第32話 骨の中の記憶
ホラーマンが来たのは、準備期間が始まって四日目の昼過ぎだった。
今回は裏口からでも表口からでもなく、工場の横の小道から来た。チーズが一声吠えて、尻尾を振った。
もう敵として認識していない。
ケンが出ると、ローブを纏った骨格のアンドロイドが立っていた。
「来ましたね」
「来た」
「バイキンマンから聞きましたか。二週間以内の本格突破について」
「聞いた。ブラックノーズの動きも確認している」
「どんな動きですか」
「前回より広範囲の干渉を準備している。外壁の薄い部分全体を、一度に塞ごうとしているようだ」
「前回はポイントを絞って干渉してきたのに」
「今回は面で来る。それだけブラックノーズが本気だということだ」
ケンは頭の中で計算した。
面の干渉ということは、ブラックノワールとカレーパンマンが一点に集中しても抑えきれない可能性がある。
「対処法はありますか」
「ブラックノーズの集中を分散させるしかない。複数の方向から同時に圧力をかければ、面の干渉を維持できなくなる」
「複数の方向というのは、人手が必要ということですか」
「そうだ。前回の二人では足りないかもしれない」
「……入ってください。話を続けましょう」
作業室に入って、ケンとホラーマンが向かい合った。
今日はバタコさんも同席した。ジャムおじさんは奥の部屋で計算をしていたが、呼ぼうとしたらホラーマンが「まだいい」と言った。
「ロールパンナを使う案があります」
ケンが言った。
「ロールパンナ?」
「左手の黒いオーラはバイキンマンの精製炉と同源のエネルギーです。ブラックノーズのエネルギーと干渉する可能性がある」
「……考えていなかった視点だ」
「本人の制御がまだ不安定なので、リスクはあります。でも——今から二週間練習すれば、少し安定するかもしれない」
「二週間で、どのくらい安定するか」
「測っていないのでわかりません。でも——毎日、昨日より良くなっています」
「根拠は」
「見ているからです。数値はありませんが、外から見て変化はわかります」
ホラーマンが少し間を置いた。
「……お前は、見ていることで多くのことを判断するのだな」
「メモを取ることと、見ることが俺の仕事なので」
「在庫管理の、か」
「はい」
話し合いがひと段落して、お茶を飲んでいた時、ホラーマンが言った。
「ケン、一つ聞いてもいいか」
「はい」
「お前は——俺のことを、どういう存在だと思っているか」
ケンは少し考えた。
「バイキン帝国の参謀。でも——バイキンマンとは別の動きをすることがある。自分の判断を持っている」
「それだけか」
「それだけでは、ないかもしれません。ただ、他のことはまだよくわからないので」
「わからない部分を、教えてほしいか」
「聞けるなら、聞きたいです」
ホラーマンが少し間を置いた。
「俺の中にある記憶の話だ。前に少し話したと思うが」
「食パンを食べた記憶、でしたね」
「そうだ。あの後も、ずっと考えていた。その記憶がどこから来たのかを」
「わかりましたか」
「わからない。でも——最近、別の断片が出てくるようになった」
「別の断片」
ホラーマンが、ローブの袖から手を出した。骨格の手だ。
「この手が——別の感触を覚えている気がする」
「別の感触、というのは」
「鉛筆を持つ感触だ」
ケンは動かなかった。
「鉛筆を持って、何かを描いていた記憶がある。でも——何を描いていたかはわからない。ただ、手が覚えている」
「スケッチブックに関係しますか」
「……そう思っている。バイキンマンのスケッチブックは、鉛筆で描かれていた。俺の中にある感触と、一致しているような気がして」
ケンは頭の中で静かに整理した。
ホラーマンの骨格は、誰かの遺骨にナノロボットを埋め込んだものだとジャムおじさんから聞いていた。その人物の記憶データが転写されているとも。
そしてスケッチブックを鉛筆で描いた人物は——たかしさんだ。
鉛筆の感触を覚えているこの手が、もしあのスケッチブックを描いた手と同じなら。
「ホラーマン、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「その記憶の中に——声がありますか。誰かの声」
長い沈黙があった。
「……ある」
「どんな声ですか」
「老いた声だ。でも——温かい。よく笑う声だ」
「よく笑う」
「うん。何かを作る時に、独り言を言いながら笑っていた。『これはどうかな』とか、『こういう子にしたい』とか」
バタコさんが、静かに動きを止めた。
「……こういう子にしたい」
バタコさんが繰り返した。小さな声で。
ケンも静かに聞いていた。
「その声の主の顔は、見えますか」
「見えない。ただ——手が見える。俺の中にある手の記憶と、似た手をしている。鉛筆を持って、何かを描いている手」
「老いた手ですか」
「老いた、でも丁寧な手だ」
ケンはメモ帳を持ったまま、何も書けなかった。
この手は——スケッチブックを描いた手かもしれない。
たかしさんの手かもしれない。
でも確認する術がない。ただ——あまりにも合致している。
「ホラーマン」
「なんだ」
「その記憶の中に——バイキンマンはいますか」
今度は、もっと長い沈黙があった。
「……いる」
「どんな様子ですか」
「小さい。バイキンマンが——小さかった頃の記憶だと思う。まだ完成したばかりの頃の」
「その時の声の主は、バイキンマンに何と言っていましたか」
ホラーマンが、少し震えた。
骨格のアンドロイドが震えた。
「……お前は大事な仕事をしている、と言っていた」
ケンは息を静かに吐いた。
その言葉は、バイキンマンが以前ケンに語っていた言葉と同じだった。
死ぬ前にたかしさんがバイキンマンに言った言葉。
「ホラーマン」
「なんだ」
「その記憶は——本物だと思います」
「本物、というのは」
「あなたが感じていることは、ノイズじゃない。あなたが覚えていることは、本当にあったことだと思います」
「でも——俺は、その記憶の主ではない」
「そうかもしれません。でも——その記憶が、あなたの中にある。それは事実です」
ホラーマンが動かなかった。
「……あの声の主は、どこにいるんだ」
ケンは少し間を置いた。
「もうここにはいません。でも——あなたの中に、いる」
「俺の中に」
「記憶として。消えない記憶として。それはあなたが存在する限り、消えない」
ホラーマンがケンを見た。
骨の顔。眼窩の光。その光が——今日は少し違う色をしていた気がした。
「消えない理由がある、と以前言っていたな」
「はい。一番最初に話した時に」
「今も、そう思うか」
「今の方が、もっとそう思います」
ホラーマンが少し、俯いた。
骨格の存在が俯く。その動作が、今日は妙に人間らしく見えた。
「……ありがとう」
「俺は何もしていないです」
「聞いてくれた。それで十分だ」
帰り際、ホラーマンがバタコさんを振り返った。
「バタコさん」
「はい」
「一つ聞いていいですか」
「なんですか」
「あなたは——パンが好きですか」
バタコさんが少し止まった。
「好きよ。ずっと好き」
「なぜ好きなのか、わかりますか」
「……前は、わからなかった。でも今は——少し、わかります」
「何がわかりましたか」
バタコさんが窯を見た。
「誰かが作ったものを、誰かが食べて喜ぶ。その連鎖の中に、私はいる。それが——好きなんだと思います」
ホラーマンが静かに聞いていた。
「……そうですか」
「なんで聞いたの」
「俺の中にある記憶の人物が——そういう気持ちで、ものを作っていた気がしたので」
「その人物は誰ですか」
「……わかりません。でも——今、あなたの言葉を聞いて、少しわかった気がします」
「何がわかりましたか」
「その人物が——なぜあなたを作ろうとしたのか」
バタコさんが動かなかった。
「……なぜ」
「誰かが作ったものを、誰かが食べて喜ぶ。その連鎖を——続けてほしかったんだと思います」
静寂があった。
バタコさんの目が、少し赤くなった。
ホラーマンがローブをひるがえした。
「また来ます。本格突破の前に、もう一度情報を持ってきます」
「ありがとうございます」
「ケン」
「はい」
「田中という名前に、何か思い当たることはあるか」
ケンは止まった。
「田中、というのは」
「俺の記憶の中に、その名前がある。声の主の名前か、それとも別の誰かの名前かはわからない。ただ——何度も出てくる」
「……田中健太、という人物を前の世界で知っていました。俺が庇った、同僚の名前です」
「その人物と——俺の記憶の中の田中が、同じかどうかはわからない」
「そうですね」
「でも——お前に聞いておきたかった」
「聞いてくれてありがとうございます」
ホラーマンが出て行った。
足音がしなかった。
工場の中が静かになった。
バタコさんとケンが残った。
「ケンさん」
「はい」
「ホラーマンの記憶の中にある人物が——誰なのか、あなたにはわかってる?」
ケンは少し間を置いた。
「……わかりません。確認する方法がないので」
「でも」
「でも——鉛筆の感触、スケッチブック、よく笑う老いた声、こういう子にしたいという言葉、お前は大事な仕事をしているという言葉。全部が——一人の人物を指している気がします」
「たかしさん」
「そうかもしれない。でも今は確認できない」
バタコさんが窯を見た。
「……ホラーマンは、たかしさんの骨の上に作られたのかもしれないわね」
その言葉を、ケンは黙って受け取った。
「だとしたら——ホラーマンの中に、たかしさんがいる」
「消えない記憶として」
「そうね」
しばらく二人は黙っていた。
窯の火が、穏やかに燃えていた。
「バタコさん」
「なに」
「たかしさんが——あなたを作った理由が、今日ホラーマンの口から出た気がします」
「誰かが作ったものを、誰かが食べて喜ぶ連鎖を続けてほしかった、ということ」
「はい」
バタコさんが少し笑った。
「続けてるわよ。ちゃんと」
「そうですね」
「だから——よかったと思う」
夜のメモ帳。
ホラーマン来訪。ブラックノーズが面の干渉を準備中との情報。対策としてロールパンナの活用案を検討。
ホラーマンの記憶の断片:鉛筆を持つ感触、よく笑う老いた声、「こういう子にしたい」という言葉、小さかった頃のバイキンマン、「お前は大事な仕事をしている」という言葉。
田中という名前。
書きながら、ケンはしばらくペンを止めた。
ホラーマンの骨格がたかしさんの遺骨にナノロボットを埋め込んで作られているとすれば——ホラーマンが持つ記憶の断片は、たかしさんが生前に経験したことだ。
バイキンマンに「お前は大事な仕事をしている」と言った、あの老人の記憶が。
今もホラーマンの中で、消えずに残っている。
そしてホラーマンは、その記憶の重さを知らないまま——「消えない」と言い続けていた。
ケンはメモ帳の余白に書いた。
——消えない理由がある記憶は、本人の骨の中にある。
それ以上は書けなかった。
田中という名前については、また別に考える。今夜は——ホラーマンが震えた瞬間を、思い返していた。
骨格のアンドロイドが震えた。
たかしさんの骨が、震えた。
チーズが足元に来た。
窓の外に星が出ていた。
この世界に来て、百四十六日目の夜だった。
ケンはメモ帳を閉じた。




