第28話 そろそろ時間だ
ブラックノワールが来た翌日の研究会議で、バイキンマンが言った。
「そろそろ時期だ」
テーブルを囲んでいた全員が、バイキンマンを見た。
ジャムおじさん、ケン、三戦士。ロールパンナも今日は端の椅子に座っていた。バタコさんがお茶を置いて、少し離れたところに立った。
「外壁の突破を、試みる。準備が整ったと思う」
「理論の完成度は」
食パンマンが聞いた。
「九割だ。残り一割は——実際に試してみないとわからない部分だ」
「九割で行くということですか」
「百はない。百になるまで待てば、炉がもたない」
ケンはメモ帳に書いた。
外壁突破計画、実行時期を検討。精製炉の状態と研究完成度のバランス。
「草のエネルギーは、あとどのくらい持ちますか」
「今のペースなら——三ヶ月分残っている。でも突破口を開くためには、一度に大量のエネルギーが要る。そこで相当消費する」
「消費後の余剰は」
「一ヶ月分程度だ」
「帰還に使えるエネルギーは」
「ギリギリだ。だから——失敗は許されない」
静寂があった。
アンパンマンが言った。
「俺たちも、行く」
「何?」
「バイキンマン一人で行かせない。外壁を通る時も、向こう側でも——誰かがそばにいた方がいい」
「向こう側は——お前たちには危険かもしれない」
「危険でもいい」
「感情で言うな」
「感情で言ってる」
バイキンマンが短く鼻を鳴らした。
カレーパンマンが言った。
「俺は行かない」
全員がカレーパンマンを見た。
「驚いた顔をするな。理由がある」
「なんですか」
「ブラックノワールが動いている。工場の近くに来た。あいつが何をするかわからない以上、ここを守る戦力が必要だ。俺と食パンマンで工場を守る」
食パンマンが頷いた。
「同意します。私もここに残る。ロールパンナも」
ロールパンナが少し顔を上げた。
「私も?」
「あなたの力はまだ安定していない。万が一の時に、外では制御が難しくなる可能性がある」
「……わかりました」
ロールパンナが少し俯いた。でも、反論しなかった。
カレーパンマンが続けた。
「アンパンマンはバイキンマンと行く。移動と、向こう側での対応。それでいいか」
「それでいい」
バイキンマンが静かに言った。
「ジャムおじさんは」
「わしも行く。たかしさんの研究を引き継いだ者として——この目で見届けたい」
「飛べないが」
「アンパンマンに頼む」
「……了解した」
全員がケンを見た。
「俺は工場です」
ケンが先に言った。
「行動範囲の問題もあります。それと——補給の最終準備がある」
「何の準備だ」
「帰ってくる時のためです。戻ってきた時に、すぐ補給できる状態にしておく。それが俺の仕事です」
バイキンマンがケンを見た。
「帰ってくることを、前提にしているのか」
「はい」
「……そうだな」
バイキンマンが少し目を細めた。
「帰ってくることを前提にする。それは——わしも同じじゃ」
ジャムおじさんが言った。
「帰ってこられなかったとしても——外壁の向こう側を見た、ということだけで」
「それだけでは十分じゃない」
バイキンマンが遮った。
「帰ってくる。それが前提だ」
老人が目を細めた。
「……そうじゃな」
出発は、三日後と決まった。
その三日間、ケンは準備に集中した。
帰還時の補給パン——アンパンマン用のあんパン六個。ジャムおじさんの非常食。バイキンマン用の携帯食。帰還後の緊急補給を想定して、いつもの倍の量を用意した。
通信機の点検。電池の確認。予備の予備まで用意した。
工場の在庫を全品目確認した。光粉、バター、小麦粉、酵母、あんこ、カレーのルー。全部、二週間分以上確保されていることを確認した。
バタコさんが横で見ていた。
「準備、多くない?」
「多いくらいがいいです」
「そうね」
バタコさんが少し間を置いた。
「……ケンさん、今どんな気持ち」
「どんな気持ち、というのは」
「バイキンマンが行くことについて」
ケンは手を止めた。
「複雑です」
「複雑、か」
「行ってほしいとも思うし、行かせたくないとも思います」
「どっちが強い」
「……行ってほしい、の方が少し強いです」
「なぜ」
「バイキンマンの炉のことを考えると——行かないことで消えていく方が、つらい気がするから」
バタコさんが少し黙った。
「……そうね」
「バタコさんは」
「私も複雑。でも——ジャムおじさんが一緒に行くって言った時、少し安心した」
「ジャムおじさんが行くことで?」
「二人が一緒にいれば、何かあっても——お互いが見ている。それだけで違う気がして」
ケンは頷いた。
「俺もそう思います」
二日目の夜、ジャムおじさんがケンの部屋をノックした。
珍しかった。老人がケンの部屋に来ることは、今まで一度もなかった。
「入っていいですか」
「どうぞ」
老人が部屋に入った。椅子に座った。
少し間があった。
「ケン君」
「はい」
「あんたに話しておきたいことがある」
「はい」
「わしが——もし帰ってこられなかった場合の話じゃ」
ケンは動かなかった。
「帰ってくる前提じゃないんですか」
「前提じゃ。でも——万が一を考えておくことは、あんたが一番よく知っているだろう」
ケンは少し考えてから、頷いた。
「聞きます」
「工場はバタコさんに任せる。あんたが補佐する。三戦士がいる。ロールパンナもいる。スライス隊もいる。人はいる」
「はい」
「問題は——バイキンマンの外壁研究だ。わしが持っている計算の残りを、あんたに渡しておきたい」
「渡すというのは」
「紙に書いて渡す。わしにしかわからない部分も、できるだけ言葉にして書く。後で誰かが続けられるように」
「ジャムおじさん自身が続ける前提で考えてください」
「わかっておる。でも——書いておく」
老人が紙を取り出した。
びっしりと数式と記録が書いてあった。
「これを読める人間が、この工場にいるかどうかわからないが」
「俺が読もうとします。読めない部分はバイキンマンに聞きます」
「バイキンマンが帰ってきたらな」
「帰ってきます」
「……そうじゃな」
老人が紙をケンに渡した。
ケンは受け取った。重かった。物理的な重さじゃない。
「ジャムおじさん」
「なんじゃ」
「帰ってきたら——俺が作った肉まんを食べてください」
老人が少し止まった。
「肉まん?」
「バタコさんに、ずっと作ると言いっぱなしで。まだ作っていないので」
老人が、目を細めた。
「……そうか。楽しみにしておく」
「必ず帰ってきてください」
「うむ」
出発前日の夜、バイキンマンが工場に来た。
今日は誰も呼ばなかった。バイキンマンとケンだけでテーブルに向かい合った。
チーズがテーブルの下に来て、いつものように丸まった。
「明日、出る」
「はい」
「準備は」
「完了しています。帰還時の補給も、通信の体制も」
「……抜かりないな」
「仕事なので」
バイキンマンがお茶を一口飲んだ。
少し間があった。
「ケン」
「はい」
「お前に——聞きたいことがある」
「なんですか」
「お前は、この世界に来て百三十日以上経つ。その間——前の世界のことを、どのくらい考えたか」
ケンは少し考えた。
「最初の頃は、毎日考えていました。最近は——前ほど頻繁ではないです」
「薄れてきたのか」
「薄れた、というより——今の生活が積み上がって、それが前の記憶と同じくらいの重さになってきた、という感じです」
「前の世界に帰りたいと思うか」
「田中の安否を確認したい気持ちはあります。でも——帰ることよりも、ここにいることを選んでいます」
「なぜ聞いたかわかるか」
ケンは少し考えた。
「バイキンマンが外に出た後のことを、考えているからですか」
「……そうだ」
「外に出て、たかしさんの故郷を見て——戻ってきた時に、この世界がまだ同じように見えるかどうか」
「そういうことだ」
ケンはバイキンマンを見た。
「バイキンマンが見たい景色は——外の世界だけじゃないと思っています」
「どういう意味だ」
「戻ってきた時に、ここがある。工場がある。ジャムおじさんがいる。ドキンちゃんがいる。ホラーマンがいる。そして——この世界の住民たちが、今日もパンを食べて笑っている。その景色を見たいんじゃないですか」
バイキンマンが少し動きを止めた。
「……俺が、そう思っているとなぜわかる」
「村を傷つけたくないと言ったブラックノワールが、そう言いに来た。ブラックノワールはバイキンマンの設計をベースにしています。ならば——バイキンマン自身も同じものを持っているはずだと思って」
長い沈黙があった。
「……お前は、俺のことを俺より知っているかもしれない」
「そんなことはないです」
「謙遜するな」
「謙遜じゃなく、事実です。俺が見えているのは外側だけです。でも外側からでも、見えるものはある」
バイキンマンがお茶を飲み干した。
「帰ってきたら——また、ここで話をしよう」
「はい」
「研究の続きもある」
「あります」
「ジャムおじさんが渡した計算の続きも」
「受け取りました」
「あの人は——心配性だな」
「準備しておくことが大事だという人なので」
「お前と同じだ」
「そうかもしれません」
バイキンマンが立ち上がった。
「……明日、見送りはいいか」
「します」
「来なくていい、と言っているわけじゃない。来てほしいという意味で聞いた」
ケンは少し間を置いた。
「来ます」
「そうか」
バイキンマンが表口に向かった。
途中で振り返った。
「ケン」
「はい」
「お前が来てから——この工場は変わった」
「変わりましたか」
「変わった。でも——変わったのは工場だけじゃない」
バイキンマンはそれだけ言って、出て行った。
ケンはその背中を見送った。
チーズが足元から出てきて、ケンの脚に体を寄せた。
夜のメモ帳。
出発前日。ジャムおじさんから研究の記録を受け取った。バイキンマンと話した。
帰ってきたら肉まんを作る。それが今の約束だ。
書きながら、ケンは明日のことを考えた。
三人が出発する。アンパンマン、バイキンマン、ジャムおじさん。
カレーパンマンと食パンマンとロールパンナが工場を守る。ブラックノワールへの対応がある。
俺は——工場で、補給の準備をして、通信を維持して、三人が帰ってくるのを待つ。
それだけだ。
でも——それが全部だとも思う。
ケンはメモ帳を閉じようとして、最後にもう一行書いた。
——帰ってくることを、信じる。
窓の外に星が出ていた。
チーズが足元で丸まった。
この世界に来て、百三十九日目の夜だった。




