第2話 地下室の住人
バイト三日目の朝、ジャムおじさんに呼ばれた。
食事が終わって、バタコさんが片付けをしている時間だった。老人はテーブルに両手を置いて、少し改まった顔をしていた。
「ケン君、今日はお願いがある」
「なんでしょう」
「地下の子たちの様子を見てきてくれんか」
地下。
ケンは工場の間取りを頭に思い浮かべた。昨日の段階で、工場の奥に地下へ続く扉があることは確認していた。ジャムおじさんがその前を通るとき、毎回一瞬だけ足を止めることも。
「地下に、誰かいるんですか」
「おる。食パンマンの——関係者、とでも言うかな。わしが直接行ければいいんじゃが、今日は村への買い出しに行かないといかん」
「行ってきます」
「何か言われても、驚かんでくれよ」
その言い方が少し引っかかったが、ケンは頷いた。
地下への扉は、保管庫のさらに奥にあった。
厚い木の扉だ。古い。でも蝶番はよく整備されていて、静かに開いた。
石の階段が続いている。
ケンは一段ずつ降りた。
薄暗い。でも、階段の先に光がある。柔らかい、温かみのある光だ。
そして——匂いがした。
バターの匂いだ。濃い、甘いバターの香り。工場の中でも感じることがあるが、ここはその比じゃない。空気ごとバターに浸かっているような密度だった。
階段を降り切ると、広い部屋に出た。
天井が高い。壁は石造りで、所々に照明が取り付けられている。部屋の中央に——
ケンは、止まった。
巨大な食パンが、あった。
高さ三メートルほどの、完璧な直方体。表面は均一な黄金色に焼き上がっている。近づくと、体温のような微かな熱を感じた。それが脈動するように、わずかに揺らいでいる気がした。
ケンはしばらく動けなかった。
これが——食パンマンの本体か。
「あなたが新しいスタッフさんですか」
突然、声がした。
ケンは反射的に向き直った。
エプロンをつけたアンドロイドが立っていた。食パンマンより小柄だ。顔は——食パンだった。でも食パンマンとは少し違う、角が丸い。
その後ろに、もう一体。また別のアンドロイドが、モップを持って立っている。
さらに奥に、白衣を着た一体。
そしてノートを抱えた一体と、小さなカゴを持った一体が、巨大な食パンの傍から歩いてきた。
五体。全員、顔が食パンだった。
「……はい。鈴木ケンといいます」
「お会いできて光栄です。私はワンと申します。こちらの管理を担当しております」
エプロンの一体が、丁寧に頭を下げた。
その後ろで、ノートを持った一体がペンを走らせる音がした。
「記録しました。鈴木ケン様、本日初来訪」
「……ごちゃん、後でいい」
ワンと名乗った一体が、落ち着いた声で言った。
五体に案内されながら、ケンは部屋の中を見て回った。
清潔に保たれていた。石の床に埃一つない。壁際に計器が並んでいて、数値が常に表示されている。本体——ロイヤルローフ——を囲むように、小さな作業台や棚が置かれていた。
「本体の状態はどうですか」
ケンが聞くと、ワンさんがすぐに答えた。
「膨張率、昨日比プラスゼロ・二パーセント。誤差範囲内です。エネルギー残量は六十三パーセント。昨日SP-03の機体が長距離移動を行ったため、やや低下しています」
「SP-03というのは食パンマンのことですか」
「そうです。機体コードです」
「六十三パーセントは問題ない水準ですか」
「五十パーセントを下回ると黄色信号です。現状は安定しています」
ケンは計器の数値を眺めた。
グラフがある。過去一週間の膨張率と残量の推移が記録されている。
「これ、記録をずっとつけているんですか」
「ごちゃんが毎日記録しています。設立当初から」
ノートを持った一体——ごちゃんが、誇らしそうに胸を張った。
「どのくらいの期間ですか」
「私たちがここを管理するようになってから、十七年と四ヶ月です」
十七年。
ケンはロイヤルローフを振り返った。
十七年間、この地下室で。ずっとこの五体に囲まれて。
「食パンマンは、ここに意識があるんですか」
ワンさんが少し間を置いた。
「あります。ただ、常にこちらを向いているわけではない。機体を動かしている時間は、意識の大半がそちらに向いています」
「今は」
「今は——こちらに少し向いています。あなたが来たので」
ケンはロイヤルローフの方を向いた。
黄金色の表面。均一な焼き色。近づくと、温度が上がる気がした。
脈動が、少し強くなった——ような気がした。
「……はじめまして」
ケンは言った。
返事はなかった。
でも、確かに何かが変わった。部屋の空気が、ほんの少し緩んだような。
横でごちゃんがペンを走らせた。
「記録しました。ロイヤルローフ様、反応あり」
一通り見て回った後、ケンはワンさんに聞いた。
「食パンマンが『動けない日』というのは、本体のエネルギーが低下している日のことですか」
「主にそうです。ただ——それだけではない」
「他に理由がありますか」
ワンさんがケンを見た。
値踏みするような、試すような目だった。でも嫌な感じではない。信頼できるかどうかを、丁寧に測っている目だった。
「もう少し、ここに通ってからお話しします」
「わかりました」
ケンはそれ以上聞かなかった。
まだ三日目だ。信頼は時間をかけて積み上げるものだ。前の世界でも、それは変わらなかった。
「一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「ここに何か、必要なものはありますか。俺が工場から持ってこられるものがあれば」
ワンさんがまた少し間を置いた。
今度は違う間だった。意外そうな、そういう間だ。
「……バターを、少し多めに分けてもらえますか」
「本体への栄養補給用ですか」
「さんちゃんが担当しています。ジャムおじさんに頼めば分けてもらえるのですが、聞きに行くのが——」
「言いにくいですか」
「ジャムおじさんはいつも忙しそうで」
ケンは少し考えた。
「わかりました。俺が在庫を管理しているので、定期的に地下に下ろします。何日に一回くらい必要ですか」
「三日に一回ほど」
「量は」
「バター一さじ分を、五か所に」
「メモします」
ケンはエプロンのポケットからメモ帳を出した。
——バター補給、三日ごと、五か所分。
書き終えると、ワンさんが静かに言った。
「……ありがとうございます」
その言葉は、短かったが、重かった。
十七年間、この地下室で本体を守ってきた一体の、「ありがとう」だった。
地下から戻ると、バタコさんが作業台の前で待っていた。
「どうだった」
「元気でした、皆さん」
「皆さん、ね」
バタコさんが少し苦笑いした。
「あなた、あの子たちのこと、変だと思わなかった?」
「変というのは」
「五体いて、全員同じ顔で、巨大な食パンの世話をしてる。普通は驚くでしょう」
「ジャムおじさんに『驚かないでくれ』と言われていたので、心の準備はしていました」
「それで驚かないのは、なかなかよ」
「前の世界でも、倉庫の中で変わったものはよく見ました。」
「食パンより変なもの?」
「それはないかもしれません」
バタコさんが声を立てて笑った。
初めてだった。バタコさんが笑う声を聞いたのは。
思ったより、明るい笑い声だった。
「バターを定期的に地下に届ける手配をしてもいいですか」
笑いが収まったところで、ケンは言った。
「構わないわ。今まで、あの子たちが遠慮して言えなかったのよね」
「そうみたいです」
「……気づかなかった。ごめんなさい」
バタコさんが、珍しく小さな声で言った。
「忙しかったんでしょう」
「そればかり言わせてるわね、あなたに」
「事実なので」
バタコさんはまたため息をついた。でも、重いため息じゃなかった。
「ケンさん」
「はい」
「来てくれて——よかった」
ケンは少し、返答に詰まった。
「バイトなので」
「わかってる。でも、よかったと思ってる」
その夜、メモ帳に書きながら、ケンは地下室のことを考えた。
ロイヤルローフ。三メートルの食パン。十七年間、ずっとあの地下室にいる。
意識がある。感じることができる。でも動けない。
自分の体を、小さな機体に分けて動かしている。
——それは、どういう感覚なのだろう。
ケンには想像するしかなかった。でも、あの地下室の空気を思い返すと、少しだけわかる気がした。
孤独ではない。五体の世話係がいる。でも——外には出られない。空は見えない。
バターの匂いに包まれて、ずっとあそこにいる。
ケンはメモ帳にもう一行書いた。
——地下、三日おきにバター届ける。忘れるな。
窓の外で、夜風が鳴っていた。
明日も五時半に起きる。
でも今日は、もう少しだけ起きていようと思った。
(了)




