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第27話 問い

村から帰った翌朝、チーズが短く一声吠えた。


 朝の焼成作業が終わったばかりの時間だった。


 いつもの警戒音じゃない。でも、普通でもない。ケンは窯の温度を確認するのをいったん止めて、窓に近づいた。


 広場の端に、黒い影が立っていた。


 人型。全身が黒い。動かない。


 ブラックノワールだった。


 昨日、山で出会った時と同じ立ち方をしていた。でも——前回と何かが違う気がした。前回は攻撃の気配があった。今回は、ない。ただ、立っている。


 ケンは通信機を取った。


「カレーパンマンさん、聞こえますか」


『聞こえる。どうした』


「工場の広場にブラックノワールがいます。攻撃態勢には見えません」


『今から行く』


「少し待ってください。様子を見てから判断したいので」


 少し間があった。


『……わかった。でも三分以内に何もなければ行く』


「了解です」




 ケンは表口を開けた。


 バタコさんが後ろから「どこに行くの」と言った。


「少し話してきます」


「一人で?」


「チーズがいます」


 バタコさんが止めかけて、止めなかった。


「……気をつけて」


「はい」


 広場に出た。


 チーズがケンの足元についてきた。


 ブラックノワールが、ケンが出てきたのを見て——動かなかった。攻撃しなかった。ただ、こちらを見ていた。


「来ましたね」


 ケンが言った。


「……来た」


 声は前回と同じ、低く乾いた声だった。でも——少し、違う気がした。前回より、どこかに余裕がない。


「何を伝えに来ましたか」


「伝えに、と思って来たわけではない」


「では」


「……聞きに来た」


 ケンは少し止まった。


「俺に、何かを聞きに来た」


「そうだ」


「何を聞きたいですか」


 ブラックノワールが少し間を置いた。


「前回、お前は言った。命令を実行する前に質問したことを指摘した」


「はい」


「俺はその後——ブラックノーズ様に戻り、命令の再確認をした」


「そうですね。報告は受けています」


「命令は変わらなかった」


「ケンを排除せよ、ということですか」


「そうだ」


 ケンは動かなかった。


「でも——俺はその命令を、実行していない」


「今日も実行していない」


「……なぜ実行しないのか、自分でもわからない」


 広場が静かだった。


 チーズが足元から離れなかった。


「お前に聞きたいのは——それだ」


 ブラックノワールが言った。


「なぜ俺は、命令を実行しないのか。お前には、わかるか」




 ケンは少し考えた。


 この質問に答えるべきかどうか、ではなく——どう答えるかを考えた。


「俺にはわかりません」


「わからない、か」


「あなたの内側のことは、あなたにしかわからない。でも——俺が思うことを言ってもいいですか」


「言え」


「あなたは前回、俺に質問した。なぜ戦闘員でも武装もしていない人間を、これほどの戦力で守るのかと」


「そう聞いた」


「その質問をした時点で——あなたは命令を超えた何かを持っていたと思います」


「命令を超えた、というのは」


「命令を実行するだけなら、質問しない。観察して、スキャンして、排除する。それが命令通りの動きだ。でも——質問した」


 ブラックノワールが動かなかった。


「質問することは、理解しようとすることです。理解しようとする存在は——命令だけで動いていない」


「……俺はバイキンマンの設計をベースに作られた。バイキンマンの設計には、そういう機能はないはずだ」


「そうだとバイキンマンも言っていました」


「でも——俺の中にある」


「はい」


「それはなぜだ」


 ケンは少し間を置いた。


「バイキンマンの設計には、善の創造力が根底にある。たかしさんから受け継いだものが。それがあなたにも引き継がれているとしたら——命令だけでは割り切れない部分が生まれるかもしれない」


 ブラックノワールが静かになった。


 長い沈黙があった。


「たかしさん、というのは」


「この世界を作った人物です。バイキンマンを設計した人でもある」


「俺はその人物のことを知らない」


「知らなくても——その人物の思想が、バイキンマンを通してあなたに届いているかもしれない」


「届いている」


「そうかもしれない、という話です。確認する方法はないので」


 ブラックノワールがケンを見た。


「お前は——俺に、命令に従うなと言っているのか」


「言っていません」


「では何を言っている」


「あなたが命令を実行しない理由を、あなた自身が理解するための材料を提供しているだけです」


「材料」


「あとはあなたが考えることです」




 しばらく沈黙があった。


 チーズが一度だけ小さく鳴いた。


 ブラックノワールが、広場の石畳を見た。


「ブラックノーズ様の命令と、俺の中にある何かが——矛盾している」


「そうかもしれません」


「どちらに従えばいいのか、わからない」


「難しいですね」


「難しい、と言うだけか」


「俺には答えが出せません。あなたの命令系統のことも、ブラックノーズさんのことも、俺は十分に知らない」


「役に立たないな」


「そうですね。ただ——」


 ケンは少し間を置いた。


「あなたが迷っているということは、俺には伝わっています」


「迷っているからといって、何かが変わるわけではない」


「変わらないかもしれない。でも——迷っている存在に、俺は危害を加えようとは思わない」


 ブラックノワールが少し止まった。


「……それはなぜだ」


「迷っている存在は、まだ決めていない。決めていない存在に対して、先に動くのは早計だと思うから」


「お前は——随分と、待つことが多いな」


「性格です」


「在庫管理の仕事をしているとそうなるのか」


「急いで間違えるより、待って正確な方がいい、と思っているだけです」


 ブラックノワールが、わずかに首を傾けた。


「……変わった人間だ」


「五回目ですね」


「何が五回目だ」


「変わっていると言われた回数です。バイキンマンに三回、ホラーマンに一回、そしてあなたに今一回」


 ブラックノワールが少し間を置いた。


「……数えていたのか」


「メモしています」


 また沈黙があった。


 今度の沈黙は、前より少し軽かった気がした。




 通信機が鳴った。


 カレーパンマンからだった。


『三分経った。行っていいか』


「もう少し待ってください。あと五分」


『……わかった』


 ブラックノワールがその通信を聞いていた。


「カレーパンマンが待機しているのか」


「はい。念のため」


「俺を信用していないということだ」


「信用と警戒は別です。信用できる可能性があると思っているから、ここで話しています。でも警戒は必要なので、カレーパンマンさんに待機してもらっています」


「……合理的だな」


「ありがとうございます」


「褒めていない」


「わかっています」


 ブラックノワールが、広場を見渡した。


 工場の建物。窓。煙突から細く煙が出ている。


「ここが——バイキンマンが通っている工場か」


「そうです」


「俺も——入ることができるか」


 ケンは少し考えた。


「バタコさんとジャムおじさんに聞いてから決めます。今日は、まだ」


「そうか」


「ただ——また来ることはできます。話したいことがあれば」


「話したいことがあるかどうか、わからない」


「わからなくてもいいです。来てから考えることもできる」


 ブラックノワールがケンを見た。


「お前は——俺が来ることを、受け入れるのか」


「迷っている存在を追い払うのは早計だと言いました。同じ理由です」


「……バイキンマンが、お前のことを変な奴だと言っていたのはそういうことか」


「バイキンマンが言っていたんですか」


「ホラーマンから聞いた。変な奴だが、話す価値がある、と」


 ケンは少し間を置いた。


「……それは」


「何だ」


「少し嬉しいです」


「なぜ嬉しい」


「バイキンマンがそう言ったことが、ということです」


 ブラックノワールが、何も言わなかった。


 でも——何か、変わった気がした。


 黒いオーラが、少し薄れた。ほんの少しだけ。でも確かに。




 ブラックノワールが帰り際に言った。


「一つ確認したいことがある」


「はい」


「お前が守っているこの工場は——あの村にいる人間たちと、繋がっているか」


 ケンは少し驚いた。


「村を、知っているんですか」


「知っている。偵察で見たことがある。あの村の人間たちが——毎朝パンを食べている様子を見た」


「そうです。ここで焼いたパンが、村に届いています」


「あの子供たちも食べているか」


「食べています。昨日、届けに行きました」


 ブラックノワールが少し間を置いた。


「……あの村を、傷つけたくない」


 それは、命令とは無関係な言葉だった。


 ケンはその言葉の重さを、静かに受け取った。


「なぜですか」


「わからない。ただ——見ていた時に、そう思った」


「それが、あなたの中にあるものだと思います」


「命令とは関係ない」


「関係なくていいと思います」


 ブラックノワールが空を見た。


「……村を傷つけないために、ケンを排除する命令を実行しないのかもしれない」


「そうかもしれません」


「論理的には、矛盾している」


「矛盾していても、そう感じるなら、それが本当のことだと思います」


 ブラックノワールが、空から視線を戻した。


「……アンパンマンは、そういう言い方をするそうだな」


「アンパンマンさんから?」


「バイキンマンから聞いた。あいつは両方でいいんじゃないか、と言ったそうだ」


「言いました。あの場にいました」


「……両方、か」


 ブラックノワールが空に上がった。


 黒い影が、南の方角に消えていった。




 工場に戻ると、バタコさんが表口で待っていた。


「どうだった」


「話しました。攻撃はありませんでした」


「内容は」


「ブラックノワールが命令を実行しない理由を、自分で理解しようとしていました」


「……そんなことを話しに来たの」


「そうです」


 バタコさんが少し黙った。


「ケンさん」


「はい」


「あなたは本当に、変わった仕事の仕方をするわね」


「在庫管理です」


「違うでしょ、もう」


「……そうかもしれません」


 バタコさんが工場の中に戻りながら言った。


「報告は、ジャムおじさんとバイキンマンの両方にして」


「します」


「カレーパンマンにも謝っておきなさい、三分以上待たせたでしょ」


「します」


「ロールパンナはまだ寝てるから、起こさないように」


「わかりました」


「チーズにごはんをあげて」


「……はい」


 バタコさんの「やること」リストが続いた。


 ケンはその全部をメモ帳に書きながら、少しおかしくなった。


 世界が動いている。


 でも工場は、朝の仕事を続けている。


 それが——この場所の強さだと思った。




 夜のメモ帳。


 ブラックノワール来訪。攻撃なし。「命令を実行しない理由がわからない」と言いに来た。


 村を傷つけたくないという言葉。命令とは無関係な感情。


 アンパンマンの「両方でいいんじゃないか」という言葉が、バイキンマンを通してブラックノワールに届いていた。


 書きながら、ケンは少し止まった。


 言葉は伝わる。


 アンパンマンが言った。バイキンマンが聞いた。バイキンマンがホラーマンに話した。ホラーマンがブラックノワールに伝えた。


 それがブラックノワールの中で何かになった。


 言葉は、思ったより遠くまで届く。


 ケンはメモ帳の余白に書いた。


 ——言葉は在庫と違って、使っても減らない。


 チーズが足元に来た。


 窓の外に星が出ていた。


 この世界に来て、百三十六日目の夜だった。


 ケンはメモ帳を閉じた。


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