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第29話 出発

出発の朝は、曇っていた。


 珍しかった。この世界に来てから、雨や曇りの日はそれほど多くない。でも今日は空が厚い雲に覆われていた。


 ケンは六時前に起きて、窯に火を入れた。


 今日の出発に合わせて、携帯用パンの最終確認をした。あんパン六個、バターロール四個、非常食の詰め合わせ。バイキンマン用の携帯食。全部、専用の袋に入れて、すぐ渡せるように準備してある。


 バタコさんが降りてきた。


「早いわね」


「今日は早く動きたかったので」


「バイキンマンたちは六時半に来るって言ってたわよ」


「知っています。その前に確認したいことがあって」


 バタコさんがケンの手元を見た。準備の全量を確認している様子を見て、少し黙った。


「……全部確認したの」


「一回目は昨夜。今が二回目です」


「何回するの」


「出発前にもう一回します」


「三回」


「念のためです」


 バタコさんが小さく息を吐いた。


「あなたが心配してるって、伝わってるわよ」


「心配というより——準備しているだけです」


「同じでしょ」


 ケンは少し考えた。


「そうかもしれません」




 六時半、バイキンマンが来た。


 広場に降りてきた。UFOはない。今日は飛行してきたようだった。


 アンパンマンがすでに広場にいた。


 ドキンちゃんが来ていた。バイキン城から、一人で来たらしい。


「バイキンマン」


 ドキンちゃんが言った。


「来たのか」


「来るに決まってるでしょ。行ってらっしゃいくらい言わせてよ」


「……うるさいな」


「うるさくない。心配してるの」


「わかってる」


「帰ってきてよね」


「帰ってくる」


「絶対に」


「絶対に帰ってくる」


 ドキンちゃんが少し顔を俯けた。


「……ホラーマンに言っておいた。何かあったら私に教えてって」


「あいつも来ればよかったのに」


「来たかったと思う。でも——城のことがあるから」


「そうか」


 バイキンマンがドキンちゃんの頭に手を置いた。


 昨日と同じ動作。でも今日は少し長かった。


「ここで待っていろ」


「わかった」


 ドキンちゃんが顔を上げた。目が赤かった。でも、声は落ち着いていた。


「行ってらっしゃい」


「ああ」




 ジャムおじさんが工場から出てきた。


 バタコさんが後ろについていた。


 老人がバタコさんを振り返った。


「バタコさん」


「はい」


「工場を頼む」


「わかってます」


「ケン君と一緒に」


「わかってます」


 バタコさんの声が、少しだけかすれていた。


 ジャムおじさんがバタコさんの手を、一瞬だけ握った。


 それだけだった。


 老人がアンパンマンの方に歩いた。


 ケンが携帯パンの袋を持って近づいた。


「持っていってください。帰還時の分は工場に準備してあります」


「ありがとう」


 ジャムおじさんが袋を受け取った。


 バイキンマンにも、携帯食を渡した。


「必要ないかもしれませんが」


「受け取る」


「帰ってきたら、もっと美味いものを準備します」


「肉まん、か」


「はい」


 バイキンマンが短く鼻を鳴らした。


 アンパンマンがケンを見た。


「ケンさん」


「はい」


「待っていてね」


「待ちます」


「……頼んだよ、工場のこと」


「任せてください」


 アンパンマンがジャムおじさんを両腕に抱えた。


 バイキンマンが空に浮かんだ。


 二人が北の方角に向かって飛び始めた。


 ケンは広場で、その背中を見ていた。


 バタコさんが横に立った。


 ドキンちゃんが反対側に立った。


 カレーパンマンと食パンマンが、少し離れたところで空を見ていた。


 ロールパンナが工場の入口から、静かに見ていた。


 三人の影が、厚い雲の中に消えていった。




 広場が静かになった。


 ドキンちゃんがまだそこに立っていた。


「帰るか」


 カレーパンマンが言った。


「……もう少し」


「城が心配じゃないのか」


「ホラーマンがいる。大丈夫」


 ドキンちゃんが空を見たまま言った。


「ねえ、ケン」


「はい」


「バイキンマンは——帰ってくる?」


「帰ってきます」


「根拠は」


「帰ってくる、と自分で言ったから」


「それだけ?」


「バイキンマンは——一度決めたことを曲げない人です。帰ってくると言った。だから帰ってくる」


 ドキンちゃんが少し間を置いた。


「……そういえば、そうね」


「はい」


「バイキンマン、一度言ったことは曲げないんだよね。頑固だから」


「頑固で助かることもあります」


 ドキンちゃんが少し笑った。


「そうね」


 それから、工場の方を向いた。


「さんちゃん——いる?」


「地下にいると思います」


「ちょっと会ってく。ジャムが残ってたら少し分けてほしくて」


「さんちゃんに直接聞いてみてください」


「うん」


 ドキンちゃんが工場に向かった。


 ケンはその背中を見た。


 来るたびに、少しずつここが「来る場所」になっていっている。




 昼過ぎ、ブラックノワールが来た。


 チーズが一度だけ吠えて、止まった。


 カレーパンマンが通信機で知らせてきた。


『ブラックノワール、工場の南方向から接近。攻撃態勢ではない。どうする』


「俺が出ます」


『俺も出る』


「カレーパンマンさん、少し待ってください」


 ケンが表口を開けた。


 広場の端に、黒い影が立っていた。


「来ましたね」


「来た」


「中に入りますか」


 ブラックノワールが少し止まった。


「……入っていいか」


「バタコさんに確認します」


 バタコさんに聞いた。バタコさんが少し考えてから言った。


「ケンさんが判断していいわよ」


「俺が判断していいんですか」


「今日はジャムおじさんがいない。だから私とあなたで判断する。あなたがいいと思うなら、いい」


 ケンはブラックノワールを見た。


「入ってください」




 作業室のテーブルに向かい合った。


 ケン、ブラックノワール、カレーパンマン。


 カレーパンマンは「同席する」と言って聞かなかった。ケンは断らなかった。


 お茶を三つ置いた。


 ブラックノワールが椅子を見た。座るのが難しそうだったが、ゆっくりと座った。


「何か来た理由がありますか」


「報告がある」


「報告」


「ブラックノーズ様の動きが変わった」


 カレーパンマンが少し前に出た。ケンが手で制した。


「どう変わりましたか」


「バイキンマンが外壁に向かったことを知った。おそらく——阻止しようとする」


「ブラックノーズさんが、直接動くということですか」


「そうだ。私への命令も変わった」


「どう変わりましたか」


「ケンを排除する命令は取り消された。代わりに——バイキンマンを止めるよう命令された」


 カレーパンマンが言った。


「その命令を実行しに来たのか」


「実行しない」


「なぜだ」


 ブラックノワールが少し間を置いた。


「バイキンマンは——帰ってくると言った。俺が止めたら、帰ってこられなくなるかもしれない。それをしたくない」


 ケンは静かに聞いていた。


「村を傷つけたくない、と言っていましたね」


「そうだ。バイキンマンが帰ってこなければ——この世界は均衡を失う可能性がある。村も」


「そのために、命令に従わない」


「そうだ」


 カレーパンマンが腕を組んだ。


「お前がその命令に従わないなら、誰かが代わりにバイキンマンを止めに行くかもしれないぞ」


「わかっている。だからここに来た」


「ここに来た理由は」


「バイキンマンを止めに行く者がいるなら——それをお前たちに知らせるべきだと思った。そしてお前たちが対応できるように」


 沈黙があった。


 カレーパンマンがケンを見た。ケンがカレーパンマンを見た。


「……ブラックノーズが直接動くのか」


「そうだ。場合によっては」


「それは、三人にとって危険ですか」


「危険だ。ブラックノーズは外壁のエネルギーを操れる。外壁の近くでは——特に」


 ケンは通信機を取った。


「アンパンマンさん、聞こえますか」


 しばらく間があった。


『……聞こえる。今、山脈に入ったところだ』


「ブラックノーズが動くかもしれません。外壁の近くで妨害される可能性があります。気をつけてください」


『——わかった。バイキンマンに伝える』


「ジャムおじさんは」


『元気だよ。少し疲れてるけど、目が輝いてる』


「よかったです。気をつけて」


『ケンさん』


「はい」


『そっちは大丈夫?』


「大丈夫です。カレーパンマンさんと食パンマンさんがいます。ロールパンナもいます。それと——ブラックノワールも」


 少し間があった。


『……ブラックノワール?』


「今、工場にいます。報告に来てくれました」


『……そうか』


「行ってきてください。工場は守ります」


『うん。頼んだ』


 通信が切れた。




 ブラックノワールがテーブルを見ながら言った。


「俺を——信じていいのか」


「今この瞬間は、信じています」


「今この瞬間、というのは」


「次の瞬間はわかりません。でも今は、あなたが報告に来てくれた。その事実があります」


「俺は命令に従わなかった。それが正しいことかどうかわからない」


「わからなくても——した。それが今の答えだと思います」


 ブラックノワールが、ケンを見た。


「……お前は不思議な人間だ」


「よく言われます」


「何回だ」


「六回目です」


「数えているのか」


「メモしています」


 カレーパンマンが短く言った。


「ブラックノワール、一つ聞く」


「なんだ」


「ブラックノーズが直接動くとして——それはいつだ」


「わからない。でも——早ければ、今日かもしれない」


「今日か」


「外壁に到達する前に阻止しようとするなら——今日か、明日だ」


 カレーパンマンが立ち上がった。


「食パンマンに伝える。警戒レベルを上げる」


「頼みます」


 カレーパンマンが部屋を出た。


 ブラックノワールとケンが残った。


「もう少しいますか」


「……いていいか」


「どうぞ」


「役に立てることがあれば」


「あれば言います」


 ブラックノワールが、少し体の力を抜いた。


 黒いオーラが、ごくわずかに薄まった気がした。




 夜のメモ帳。


 出発、無事完了。アンパンマン、バイキンマン、ジャムおじさん、現在山脈内を移動中。


 ブラックノワール来訪。報告:ブラックノーズが直接動く可能性。命令に従わなかった理由——バイキンマンを帰還させるため、村を守るため。


 現在ブラックノワールは工場に滞在。


 書き終えて、ケンはペンを置いた。


 今日、見送った。


 明日、帰ってくる——かもしれない。明後日かもしれない。それ以上かかるかもしれない。


 でも——帰ってくることを信じる、と書いた。


 それは変わらない。


 チーズが足元に来た。


 窓の外に、雲の切れ間から星が一つ見えた。


 この世界に来て、百四十日目の夜だった。


 ケンはメモ帳を閉じた。


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