第31話 肉まん
帰還の翌日、ケンは朝から材料の確認をした。
薄力粉。強力粉。ベーキングパウダー。砂糖。塩。豚肉——この世界に豚はいる。ジャムおじさんが確認してくれていた。ネギ。生姜。醤油に相当する調味料。胡麻油に似た油。
全部、揃っていた。
バタコさんが横に来た。
「ほんとに作るの」
「作ります。約束したので」
「私、肉まんを見たことがないわ」
「見せます。作りながら教えます」
「私も手伝う、って言ったわよ」
「一緒にやりましょう」
バタコさんがエプロンを結び直した。
「どこから始めるの」
「生地からです。こういう順番で——」
ケンが説明しながら、粉を量り始めた。
強力粉と薄力粉を合わせる。ベーキングパウダー、砂糖、塩を加える。水を少しずつ入れながら捏ねる。
「パン生地と似てるわね」
「少し違います。パンは酵母を使って発酵させる。これはベーキングパウダーで膨らませる」
「発酵させないの?」
「蒸すので、発酵させなくても膨らみます」
「蒸す、か」
バタコさんがケンの手元を見ながら言った。
「あなた、料理上手なのね」
「一人暮らしが長かったので。特別得意なわけじゃないですが」
「でも肉まんを一から作れるのは、普通じゃないわよ」
「好きだったので。作っているうちに慣れました」
ジャムおじさんが奥の部屋から出てきた。
顔色がよかった。昨日の疲れが少し残っているようだったが、目が明るい。
「匂いがするな」
「まだ生地の段階です」
「生地でも匂いがする。粉の匂いは、わしには落ち着くな」
「パン工場で長く暮らしているから、ですかね」
「そうかもしれん」
老人がケンの手元を覗いた。
「これが肉まんか」
「今は生地を作っています。中に入れる肉の具を後で作ります」
「中に肉が入るのか。包んで、蒸す、というのがあんたの言っていたことじゃな」
「そうです」
「難しそうじゃ」
「やってみれば、そうでもないです。ジャムおじさんもやりますか」
「……やってみようかな」
老人がエプロンをつけた。
三人で生地を作り始めた。
アンパンマンが顔を出したのは、昼前だった。
「なんか、いい匂いがする」
「肉まんを作っています」
「肉まん?」
「俺が前の世界でよく食べていたものです。バタコさんにずっと作ると言っていて、やっと作ることになりました」
アンパンマンが作業台を覗いた。
丸い生地が並んでいた。中身を包む前の、白い生地の玉が十二個。
「これが肉まん?」
「まだ中身を包んでいません。これから豚肉とネギと生姜を合わせた具を包んで、蒸します」
「一緒にやっていい?」
「どうぞ。包む作業を手伝ってもらえますか」
「やる!」
アンパンマンがエプロンをつけた。
アンパンマンが肉まんを作る。
ケンはそれを見て、少しおかしくなった。でも笑わなかった。
「生地を手のひらに乗せて、こうやって伸ばします」
「こう?」
「もう少し薄く」
「これくらい?」
「そうです。中央に具を乗せて、端を集めて、こうやって閉じる」
「難しい」
「慣れれば簡単です。最初は形が崩れても大丈夫」
アンパンマンが真剣な顔で生地と格闘した。
できあがった肉まんは、少し歪んでいた。
「……変な形になった」
「大丈夫です。味は変わりません」
「でも、ケンさんのと全然違う形だ」
「工場で作るパンは、みんなが美味しく食べられれば形は関係ない——って、誰かが言っていましたよね」
アンパンマンが少し止まった。
「俺が言ったやつだ」
「そうです」
「……形は関係ない、か」
「はい」
「わかった。次はもう少し上手くやる」
昼近くに、バイキンマンが来た。
今日は事前に連絡があった。昼過ぎに来ると言っていた。
表口を開けると、バイキンマンとドキンちゃんが並んで立っていた。
「肉まんができると聞いた」
「ドキンちゃんには話したんですか」
「話したら来ると言った」
「当たり前でしょ。珍しい食べ物が食べられるんだから」
ドキンちゃんが当然のように言った。
「入ってください。もうすぐ蒸し上がります」
大きな蒸籠を窯の上に乗せていた。
中に十二個の肉まんが並んでいる。蒸気が上がり始めて、工場の中に白い霧のような湯気が広がっていた。
全員が作業室に集まった。
アンパンマン、カレーパンマン、食パンマン、ジャムおじさん、バタコさん、バイキンマン、ドキンちゃん、ロールパンナ。ブラックノワールは昨日帰ったが、今日は来なかった。チーズがテーブルの下にいた。
「十五分ほどかかります」
「待てる」
バイキンマンが椅子に座った。
カレーパンマンが隣に座った。
二人が隣り合って座っている。
カレーパンマンが少し言った。
「昨日、一緒に飛んだな」
「そうだな」
「あまり話さなかったが」
「そうだな」
「……悪くなかった」
「そうか」
短いやり取りだった。でも——昨日まで戦ってきた二人が、それだけ言えた。それで十分だった。
ドキンちゃんが部屋を見渡した。
「なんかここ、いつも人が多いわね」
「色々ありましたから」
「前は私一人でさんちゃんのジャムをもらいに来てたのに」
「今は違いますね」
「違うわね」
ドキンちゃんが少し笑った。
「悪くないけど」
十五分後、蒸籠の蓋を開けた。
湯気が上がった。
白くて丸い肉まんが、ふっくらと膨らんでいた。
「できた」
「きれいね」
「いい匂いがする」
バタコさんが一つ取り出して、皿に乗せた。
「熱いので気をつけてください。少し冷ましてから」
全員に配った。
ジャムおじさんが最初に一口かじった。
老人の顔が、少し変わった。
「……美味い」
「よかったです」
「パンとは全然違う。でも——美味い。蒸した生地が、こういう食感になるのか」
「はい。蒸すと、もちもちになります」
「もちもち」
「弾力がある、ということです」
老人がもう一口食べた。
「肉の具が——生姜が効いていて、いいな」
「生姜は昨日バタコさんに選んでもらいました」
「あら、そうなの」
バタコさんが少し得意そうな顔をした。
ドキンちゃんが食べた。
「……おいしい。なにこれ、初めて食べた」
「そうですね、この世界にはないので」
「なんで前の世界にはあるの」
「長い歴史の中で誰かが作ったものです」
「誰が最初に作ったのかしら」
「わかりません。でも——誰かが試してみて、美味しかったから残った。そういうものだと思います」
アンパンマンが自分で包んだ、歪んだ肉まんを食べた。
「——美味しい。形が変でも美味しい」
「言ったでしょう」
「うん。言ったとおりだった」
バイキンマンが一口食べた。
しばらく、黙っていた。
「……たかしさんに食べてほしかった」
誰も何も言わなかった。
でも——誰も無視しなかった。
ジャムおじさんが静かに言った。
「たかしさんは、ロールパンが好きだったそうじゃな。肉まんは食べたことがあったかのう」
「知らない。でも——好きだったと思う。こういう食べ物が好きな人だった」
「そうか」
「温かくて、中に具が入っている。素朴で、でも手間がかかっている。そういうものを喜ぶ人だった」
バタコさんが静かに聞いていた。
ロールパンナが自分の肉まんを見た。
「……たかしさんというのは、どんな人でしたか」
バイキンマンがロールパンナを見た。
「お前が生まれる前の話だが——聞くか」
「聞きたいです」
「老いた人だった。でも——目が若かった。いつも何かを作ることを考えていた。作ることが——生きることだった人だ」
「あなたを作った人でもあるんですね」
「そうだ」
「あなたに名前をつける時、たかしさんが好きだったパンから取ったと聞きました」
「そうだ。ロールパンナ——ロールパンから来ている」
「そうなんですね」
ロールパンナが肉まんを一口かじった。
「……美味しい」
「そうですか」
「温かくて、優しい味がします」
「そう言ってもらえると、作った甲斐があります」
昼食後、バイキンマンが言った。
「ケン、少し話せるか」
「はい」
二人で、奥の部屋に移動した。
バイキンマンが椅子に座った。ケンが向かいに座った。
「次の突破の話だ」
「はい」
「手を入れて確認した。戻れる。ただ——完全に通り抜けるためには、もう一段階エネルギーが要る」
「草のエネルギーはどのくらい残っていますか」
「残量から計算すると——あと一回、本格的な突破を試みられる量だ」
「一回で成功しなければ、次はない」
「そうだ。失敗すれば——炉がもたなくなる」
ケンは静かに聞いていた。
「期間は」
「二週間以内に行きたい。草のエネルギーが安定しているうちに」
「ブラックノーズの動きは」
「昨日、抑えられた。次はもっと本格的に来るかもしれない。でも——ブラックノワールが情報をくれた。外壁が薄くなることがブラックノーズの力の源だと」
「はい、俺も聞きました」
「バイキンマンが完全に突破口を通り抜けると——外壁の薄い部分が閉まる可能性がある。そうなれば、ブラックノーズの力が弱まる」
「それはいいことですか」
「ブラックノーズにとっては悪いことだ。だから今度は全力で妨害してくるかもしれない」
「それでも行きますか」
「行く。これが最後の機会だ。炉がもつうちに行かなければ、次はない」
ケンは少し考えた。
「わかりました。二週間、準備します」
「補給を頼む」
「します。それと——」
「なんだ」
「ブラックノワールに連絡できますか。前回みたいに動いてもらえるなら、協力を依頼したい」
「ブラックノワールに」
「彼なりの判断で動いている。頼んでもいいかどうかはバイキンマンが知っているかと思って」
バイキンマンが少し間を置いた。
「……あいつは、自分で動く。頼まなくても来るかもしれない」
「そうですね。でも——事前に伝えておいた方がいい気がします」
「俺から伝える」
「ありがとうございます」
バイキンマンが立ち上がった。
「ケン」
「はい」
「今日の肉まん——美味かった」
「ありがとうございます」
「次は——帰ってきてから、また食べたい」
「作ります。次は生姜を少し多めにしますか」
「そうしてくれ」
「わかりました」
バイキンマンとドキンちゃんが帰った後、工場の中が静かになった。
カレーパンマンと食パンマンも哨戒に出た。アンパンマンはチーズと一緒に散歩に行った。
ジャムおじさんとバタコさんとケンとロールパンナが、作業台の前に残った。
「二週間ね」
バタコさんが言った。
「はい」
「本格的な突破は——今度が最後になるかもしれない」
「そうです」
「成功すれば、バイキンマンは外に出て戻ってくる。失敗すれば——」
「成功します」
ケンが言った。
「根拠は?」
「前回、手を入れて戻ってこられた。仕組みは確認できた。あとは実行するだけです」
「あとは実行するだけ、か」
「準備が整っていれば、そうなります」
バタコさんが少し笑った。
「あなたって、本当にそういう人ね」
「どういう人ですか」
「準備が整えば、あとはやるだけ。それを信じてる人」
「信じているというより——それしかやることがないので」
「同じでしょ」
ロールパンナが言った。
「ケンさん」
「はい」
「二週間で、私も何か準備できることはありますか」
「あります」
「何ですか」
「今よりも、左手の制御を安定させてください。万が一ブラックノーズが工場に来た時——あなたの力が必要になるかもしれない」
「私の力を、防衛に使う」
「使えたら、使ってほしい。でも無理はしないでください。制御できない時は引いていい」
「わかりました」
ロールパンナが自分の左手を見た。
黒いオーラが、かすかに漏れ出ていた。でも——昨日よりは安定している。
「少しずつ、慣れています」
「わかります」
「ケンさんには、見えますか」
「外から見ているので、詳しくはわかりません。でも——毎日ここにいて、昨日と今日が違うことはわかります」
「……それだけでも、ありがとうございます」
夜のメモ帳。
肉まん、完成。全員に食べてもらった。バイキンマンが「たかしさんに食べてほしかった」と言った。
バイキンマンから話があった。二週間以内に本格突破を試みる。草のエネルギーはあと一回分。
次は最後の機会になる。
書きながら、ケンは今日一日を振り返った。
肉まんを作った。みんなで食べた。バイキンマンが美味しいと言った。
たかしさんに食べてほしかった、と言った。
その言葉が、ずっと頭の中に残っていた。
たかしさんは——百五十年前に一人で荒野にいた。でも、その人が作ったものが今もここに続いている。住民たちが笑っていて、バイキンマンが肉まんを食べて、ロールパンナが左手の制御を練習している。
それが全部つながっている。
ケンはメモ帳の最後に書いた。
——二週間後、最後の準備をする。それまでは今日と同じ仕事を続ける。
窓の外に星が出ていた。
チーズが足元で丸まった。
この世界に来て、百四十二日目の夜だった。
ケンはメモ帳を閉じた。




