第33話 守るということ
本格突破まで一週間になった日の朝、ロールパンナが練習を始めた。
工場の裏手の広場だった。誰もいない。草が生えていて、遠くに山が見える。ケンが場所を用意した。ここなら何かあっても工場の建物には影響が出ない。
ロールパンナが右手と左手を交互に見た。
右手が白く光る。左手が黒く揺れる。
「今日は——左手だけに集中します」
「わかりました。俺はここで見ています。何かあれば言ってください」
「ありがとうございます」
ロールパンナが深く息を吸って、左手を前に出した。
黒いオーラが滲み出た。
いつもより少し、安定している。
「少し形を作ってみます」
「どうぞ」
ロールパンナが左手を動かした。黒いオーラが動いた。形になろうとして、また散った。
「……また崩れた」
「昨日より長く保てましたよ」
「そうですか」
「そうです。三秒から四秒になりました」
ロールパンナが少し首を傾けた。
「数えていたんですか」
「メモしています」
「……いつも、ちゃんと見ていてくれるんですね」
「仕事なので」
「でも——見てもらえると、心強いです」
ケンは少し間を置いた。
「俺はただ見ているだけです。動かしているのは、あなた自身です」
「でも——一人でやっていたら、今より不安だったと思います」
「それならよかったです」
午後、バイキンマンが来た。
ロールパンナの練習を見てからにする、と事前に連絡があった。
バイキンマンが裏手の広場に来て、ロールパンナの動きを見た。
黙って見ていた。
ロールパンナが気づいて振り返った。
「バイキンマン」
「続けろ。邪魔はしない」
ロールパンナが練習を続けた。
黒いオーラが、今日の最長記録である五秒間、安定して形を保った。
ロールパンナが息を吐いた。
「今日は長くできました」
「見ていた」
「……どうでしたか」
バイキンマンが少し間を置いた。
「俺の精製炉から出たエネルギーが、お前の中にある。でも——お前はそれを、自分のものにしていっている」
「自分のもの」
「俺が持っていた時とは、少し違う動き方をしている。お前なりの扱い方になってきている」
ロールパンナが自分の左手を見た。
「私なりの」
「そうだ。俺のエネルギーを受け継いだけれど——お前は俺じゃない。お前自身の力になっている」
「……それは、いいことですか」
「いいことだ」
バイキンマンが短く言った。
「お前が俺の劣化コピーになっても、意味がない。お前はお前でいい」
ロールパンナが少し俯いた。
「バイキンマン、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「あなたは——私のことを、どう思っていますか」
「どう、というのは」
「私は——あなたの精製炉から漏れたエネルギーが、ジャムおじさんの創造力と反応して生まれた。誰も意図しなかった命です」
「そうだな」
「その命を——どう思っていますか」
バイキンマンが少し黙った。
広場の草が、風に揺れた。
「ドキンちゃんを作った時のことを、覚えているか」
「聞いた話しか知りません」
「俺が作った。意図して作った。でも——でき上がった時に、思ったより遠くに行ってしまったと感じた」
「遠くに、というのは」
「設計通りじゃなかった。感情が豊かすぎて、わがままで、自分の思い通りにならない」
「……ドキンちゃんらしいですね」
「そうだ。でも——そこが好きだ」
ロールパンナが静かに聞いていた。
「お前も同じだ。俺が意図して作ったわけじゃない。でも——できてしまった。そして今、お前自身で動いている。それを見ていると——」
バイキンマンが少し間を置いた。
「……悪くない、と思う」
ロールパンナが、白と黒の目でバイキンマンを見た。
「悪くない」
「そうだ。それ以上は言わない」
「……ありがとうございます」
「礼を言うことじゃない」
バイキンマンが踵を返した。
ケンの横を通りながら、小声で言った。
「見ていてくれ、あの子のことを」
「します」
「俺が戻ってくるまで」
「します」
翌日の夕方、かびるんるんが工場に入ってきた。
バタコさんが気づいて「また来たの」と言った。
ケンが保管庫から出てきて、かびるんるんを見た。
いつもなら追い払うところだが——今日は少し考えた。
かびるんるんが土壌を改良していることを、ケンは知っている。悪者ではない。でも工場の中に入ってこられると、食材に影響が出る可能性がある。
「ロールパンナ」
ロールパンナが奥から出てきた。
「はい」
「練習になるかもしれません。かびるんるんを、外に誘導してもらえますか。傷つけずに」
「……できるかどうかわかりませんが、やってみます」
ロールパンナが右手を出した。
白いオーラが、穏やかに広がった。
かびるんるんが右手の光に反応した。怯えるのではなく——引き寄せられるように、右手の方に向いた。
「……ついてきている」
「そのまま、外に誘導してみてください」
ロールパンナがゆっくり後退しながら、裏口に向かった。
かびるんるんが後をついてきた。
裏口を開けると、かびるんるんが外に出た。
ロールパンナが右手を引っ込めると、かびるんるんは草むらに向かって歩いていった。
ロールパンナが振り返った。
「……できました」
「できましたね」
「傷つけずに、外に出せました」
「はい」
ロールパンナが自分の右手を見た。
「善のエネルギーで、生き物を誘導できる。悪のエネルギーじゃなくても——役に立てることがある」
「そうです」
「私にも——そういう使い方があるんですね」
「あります」
ロールパンナが、少し表情が変わった。
白と黒の目が、やわらかくなった。
「……ありがとうございます。こういう仕事を、一緒にやってくれて」
「仕事なので」
「でも——ありがとうございます」
バタコさんが裏口から顔を出した。
「うまくいったの?」
「うまくいきました」
「よかった。かびるんるんが入ってくると、バターが変質することがあるのよ」
「それは知りませんでした。メモします」
「……本当に何でもメモするのね」
「後で確認できないと困るので」
本格突破前夜、バイキンマンが工場に来た。
昨日と同じ時間帯だった。でも今日は、ドキンちゃんもホラーマンもいなかった。
バイキンマン一人だった。
テーブルに向かい合って、お茶を飲んだ。
しばらく黙っていた。
「明日だ」
「はい」
「準備は」
「完了しています。帰還時の補給パンも用意しました。通信体制も整えました」
「ロールパンナは」
「左手の制御が安定してきています。かびるんるんの誘導もできました」
「善のエネルギーの扱いも上手くなっているか」
「両方少しずつ」
「そうか」
バイキンマンがお茶を飲んだ。
「ケン」
「はい」
「向こう側で——何かあった場合の話をしておきたい」
「何かあった場合というのは」
「戻ってこられなかった場合だ」
ケンは動かなかった。
「……聞きます」
「ドキンちゃんを——頼む」
「ドキンちゃんを」
「俺がいなくなれば、あの子の居場所がなくなる。バイキン城にはホラーマンがいるが——あの子には、ここの方が合っている気がする」
「ここ、というのは工場ですか」
「そうだ。さんちゃんのジャムが好きで、バタコさんと話せて、カバオくんたちとも——」
「知っていたんですか、村の話」
「ドキンちゃんが嬉しそうに話していた。村に行ったこと。カバオくんたちに会ったこと」
「そうでしたか」
「俺がいなくなれば——あの子がここに来ても、おかしくはないと思う」
「バタコさんが受け入れると思います」
「そうか」
バイキンマンがお茶を置いた。
「ホラーマンも——頼む。あいつは自分では決めない。誰かが促さないと動かない」
「ホラーマンは、自分なりに動けていると思いますが」
「そうだな。でも——あいつには、たかしさんの記憶がある。それが重荷になる時が来るかもしれない。その時に、お前に聞いてほしい」
「わかりました」
バイキンマンが少し間を置いた。
「ブラックノワールは——あいつは自分で決める。俺が何を言わなくても」
「そうだと思います」
「だから頼まない。ただ——見ていてくれ」
「します」
バイキンマンが立ち上がった。
「……これで全部だ」
「全部、聞きました」
「帰ってくる前提で言っているわけじゃない」
「知っています。でも——帰ってくることを前提に聞きました」
バイキンマンが少し止まった。
「そうか」
「はい」
「……お前は変わらないな」
「変わりません」
「それでいい」
バイキンマンが表口に向かった。
出る前に振り返った。
「ケン」
「はい」
「この世界に来て——よかったか」
ケンは少し考えた。
「よかったです」
「前の世界に未練はないか」
「田中のことは、まだ気になっています。でも——ここにいることを、後悔していません」
「そうか」
「バイキンマンは」
「なんだ」
「外に出て、たかしさんの故郷を見て——この世界に戻ってきた時、どう思うと思いますか」
バイキンマンが少し間を置いた。
「……よかった、と思うかもしれない」
「何が、ですか」
「ここがある、と思うかもしれない。戻ってくる場所があることが——よかった、と」
「俺も、そう思います」
バイキンマンがマントをひるがえした。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「……その言い方は、ドキンちゃんみたいだな」
「そうですか」
「悪くない」
表口が閉まった。
ケンは一人で、しばらくテーブルの前に座っていた。
チーズが足元に来た。
夜のメモ帳。
ロールパンナ、かびるんるんの誘導に成功。善のエネルギーの使い方が広がった。
バイキンマン来訪。万が一の時の頼み事を聞いた。ドキンちゃん、ホラーマン、ブラックノワール。
明日、本格突破。
書きながら、ケンは今夜のバイキンマンとの会話を思い返した。
「よかったか」と聞いてきた。
この世界に来て、よかったか。
ケンは答えた。よかったです、と。
それは本当のことだった。
百四十九日。
来た時は、倉庫管理のバイトだった。
今も、倉庫管理のバイトだ。正社員になったけれど。
でも——今日のメモ帳に書いてあることを見ると、それ以上のことが積み重なっている。
ケンはメモ帳の最後のページを開いた。
白紙だった。
一行だけ書いた。
——明日、帰ってくるのを待つ。
窓の外に星が出ていた。
チーズが足元で丸まった。
この世界に来て、百四十九日目の夜だった。
ケンはメモ帳を閉じた。




