——変化している。ブラックノーズの力が、減っている』


 食パンマンから。


『突破口は——まだ開いている。閉まっていない。まだ繋がっています』


 ケンは少し考えた。


 開いたまま。戻ってくる経路が、まだある。


「アンパンマンさん、聞こえますか」


『……聞こえる』


「状況は」


『俺は外側にいる。突破口の前で——待っている。入れなかった。これは二人の時間だと思って』


「そうですか」


『ケンさん。ジャムおじさんが——バイキンマンと一緒に向こう側を見ている。俺には見えないけど、そうだと思う』


「そうだと思います」


『帰ってくると思う。二人とも』


「帰ってきます」




 十五分後。


 アンパンマンから通信が来た。


『——来た』


「帰ってきましたか」


『来た。二人とも。突破口から——出てきた』


「状態は」


『バイキンマンが——笑ってる。また笑ってる。ジャムおじさんも——目が赤い。泣きながら笑ってる』


 ケンは少し目を閉じた。


「補給パンを準備します。帰ってくる時間は」


『一時間くらいかな。バイキンマンが——空を見てる。向こう側の空を、まだ見てる』


「そのままにしてあげてください」


『うん。——ケンさん』


「はい」


『よかった』


「よかったですね」




 帰還は、午後三時過ぎだった。


 四人が広場に降りてきた。


 バイキンマンの目が——違った。何かを見てきた目だった。


「帰ってきました」


「ああ」


「向こう側は、どうでしたか」


 バイキンマンが少し間を置いた。


「広かった。空の色が——違った。たかしさんが見ていた空と、同じだったかどうかはわからない。でも——きれいだった」


「ジャムおじさんも行ったんですね」


「……わしも行きたかった。黙っていてすまなかったな、ケン君」


「謝らないでください。行ってよかったと思います」


 バイキンマンが短く鼻を鳴らした。


「……否定しない」


「ドキンちゃんの包み、向こうで開けましたか」


 バイキンマンが、マントの内側から取り出した。


 小さな折り紙だった。ハートの形をしていた。


「これだけだった」


「……それだけですか」


「これだけだ。でも——向こう側で、これを見た時」


 バイキンマンが少し止まった。


「帰ろうと思った。すぐに、帰ろうと思った」


 ケンは何も言わなかった。


 それで十分だった。




 夜のメモ帳。


 外壁本格突破、成功。バイキンマンとジャムおじさんが向こう側へ。帰還確認。全員無事。


 ブラックノーズの干渉は突破と同時に弱体化。


 バイキンマンが向こう側で見たもの。たかしさんが見ていたかもしれない空。


 ドキンちゃんが渡したハートの折り紙。


 書きながら、ケンは今日一日を振り返った。


 「明日、帰ってくるのを待つ」と昨夜書いた。


 帰ってきた。


 全員、帰ってきた。


 ケンはメモ帳の最後のページを開いた。


 昨夜書いた一行の下に、もう一行書いた。


 ——帰ってきた。


 それだけでよかった。


 窓の外に星が出ていた。


 チーズが足元で丸まった。


 この世界に来て、百五十日目の夜だった。


 ケンはメモ帳を閉じた。

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