第26話 街の皆
月に一度の村への外出日だった。
朝、バタコさんからパンの入った大きな籠を二つ渡された。
「アンパンマンと一緒に届けてきて。ケンさんが外に出る練習にもなるし」
「護衛はアンパンマンさんだけで大丈夫ですか」
「今日は哨戒のない日だから、カレーパンマンと食パンマンも近くにいる。何かあればすぐ来てもらえるわ」
「わかりました」
籠を受け取った。ずっしりと重い。あんパン、バターロール、食パン。それぞれ十個ずつ入っている。
アンパンマンが広場で待っていた。
「久しぶりだね、一緒に行くの」
「俺が村に行くのは初めてです」
「そうか。じゃあ案内する」
チーズが足元に来た。
「チーズも来るか」
チーズが尻尾を振った。
工場から村までは、歩いて三十分ほどだった。
山道を降りて、川沿いを歩いて、木立を抜けると視界が開けた。
村だった。
ケンは少し立ち止まった。
こじんまりとした、でも活気のある村だ。石畳の広場を中心に、丸みを帯びた建物が並んでいる。花の鉢が窓際に置かれていて、洗濯物が風に揺れている。
そして——住民たちが、それぞれの形をしていた。
ウサギの耳を持つ人。カバのような丸い鼻を持つ子供。ゾウの鼻に似たものをつけた人。犬のような耳の人。
みんな二足歩行で、服を着て、笑顔で話している。
「初めて見ました、ちゃんと」
「工場からは遠いから、なかなか来られないよね」
「皆さんが——たかしさんが設計した存在の子孫、ということですよね」
アンパンマンが少し考えた。
「そういうことになるね。でも——本人たちはそういう意識はないと思う。ただ、ここで生まれて、ここで暮らしている」
「それでいいんだと思います」
「うん。俺もそう思う」
広場に入ると、子供の声がした。
「アンパンマーン!」
丸い体の子供が走ってきた。
カバの顔をした少年だ。丸くて、少し太めで、陽気な顔をしている。半ズボンから太い足が出ていて、走る度にどたどたと音がした。
「カバオくん」
アンパンマンが笑顔で受け止めた。
「来たね! パン持ってきた?」
「持ってきたよ」
「やった! ぼく、あんパンが食べたかったんだよ!」
カバオくんがケンを見た。
「この人、だれ?」
「ケンさんだよ。工場で働いてる」
「工場の人? パン焼く人?」
「そうです」
カバオくんが目を輝かせた。
「じゃあケンさんが焼いたあんパン食べた? 美味しかった!」
「ありがとうございます」
「ぼく、あんパン大好き! あとカレーパンも好き! あとバターロールも好き!」
「全部好きなんですね」
「全部好き! パンはぜんぶ好き!」
屈託がなかった。
ケンは少し、おかしくなった。
笑いたくなった。堪えた。でも——口元が少し動いた気がした。
「カバオくんはいつも元気だね」
「元気だよ! ちびぞうくんと朝からずっと走ってた!」
「どこに走ってたの」
「川の方! でもぼく泳げないから川には入らなかった」
「カバなのに泳げないんですか」
ケンが言うと、カバオくんが少し顔を曇らせた。
「……そうなんだよ。ぼくカバなのに泳げないんだよ。変だよね」
「変じゃないです。泳げなくても、走れる」
「そうだよ! 走るのは速いんだよ!」
またすぐ明るくなった。立ち直りが速い。
「ねえねえ、パン、もらっていい?」
「どうぞ。一個ね」
アンパンマンが籠からあんパンを一つ取り出してカバオくんに渡した。
カバオくんが両手で受け取って、大きな口でかじった。
「——おいひい!!」
口の中に食べ物が入ったまま叫んだ。
「口の中に入れたまま喋らない」
アンパンマンが笑いながら言った。
「んー! おいひいー!!」
まったく聞いていなかった。
広場の端にある建物が学校だった。
低い石造りの建物。窓が大きくて、中の声が外まで聞こえてくる。
「あ、ケンさん、ここがみんなが勉強するところ」
「学校ですね」
「ちょうど授業が終わる時間かな。みみ先生に会えるかも」
校舎の扉が開いた。
ウサギの耳を持つ女性が出てきた。
右耳に黄色いリボン。赤いめがね。きりっとした目をしている。でも口元は優しい。
アンパンマンを見て、顔をほころばせた。
「アンパンマン、来てくれたの」
「パンを届けに。みみ先生、今日は授業があったんですか」
「算数と、それからお絵かき。今日はカバオくんが珍しく算数を頑張ってたのよ」
「ぼく頑張った!」
カバオくんがあんパンをかじりながら言った。
「食べながら喋らない、カバオくん」
「んー!」
みみ先生がため息をついた。
「この子は本当に……」
でも、目が笑っていた。
ケンに気づいて、少し首を傾けた。
「あなたは初めて見る顔ね」
「鈴木ケンといいます。工場でバイトを——正式採用になりました。在庫管理と、パン焼成の補助が主な仕事です」
「あら、そうなの。ジャムおじさんのところに新しい方が来たとは聞いていたけれど」
「お会いできてよかったです」
みみ先生がアンパンマンを見た。
「ケンさんが来てから、工場が変わったってバタコさんから聞いたわ」
「変わった、というのは」
「パンの補給が安定したって。以前は緊急の時に間に合わないことがあったけど、最近は一度もないって」
「在庫管理の基本をやっているだけです」
「謙虚ね」
「事実を言っています」
みみ先生が少し笑った。
「バタコさんそっくりの言い方」
「バタコさんに教えてもらいました」
「逆じゃないの?」
「お互い影響しているかもしれません」
子供たちが校舎から出てきた。
カバオくんの友達らしい子供たちが、アンパンマンを見て走り寄ってきた。
小さなゾウの子——ちびぞうくんと呼ばれていた。ウサギの女の子——ウサコちゃん。カエルの男の子——ピョン吉くん。
みんなが口々にアンパンマンに声をかけた。
「アンパンマン!」
「来たの?」
「パン持ってきた?」
アンパンマンが笑顔で籠を差し出した。
「みんなに一個ずつね」
子供たちが列を作った。自然に、争わずに。一個ずつ受け取って、「ありがとう」と言った。
ケンはその様子を見ていた。
ちびぞうくんがケンに近づいてきた。
「おにいさん、だれ?」
「ケンといいます」
「工場のひと?」
「そうです」
「ぼく、バターロール好き」
「ありがとうございます」
「またつくってね」
「作ります」
ちびぞうくんがにこにこして、バターロールをかじった。
ウサコちゃんがケンを見上げた。
「ケンさんは、ずっと工場にいるの?」
「今のところはそうです」
「アンパンマンのおともだち?」
「仕事の仲間です」
「おんなじでしょ」
ケンは少し考えた。
「そうかもしれません」
「ならおともだちだよ」
ウサコちゃんが言い切った。
子供の論理だ。でも——反論できなかった。
ひと通りパンを配り終えて、ケンとアンパンマンは広場の端に腰を下ろした。
子供たちが走り回っていた。カバオくんがパンを食べながら走って、ちびぞうくんに追いかけられていた。
「楽しそうですね」
「うん。いつもこんな感じだよ」
「アンパンマンさんはよくここに来るんですか」
「月に何度か。パンを届けながら、様子を見に来る」
「なぜ様子を見に来るんですか」
アンパンマンが少し考えた。
「心配、っていうのとは違うかな。ただ——見ていると、いいものが見られる気がして」
「いいもの」
「こういう光景。みんなが笑って、食べて、走って。それを見ると——守りたいと思う」
ケンは広場を見た。
カバオくんが転んだ。
「いったー!」
ちびぞうくんが駆け寄った。ウサコちゃんが「大丈夫?」と言った。ピョン吉くんが笑った。カバオくんも笑った。
「……たかしさんが設計した存在の子孫たちが、こうして暮らしている」
「うん」
「百五十年前に一人の老人が作った命が、今もここで続いている」
「そういうことだね」
ケンは少し間を置いた。
「俺はこういう光景を守りたいと思っています」
「うん」
「バイキンマンも、たぶん同じだと思います」
アンパンマンが少しケンを見た。
「バイキンマンも?」
「外に出たい、という気持ちの裏側に——この世界を壊したくない、という気持ちがあると思っています。でなければ、こんなに慎重に動かない」
「そうかな」
「俺にはそう見えます。ただの感覚ですが」
アンパンマンが広場を見た。
「俺は——バイキンマンのことを、まだ全部はわかっていない。でも」
「でも」
「一緒に飛んだ時に——隣にいてよかったと思った。それだけはわかる」
ケンは何も言わなかった。
それで十分だと思った。
帰り際、みみ先生が声をかけてきた。
「ケンさん」
「はい」
「また来てね」
「来ます」
「カバオくんたちが、工場のひとに会えて喜んでいたわ。あの子たちはパンが大好きだから——作っている人に会えるのが嬉しいの」
「そうですか」
「作り手が見えると、食べ物がもっと美味しくなるものよ。あなたが顔を見せてくれるだけで、子供たちにとって違う意味を持つ」
ケンは少し考えた。
「在庫管理の仕事が、そういう方向にも機能するとは思っていませんでした」
「仕事の外でも、あなたはここに貢献しているってことよ」
「……ありがとうございます」
「また来てね。カバオくんが喜ぶから」
カバオくんが横で話を聞いていた。
「また来て! ケンさんのあんパン、また食べたい!」
「俺が焼いたあんパンかどうかわかりませんが」
「ぜんぶ美味しいからどれでもいい!」
ケンは少し——笑った。
今度は堪えなかった。
「また来ます」
「やった!!」
帰り道、アンパンマンが横を歩きながら言った。
「ケンさん、今日笑ってたね」
「そうですね」
「村で笑うのは、初めて見た」
「カバオくんが面白かったので」
「あの子、いつもそうだよ。なんか——力をもらえる」
「そうですね」
川沿いを歩きながら、ケンは少し後ろを振り返った。
村の屋根が木立の向こうに見えた。
「アンパンマンさん」
「うん」
「たかしさんは、一人で荒野に転生して、一人で世界を作った。その時——孤独だったと思いますか」
アンパンマンが少し考えた。
「孤独だったと思う。でも——だから作ったんじゃないかな」
「孤独だから、仲間を作った」
「うん。孤独じゃなかったら、作らなかったかもしれない」
ケンはその言葉を、歩きながら噛み締めた。
「俺も——最初はここで一人でした」
「今は?」
「今は——一人じゃないです」
「よかった」
アンパンマンが、いつものように素直に言った。
チーズが先を歩いていた。
山道を登りながら、二人は少し黙った。
工場の屋根が見えた時、ケンは思った。
ここに帰ってくる、という感覚が——確かにある。
夜のメモ帳。
村への外出。カバオくん、ちびぞうくん、ウサコちゃん、ピョン吉くん、みみ先生と会った。パン、全量配布完了。
たかしさんが設計した存在の子孫たちが、百五十年後も笑顔で暮らしている。
一人の老人が作った命が、今もここで続いている。
書きながら、ケンは今日一日を振り返った。
カバオくんが転んで、すぐ笑った。
ウサコちゃんが「おんなじでしょ」と言って、友達だと決めた。
ちびぞうくんが「またつくってね」と言った。
俺が作ったパンを食べて、誰かが笑う。
それが——今日初めて、直接見えた。
ケンはメモ帳の余白に、もう一行書いた。
——在庫管理は、この笑顔に続いている。
窓の外に星が出ていた。
チーズが足元で丸まった。
この世界に来て、百三十五日目の夜だった。
ケンはメモ帳を閉じた。




