第30話 外壁の外
朝の通信は、午前十時に来た。
アンパンマンからだった。
『外壁が見えてきた。たかしさんのスケッチブックにあった通りの場所だ。北の山脈の向こう——空の色が変わってる』
「ジャムおじさんとバイキンマンの状態は」
『二人とも問題ない。バイキンマンは——ずっと前を向いて飛んでる。一度も振り返らない』
「そうですか」
『でもケンさん、少し変だと思ったことがあって』
「何ですか」
『外壁に近づいたら——空気が変わった。ブラックノーズが近くにいる時の感じに少し似てる』
ケンは手元の通信機を握り直した。
「ブラックノーズの気配がありますか」
『まだ姿は見えない。でも——なんかいる気がする。バイキンマンも気づいてる。さっき俺の方を見た』
「警戒を続けてください。こちらはブラックノワールがいます。何か動きがあれば伝えます」
『わかった。また連絡する』
通信が切れた。
ケンはブラックノワールを見た。
ブラックノワールは部屋の隅に立っていた。朝から動いていない。椅子には座らず、ただ立って、壁に背を預けていた。
「聞こえていましたか」
「聞こえた」
「ブラックノーズが近くにいる気配がするそうです」
「……そうか」
「わかることはありますか」
「ブラックノーズは——外壁のエネルギーを使って動く。近くにいるなら、外壁を通じて干渉できる」
「干渉というのは」
「外壁の突破口を、塞ぐことができる。あるいは——不安定にすることができる」
「突破口が不安定になると、どうなりますか」
「通り抜ける時に、内部に引き込まれる可能性がある。戻れなくなる」
ケンは静かに考えた。
「ジャムおじさんの計算では、突破口は安定しているはずでした」
「ブラックノーズが干渉しなければ。でも干渉されれば——計算が変わる」
「バイキンマンはそれを知っていますか」
「知っているはずだ。だから気づいた時に振り返ったんだと思う」
ケンはカレーパンマンを呼んだ。
状況を話した。
カレーパンマンが腕を組んだ。
「ブラックノーズが外壁を干渉できるなら——外から止める方法がいる」
「外からというのは、こちら側からですか」
「そうだ。誰かが山脈に向かって、ブラックノーズを牽制する必要がある」
「でもこちらには——」
ケンはその場にいる全員を見た。
カレーパンマン、食パンマン、ロールパンナ、ブラックノワール、バタコさん、ドキンちゃん。
「ドキンちゃんは戦力外として」
「失礼ね」
「すみません。戦闘に慣れていないという意味です」
「……まあ、そうだけど」
「カレーパンマンさんと食パンマンさんが工場を離れると、ここが手薄になります。ロールパンナさんはまだエネルギーの制御が安定していない」
「そうなると——」
ブラックノワールが言った。
「俺が行く」
全員がブラックノワールを見た。
「ブラックノーズは——俺の命令系統の一つだ。直接対峙できる可能性がある」
「でも、あなたが行けば、ここの守りが」
「お前たちがいる」
カレーパンマンが言った。
「ブラックノワール、お前はブラックノーズの命令を受けていた。今でも受けている。それでも行くのか」
「命令を実行しないと決めた。それはここに来た時に決めた」
「なぜ今更、こちらを助ける」
ブラックノワールが少し間を置いた。
「バイキンマンが帰ってこないと——この世界の均衡が崩れる。村の子供たちが、パンを食べて笑う日常が続かなくなるかもしれない」
「それが理由か」
「それが——俺の中にある答えだ」
カレーパンマンがケンを見た。
「お前が決めろ」
「俺が?」
「ジャムおじさんはいない。アンパンマンはいない。今この場の判断は——お前だ」
ケンは少し間を置いた。
「ブラックノワール、山脈まで飛んでいける速度は」
「三十分以内に届く」
「ブラックノーズへの干渉を止めることはできますか」
「できるかどうかわからない。でも——気を引くことはできる。その間に、バイキンマンが突破口を通れれば」
「突破口を通るのに、どのくらい時間がかかりますか」
「バイキンマンの計算では——五分以内だ」
「五分間、ブラックノーズの注意を引けますか」
「やる」
ケンは食パンマンを見た。
「食パンマンさん、工場をお願いできますか」
「できます」
「ロールパンナさんも」
「……はい」
「カレーパンマンさんは——」
「俺も行く」
カレーパンマンが言った。
「ブラックノワールだけじゃ心許ない。俺が同行する」
「でも工場が」
「食パンマンとロールパンナがいる。十分だ。それより——向こうで何かあった時、戦力が足りない方が問題だ」
ケンは少し考えた。
「……わかりました。二人でお願いします。ただ——戻ってきてください」
「当然だ」
出発は十分後だった。
ケンがカレーパンマンに携帯パンを渡した。
「緊急用です。消耗したら使ってください」
「わかった」
「ブラックノワール、何か持っていきますか」
「必要ない」
「そうですか」
ブラックノワールが出発する前に、ケンの方を向いた。
「ケン」
「はい」
「お前に一つ言っておく」
「なんですか」
「ブラックノーズが外壁を干渉するのは——バイキンマンを止めるためだけじゃない」
「他に理由がありますか」
「外壁が薄くなっていることに、ブラックノーズは気づいている。薄くなった外壁から——外のエネルギーがこの世界に流れ込んでいる。それがブラックノーズの力の源だ」
「この世界の外のエネルギーを」
「そうだ。だからバイキンマンに外壁を通り抜けられると——流れ込むエネルギーが止まる可能性がある。ブラックノーズはそれを恐れている」
ケンはその言葉を頭の中に置いた。
「つまり——バイキンマンが外に出ることで、ブラックノーズが弱体化する可能性がある」
「そうだ」
「それを、なぜ今言うんですか」
「バイキンマンが知っておいた方がいいかもしれない。でも——今は伝える時間がない。お前が覚えておいてくれ」
「わかりました」
ブラックノワールとカレーパンマンが空に上がった。
北の方角に飛んでいった。
工場が静かになった。
ケン、バタコさん、食パンマン、ロールパンナ、ドキンちゃん。
チーズがケンの足元に来た。
「ケンさん」
ロールパンナが言った。
「はい」
「私に——できることはありますか」
「今は工場を守ることです。でも——一つお願いがあります」
「なんですか」
「地下に降りて、スライス隊の状態を確認してきてください。ロイヤルローフが今日の状況に反応しているかもしれない」
「わかりました」
ロールパンナが地下に向かった。
ドキンちゃんが窓の外を見ていた。
「ドキンちゃん」
「なに」
「ここにいてください。今日は工場から出ないで」
「わかってる」
「ありがとうございます」
ドキンちゃんが少し振り返った。
「……バイキンマン、大丈夫かな」
「大丈夫です」
「根拠は」
「バイキンマンが帰ってくると言ったから」
「……そうね」
ドキンちゃんが窓の外に視線を戻した。
午後一時、通信が入った。
アンパンマンからだった。
『ケンさん!ブラックノーズが現れた! 外壁の前に——』
「カレーパンマンとブラックノワールは届きましたか」
『今来た! 二人が——ブラックノーズに向かっていってる!』
「バイキンマンの状態は」
『今、突破口に手を当ててる。バイキンマンが——静かだ。怖くないのかな』
ケンは少し考えた。
「怖くないんじゃなくて——今やるべきことをやってるだけだと思います」
『そうか。ケンさんみたいだ』
「俺より、ずっとすごいです」
『ジャムおじさんが——バイキンマンの横に立った。手を——バイキンマンの背中に当てた』
ケンは動かなかった。
「ジャムおじさんが」
『うん。何も言わずに。ただ、手を当てて、一緒に前を向いてる』
ケンはメモ帳を持ったまま、何も書かなかった。
書く言葉が出てこなかった。
しばらく通信が続いた。
『——あ』
「何がありましたか」
『突破口が——開いた』
「開いた」
『光が、見える。白い光が。突破口の向こうに——』
「バイキンマンは」
『バイキンマンが——立ってる。突破口の前で、動かない』
「どういうことですか」
『入ろうとしていない。ジャムおじさんが何か言ってる。バイキンマンが——聞いてる』
ケンは通信機を持ったまま待った。
数秒が、長かった。
『バイキンマンが——笑った』
「笑った」
『笑って、ジャムおじさんに何か言った。それから——突破口に手を入れた』
「手を入れた。大丈夫ですか」
『大丈夫だと思う。引き込まれてない。手が——向こう側にある。こっち側のバイキンマンと、向こう側の手が、繋がってる』
「戻れますか」
『戻れると思う。バイキンマンが——少し待って、それから手を引いた。突破口から出てきた』
「出てきた」
『出てきた。笑ってる。まだ笑ってる。ジャムおじさんに何か言ってる』
ケンは息を吐いた。
「カレーパンマンとブラックノワールは」
『ブラックノーズが——引いた。二人が押さえていたら、ブラックノーズが消えた。どこかに行った』
「二人は無事ですか」
『カレーパンマン、少し消耗してる。ブラックノワールは——動いてる。問題なさそう』
「わかりました。補給パンを準備します。帰ってくる時間は」
『一時間くらいかな。バイキンマンが——今、空を見てる。突破口の向こうを見てる』
「どんな顔をしていますか」
『見えない。背中しか見えない。でも——肩が、少し震えてる気がする』
ケンは少し間を置いた。
「そのまま、見ていてあげてください」
『うん』
「急かさなくていいです」
『うん。——ケンさん』
「はい」
『来てほしかったな。この景色』
「俺もそう思います」
『でも——工場を守ってくれてるから、俺たちはここに来られた』
「ありがとうございます」
『こっちこそ。じゃあ、帰る』
「待っています」
通信が切れた。
工場の中が、静かだった。
バタコさんが横に来た。
「聞こえた」
「はい」
「バイキンマン、手を入れたんだね」
「はい。戻ってこられました」
「そう」
バタコさんが少し黙った。
「……ジャムおじさんが背中に手を当てたの」
「そうだとアンパンマンさんが言っていました」
「あの人らしい」
「そうですね」
バタコさんが目を細めた。
「帰ってきたら——絶対に、肉まん作ってよ」
「作ります」
「私も手伝う」
「ありがとうございます」
ロールパンナが地下から戻ってきた。
「ロイヤルローフ、少し脈動が強くなっていました。でも安定しています。ワンさんが——何かが動いたと言っていました」
「そうですか」
「外壁が開いたことを、感じたのかもしれない。ワンさんがそう言っていました」
ケンはロイヤルローフのことを思った。
工場の地下に、何十年いる存在。外に出ることも、空を見ることもできない存在が——外壁が開いた瞬間を、ここで感じた。
「ロールパンナ」
「はい」
「地下に戻って、スライス隊のそばにいてあげてください。今日は特別な日だから」
「わかりました」
ロールパンナが地下に戻った。
帰還は、午後二時過ぎだった。
チーズが吠えた。
ケンが表口を開けると、空から影が降りてきた。
アンパンマンが先に降り立った。ジャムおじさんを抱えたまま。
バイキンマンが隣に降りた。
カレーパンマンが後ろに来た。ブラックノワールが最後に着地した。
全員、無事だった。
ケンは携帯パンの袋を持って広場に出た。
バイキンマンがケンを見た。
「帰ってきた」
「おかえりなさい」
「手を入れた。向こう側があった。帰ってこられた」
「知っています。アンパンマンさんから聞きました」
「……お前は全部知っていたか」
「通信で聞いていたので」
バイキンマンが少し黙った。
「向こう側は——広かった」
「そうですか」
「空が——別の色をしていた。たかしさんが見ていた空と、同じかもしれない」
ケンは何も言わなかった。
バイキンマンが続けた。
「まだ向こう側には行けていない。手を入れただけだ。でも——戻れることは確認した」
「はい」
「次は——全部通り抜ける。そして戻ってくる」
「次の時も、補給を準備して待ちます」
バイキンマンが、ケンを見た。
「……変わらないな、お前は」
「変わりません」
「それでいい」
ジャムおじさんがアンパンマンから降り立った。
少し疲れた顔をしていた。でも——目が、いつもより輝いていた。
「ケン君」
「おかえりなさい。肉まんを作ります」
老人が、声を出して笑った。
「その言葉を待っておったよ」
夜のメモ帳。
外壁突破の試み、成功。バイキンマンが手を入れ、戻ってくることを確認。ブラックノーズの干渉はカレーパンマンとブラックノワールが抑えた。
全員、無事帰還。
次回の本格突破に向けて、準備を続ける。
書き終えて、ケンはペンを置いた。
今日、外壁の突破口が開いた。
バイキンマンが向こう側に手を入れた。別の空が、そこにあった。
そして——戻ってきた。
それだけのことだ。
でも——それだけのことが、百五十年以上かかった。
ケンはメモ帳を閉じた。
チーズが足元で丸まった。
窓の外に星が出ていた。
今夜は、特別に明るく見えた。
この世界に来て、百四十一日目の夜だった。




