第25話 共同生活
ロールパンナが工場に滞在することになった。
特に話し合いがあったわけではない。昨夜、奥の部屋に案内して、簡単な寝具を用意した。ロールパンナは黙って横になった。それだけだった。
翌朝、ケンが起きると、ロールパンナはすでに起きていた。
作業室の隅に座って、自分の手を見ていた。
右手——白く光っている。
左手——黒く輝いている。
交互に見ていた。
「おはようございます」
ケンが声をかけた。
ロールパンナが顔を上げた。
「……おはようございます」
「眠れましたか」
「少し。でも——夢を見た気がする」
「どんな夢ですか」
「わからない。目が覚めたら消えていた」
ケンは作業台の前に立って、今日の焼成の準備を始めた。
「何か食べますか。パンがあります」
「食べ物が必要なのかどうか——わからない」
「食べてみてわかることもあります」
ロールパンナが少し考えた。
「……食べてみる」
バタコさんが焼きたてのバターロールを一つ持ってきた。
ロールパンナに差し出した。
「どうぞ」
ロールパンナが受け取った。
一口食べた。
しばらく黙っていた。
「……美味しい」
「よかった」
「これを食べると——少し、落ち着く気がする」
バタコさんが少し目を細めた。
「私も、パンを食べると落ち着くの」
「バタコさんも?」
「ずっとそうよ。最初からそういう体なんだと思ってた」
ロールパンナがバタコさんを見た。
「バタコさんは——どうやって作られたんですか」
バタコさんが少し間を置いた。
「たかしさんという人が作った。私が生まれる前にいた、この世界の創造主みたいな人」
「たかしさん」
「ええ。ジャムおじさんが来る前から、ここにいたらしい。私はそれを後から知ったけど」
「後から知って、どうでしたか」
バタコさんが少し考えた。
「……よかった、と思った。作ってくれた人がいる。それだけで十分だった」
ロールパンナが自分の手を見た。
「私を作ったのは——ジャムおじさんですよね」
「そうよ」
「でも——意図はなかったと聞いた」
「意図はなくても、あなたはここにいる。それは変わらない」
ロールパンナがバタコさんを見た。
善の目と悪の目が、バタコさんを見た。
「……そうですね」
午前中、ケンはロールパンナと並んで作業をした。
特別なことをするわけではない。ケンがいつも通り在庫を確認して、焼成の記録を取る。ロールパンナはその横に座って、工場の様子を眺めていた。
「何か手伝えることはありますか」
ロールパンナが言った。
「今は、見ていてもらえれば」
「それでいいんですか」
「環境に慣れることが先だと思います」
ロールパンナが少し間を置いた。
「……あなたは、変な人ですね」
「よく言われます」
「普通、こういう状況なら——どう使うか、とか、どう管理するか、とか考えないですか」
「考えます。でも今日じゃない」
「なぜ」
「昨日飛び出した人に、今日すぐ仕事を押しつけるのは順番が違う気がするので」
ロールパンナが少し黙った。
「……そういうものですか」
「俺の感覚ではそうです」
「バイキンマンも、似たことを言っていた」
「何を言っていましたか」
「一緒に考える、と。やることを押しつけるのではなく」
「バイキンマンらしいですね」
「知っているんですか、バイキンマンを」
「少し。何度か話しました」
ロールパンナがケンを見た。
「バイキンマンのことを、どう思いますか」
ケンは少し考えた。
「複雑な存在だと思います。でも——誠実な人だと思っています」
「悪の帝王なのに?」
「肩書きと本質は別だと思うので」
ロールパンナが少し間を置いた。
「……私の肩書きは何ですか」
「今はまだ決まっていないんじゃないですか」
「善と悪の混在した存在、というのが一番近いかもしれない」
「それは肩書きというより、状態ですね」
「状態」
「今の状態が、ずっと続くとは限らない」
ロールパンナが自分の手を見た。
「制御できるようになる日が来ますか」
「わかりません。でも——試せることはあります」
「何を試せるんですか」
「まず——左手と右手、それぞれがどういう状況で強くなって、どういう状況で落ち着くかを記録してみましょうか」
ロールパンナが少し止まった。
「記録」
「俺の仕事は管理なので。わからないことは記録して、傾向を探す。それしかできないんですが」
「……やってみる」
記録を始めたのは昼過ぎからだった。
ケンがメモ帳の新しいページを開いた。ロールパンナが横に座った。
「今、左手のオーラはどのくらいの強さですか」
「……弱い。朝より落ち着いている」
「何かあったときより弱い」
「バターロールを食べてから、少し落ち着いた気がする」
「食べた後から変化があったんですね」
ケンが書いた。——食事後、左手のオーラ低下。
「右手は」
「右手は……今はほとんど光っていない」
「右手は何の時に光りますか」
ロールパンナが少し考えた。
「誰かを守ろうとした時——かもしれない」
「昨日、バタコさんを呼んだ時に腕を引かれそうになって、どうでしたか」
「あの時——右手が光りかけた」
「守ろうとする意志が引き出す」
「……そうかもしれない」
「左手は何の時に強くなりますか」
ロールパンナがしばらく黙った。
「わからない。気づいたら、溢れている」
「昨日飛び出した時は」
「混乱していた。体の中が、ぐちゃぐちゃな感じがして——その時に溢れた」
「感情と連動している可能性がありますね。混乱、不安、焦り——そういう状態の時に左手が強くなる」
「右手は」
「守る意志、つまり意図的な感情の時に右手が動く」
ロールパンナが自分の手を見た。
「……感情で動く力と、意志で動く力」
「そう考えると、制御のヒントが見えます。感情が乱れる前に、何かで落ち着かせる。それで左手のオーラをコントロールできるかもしれない」
「何で落ち着かせるんですか」
「今朝、バターロールを食べたら落ち着いたと言っていましたね」
「……そうか。食べることが」
「試す価値はあります」
夕方、バイキンマンが工場に来た。
ロールパンナを見て、少し安堵したような顔をした——表情には出なかったが、声が柔らかかった。
「昨日はすまなかった」
「バイキンマンも謝るの?」
「俺の精製炉が原因だ」
「わかった。でも——そんなに謝らなくていい」
「なぜだ」
「バイキンマンがいなかったら、止まれなかった。だから——ありがとう、の方が多い」
バイキンマンが少し黙った。
「……お前は、変な子だな」
「そうですか」
「そういうところが——」
バイキンマンが言いかけて、止めた。
ケンには聞こえた気がした。そういうところが、たかしさんに似ている——と言いかけたような気がした。
でも聞かなかった。
バイキンマンがケンを見た。
「制御の方法は見つかったか」
「感情と意志で動く力が違うという仮説が出ました。感情を安定させることで左手のオーラを抑えられるかもしれない」
「感情を安定させる方法は」
「今日試したのは——食事です。バターロールを食べると落ち着くと言っていました」
「食事で感情が安定する」
「ロールパンという名前にも、何か意味があるかもしれません」
バイキンマンが少し止まった。
「たかしさんが好きだったパンだ」
「はい。その名前がついた存在が、パンを食べると落ち着く——偶然じゃないかもしれない」
バイキンマンが、少し遠い目をした。
「……たかしさんが、好きだと言っていたのは——食べた時に懐かしい気持ちになると言っていたからだ」
「懐かしい気持ち」
「元の世界で食べた味に似ていると。だから好きだった」
ケンは少し間を置いた。
「ロールパンナが食べて落ち着くのは——その懐かしさが、何かを和らげているのかもしれませんね」
バイキンマンが黙っていた。
ロールパンナがバイキンマンを見ていた。
「バイキンマン、たかしさんのこと——好きだったんですね」
バイキンマンが、ロールパンナを見た。
「……そうだ」
「私は会ったことがないけど——名前をもらった。だから、少しだけ知っている気がする」
「そうか」
「ありがとう。ロールパンナという名前を、つけてくれて」
バイキンマンが短く鼻を鳴らした。
「礼を言うことじゃない」
「でも言いたいから言う」
その言い方が、誰かに似ていた。
ケンは思い当たった。アンパンマンだ。
アンパンマンも同じ言い方をする。
善の力から生まれたアンパンマンと、善と悪の力から生まれたロールパンナが、同じ言い方をする。
偶然じゃないかもしれない。
夜、地下に降りた。
ロールパンナのことを、ワンさんに報告した。
ワンさんは静かに聞いていた。
「本体は——ロールパンナの誕生を、感じていますか」
「感じています。今日は少し、脈動が穏やかです」
「穏やか」
「新しい存在がここにいることを——喜んでいるのかもしれません」
ケンはロイヤルローフを見た。
黄金色の表面。静かな脈動。
「ロールパンナに、いつか地下に来てもらいましょうか」
「ぜひ。本体も、会いたがっていると思います」
「わかりました。タイミングを見て」
夜のメモ帳。
ロールパンナの観察記録初日。
左手——感情が乱れる時に強くなる。混乱、不安、焦りと連動。
右手——守ろうとする意志と連動。意図的。
仮説:食事(特にパン)が感情を安定させ、左手のオーラを抑制する可能性。
バタコさんとの会話。バイキンマンとの会話。ロールパンナが「でも言いたいから言う」と言った。
ペンを置いて、ケンは少し窓の外を見た。
今日、ロールパンナは一度もオーラを溢れさせなかった。
昨日と違う。
理由を考えた。
食事。会話。落ち着いた環境。それから——誰かがそばにいること。
一人でいる方がもっと危ない、とバイキンマンが言っていた。
たぶん、そういうことだ。
チーズが足元に来た。
ロールパンナの部屋の方角を向いて、しばらく止まった。
「チーズ、様子を見てきたいですか」
チーズが尻尾を振った。
「明日でいいです。今夜は寝かせてあげて」
チーズが丸まった。
窓の外に星が出ていた。
ケンはメモ帳を閉じた。




