第3話 品質基準
食パンマンが工場に来たのは、バイト五日目の昼過ぎだった。
ケンは保管庫で在庫の確認をしていた。光粉の瓶を手に取って、残量を目測していた時だった。工場の表側から、バタコさんの声がした。
「いらっしゃい、食パンマン」
ケンは瓶を棚に戻して、作業台のある部屋に戻った。
入り口のところに、アンドロイドが立っていた。
背が高かった。アンパンマンと同じくらいの体格だが、全体的に細い。動きが静かだ。着地の音がしなかった——いつ入ってきたのか、ケンには全くわからなかった。
顔は、食パンだった。
アンパンマンの丸いあんパンとも、カレーパンマンの俵型とも違う。四角い、きっちりした食パンの顔。焼き色が均一で、ほぼ完璧に対称だった。
「バタコさん」
声は低かった。落ち着いた、よく通る声。
「先日の戦闘の後から、エネルギーの変換効率がわずかに落ちている気がします。パンの焼き上がりに変化はありますか」
開口一番それか、とケンは思った。挨拶より先に品質確認が来た。
「変化は……特にないと思うけど」
「思う、では困ります。数値で確認していますか」
「数値というのは——」
「変換効率は感覚で測るものではない。記録があれば比較できます」
バタコさんが少し言葉に詰まった。
ケンは一歩前に出た。
「初めまして。鈴木ケンです。五日前からここでバイトをしています」
食パンマンがケンを見た。
静かな目だった。感情が読みにくい。でも、確実に観察している。
「……聞いています。新しいスタッフが来たと」
「変換効率の記録は、今はまだありません。俺が来てから五日分のデータしかない」
「五日分では比較になりません」
「そうです。だから、今日から記録を始めます」
食パンマンが少し黙った。
「今日から、というのは」
「あなたに会ったら聞こうと思っていたことがあります。少し時間をもらえますか」
作業台の前で向かい合った。
バタコさんがお茶を出して、少し離れたところに立っていた。どういう展開になるか、見物するつもりらしかった。
「変換効率というのは、具体的にどういう指標ですか」
ケンが聞いた。
「パンを補給してから、戦闘能力が最大値に戻るまでの時間と、その最大値の水準です」
「最大値が下がることはありますか」
「あります。本体のエネルギー残量が低いと、補給しても上限が下がる」
「それは本体側の問題ですか、パン側の問題ですか」
「両方に起因します。ただ——最近は本体は安定しています。となるとパン側の可能性が高い」
「何が変わり得ますか。材料は同じものを使っています」
「焼き加減です」
食パンマンが迷いなく言った。
「食パンは、焼き加減によって内部の水分量が変わります。水分量が変換効率に影響する」
「最適な水分量はわかりますか」
「感覚ではわかります。ただ——数値化できていない」
「数値化しましょう」
食パンマンが、また少し黙った。
「できますか」
「計器があれば。この世界に温度計と秤はありますか」
「あります」
「それから焼き時間を計る方法があれば十分です。何回か試して、あなたが『これだ』と感じたものの焼き条件を記録する。それを再現できるようにする」
食パンマンはケンを見た。
今度は少し、目の色が違った。
「……あなた、パン職人ですか」
「バイトです」
「でも、そういう考え方をするのは」
「前の世界で、品質管理に近い仕事をしていました」
「前の世界」
食パンマンがその言葉を繰り返した。少し考えるように、間があった。
「ジャムおじさんと同じですね」
「らしいです」
「ジャムおじさんも、前の世界から来た。あなたも」
「はい」
「……興味深い」
それだけ言って、食パンマンはお茶の椀を手に取った。
一口飲んで、置いた。
「試験焼きをしてもらえますか。今日、時間はありますか」
「あります」
「では——お願いします」
お願いします、という言葉が、思いのほか素直だった。品質に厳しい人間が、でも筋の通った提案には素直に乗る。ケンには、そのタイプの人間に心当たりがあった。前の世界の、厳しかった先輩を思い出した。
試験焼きは四回やった。
一回目は通常の条件。二回目は温度を十度下げて時間を伸ばす。三回目は温度を上げて時間を縮める。四回目は二回目の条件に蒸気を少し加える。
毎回、食パンマンが後頭部のパネルを開けてパンを入れた。
そして三十秒ほど目を閉じて、報告した。
「一回目。変換速度、標準。上限、八十二パーセント」
「二回目。変換速度、やや遅い。でも上限、八十八パーセント」
「三回目。変換速度、速い。上限、七十九パーセント」
「四回目——」
少し長い沈黙があった。
「……上限、九十一パーセント」
バタコさんが小さく声を上げた。
「九十一? 今まで最高でどのくらいだったの」
「八十五パーセントです。今まで」
ケンはメモ帳に記録した。
四回目の条件——温度、時間、蒸気量——を丁寧に書いた。
「この条件を再現できますか」
食パンマンがケンに聞いた。
「できます。数値で記録したので」
「毎回、この精度で焼けますか」
「焼きます」
「……断言するんですね」
「できないことは断言しません」
食パンマンはまた少し黙った。
それからバタコさんを見た。
「バタコさん、今まで申し訳なかった」
「え?」
「私の要求が曖昧でした。『最適な焼き加減で』と言い続けて、具体的に何がどう違うのかを伝えなかった。それは私の側の問題でした」
バタコさんが目を丸くした。
「食パンマン、あなたが謝るなんて」
「事実なので」
ケンは少し、おかしくなった。
さっき自分が言ったのと、ほぼ同じ言葉だ。
「俺も同じことを言いました」
ケンが言うと、食パンマンがこちらを見た。
「何をですか」
「事実なので、と」
食パンマンが、わずかに首を傾けた。
「……そうですか」
それだけだったが、その「そうですか」は、最初よりだいぶ温度が上がっていた。
夕方、食パンマンが帰り際に言った。
「一つ確認したいことがあります」
「はい」
「地下室に、行きましたか」
ケンは少し間を置いた。
「三日前に。ジャムおじさんに頼まれて、様子を見てきました」
「ワンたちと話しましたか」
「少し。バターの定期補給を手配しました」
食パンマンが動きを止めた。
長い沈黙があった。
「……バターを」
「三日に一回、五か所分。ワンさんから聞いた量です」
「今まで——頼めていなかった」
「言いにくかったそうです。ジャムおじさんが忙しそうで」
「私が頼めばよかった」
食パンマンの声が、少し低くなった。自分に向けた、静かな叱責のような声だった。
「気づかなかったんです」
ケンは言った。
「俺も来て五日でわかったことです。あなたは毎日別のことで頭がいっぱいだったでしょう」
「言い訳にはなりません」
「言い訳じゃなくて、事実の話です」
食パンマンがケンを見た。
しばらく、そのままだった。
「あなたは」
「はい」
「本体に、何か言いましたか」
「はじめまして、と言いました」
「返事は」
「ありませんでした。でも、脈動が少し変わった気がしました」
食パンマンはまた黙った。
今度の沈黙は、長かった。
ケンは何も言わなかった。言う必要がない気がした。
「……ありがとうございます」
食パンマンが、最後に言った。
声が、今日一番、柔らかかった。
食パンマンが帰った後、バタコさんがケンの横に立った。
「食パンマンが、あんなに話すの、初めて見たわ」
「普段は話さないんですか」
「来ては要求だけ言って帰る。それが毎回。ジャムおじさんとも必要なことしか話さない」
「本体のことで、頭がいっぱいなんだと思います」
「そうなの?」
「地下に意識の一部があって、機体でここまで来て、会話して、戦闘して。それだけで十分すぎるくらい大変じゃないですか」
バタコさんが少し考えた。
「……考えたことなかった。そういう風には」
「俺も来て五日で気づいたことですから」
「五日でそれだけ気づくあなたが変なのよ」
「そうですか」
「そうよ」
バタコさんはお茶の椀を片付けながら言った。
「今日の四回目の条件、ちゃんと覚えてる?」
「メモしました」
「明日から毎回それで焼くの?」
「毎回その条件を目指します。ただ、素材の状態や湿度で多少変わるかもしれない。その都度調整します」
「難しくない?」
「難しくはないです。ただ、毎回記録を取らないといけない」
「記録係、私がやろうか」
ケンは少し驚いた。バタコさんが自分から申し出るのは、初めてだった。
「助かります」
「仕事なので」
バタコさんが、ケンと同じ言葉を使った。
わかっていてやっているのだと、ケンにはすぐわかった。
少しだけ、笑いたくなった。
夜のメモ帳に、今日の試験焼きの条件を清書した。
温度、時間、蒸気量。四回分の数値と、食パンマンのフィードバック。
これで食パンマンの専用パンについては再現性が取れた。次はアンパンマンとカレーパンマンにも同じことをやる必要がある。二人のフィードバックを聞き出して、最適条件を固める。
やることが増えていく。
でも、増えるのは嫌じゃなかった。
データが積み上がるほど、管理の精度が上がる。精度が上がるほど、三人が安定して戦える。
ケンはペンを置いた。
今日、食パンマンと話した。
最初は品質にうるさい、扱いにくい相手だと思った。でも話してみると、筋が通っていた。曖昧を嫌い、数値を求め、自分のミスを認める。
嫌いじゃない、とケンは思った。
むしろ——前の世界で好きだったタイプの人間に近い。感情より論理で動いて、でも芯のところに何か大事なものを持っている。
窓の外に星が出ていた。
地下室では今頃、ロイヤルローフがバターの匂いの中で静かにいる。スライス隊が計器を見守っている。食パンマンの機体がそこから遠ざかって、意識がゆっくりと地下に戻っていく。
そういう夜が、毎日続いている。
ケンはそれを、少し不思議な気持ちで思い浮かべた。
それから、メモ帳を閉じた。
(了)




