第1話 バイトの初日
最初の朝は、パンの匂いで目が覚めた。
天井を見上げる。木の梁。昨日と同じ天井だ。夢じゃなかった、と思うのに一秒かかった。前の世界では安い賃貸アパートの白い天板しか見ていなかったから、木目のある天井というのがどうも脳の処理に引っかかる。
起き上がると、体のこわばりが昨日より幾分ましになっていた。
部屋は小さかった。工場の二階の一角を仕切った空間で、ベッドと小さな棚と、窓が一つ。それだけだ。でも清潔で、日当たりが良い。前の世界の六畳一間より広くはないが、居心地は悪くなかった。
着替えようとして、自分が昨日と同じ服を着ていることに気づいた。
そういえば、荷物が何もない。
転生というのはそういうものらしかった。着の身着のままで別の世界に放り込まれる。財布も、スマートフォンも、フォークリフトの免許証も、何もない。あるのは肉体と、三十九年分の記憶だけだ。
窓の外を見た。空が青かった。今日も晴れている。
ケンは一度大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。
グズグズ考えても始まらない。動くしかない。それは前の世界でも同じだった。
階段を降りると、工場の朝は既に始まっていた。
バタコさんが作業台の前に立って、生地を捏ねていた。リズミカルで、無駄のない動きだ。手首の返しかたに、長年の経験が滲み出ている。ケンが階段を降りてきた音を聞いて、振り返らずに言った。
「おはよう。六時ちょうどね」
「おはようございます」
「ジャムおじさんは五時から起きてる。あなたも明日からそれに合わせて」
「わかりました。今日の作業を教えてもらえますか」
バタコさんが初めて手を止めて振り返った。
「昨日言ったでしょう。まず工場を覚えなさい」
「昨日は案内してもらいました。今日は実際に動きながら覚えたい」
バタコさんの目が、細くなった。
怒っているのか、値踏みしているのか、ケンには判断できなかった。前の世界でも、こういうタイプの先輩はいた。試しているのだ、とケンは思った。口で言われた通りに動くだけの人間なのか、それとも自分で考えて動ける人間なのかを。
「……保管庫の棚卸しをしてちょうだい」
「在庫の記録はありますか」
「ない」
「何が何個あるか、目視でいいですか」
「そう」
「書くものをください」
バタコさんはエプロンのポケットからメモ帳と鉛筆を出して、作業台に置いた。ケンはそれを受け取って、保管庫に向かった。
背中に視線を感じた。
見られている、と思いながら、ケンは保管庫のドアを開けた。
保管庫の中は、思ったより複雑だった。
小麦粉の袋。砂糖。塩。バター。酵母。あんこの缶。カレーのルー。食用油。それから、ケンには名前のわからない素材がいくつか。この世界にしかないものだろう、と思った。
棚は三段。奥行きがある。
ケンはまず全体を眺めた。
問題は一目でわかった。在庫の置き方に規則性がない。新しいものと古いものが混在している。同じ種類のものが棚の複数箇所に分散している。どれが何個あるか、ざっと見ただけでは把握できない。
これは——管理されていない倉庫の典型だ。
悪い意味でなく、長年一人で経験則だけで回してきた現場に特有の状態だ。ジャムおじさんが何十年もやってきて、頭の中にだけ地図がある。それはそれで機能するが、ジャムおじさんが倒れたり、いなくなったりした瞬間に全てが止まる。
ケンはメモ帳を開いた。
まず棚を上から下、左から右の順に番号を振った。一段目左から一番、一段目中央が二番、というように。それから各番号の棚に何があるかを書き出していく。品名。おおよその個数。状態(開封済みか未開封か)。
黙々と作業した。
三十分ほどかかった。
書き終えたメモを見返す。全体像が見えてきた。
小麦粉は十分ある。砂糖もある。バターは残り少ない。あんこは三缶。カレーのルーは一箱。酵母は——
ケンは手を止めた。
酵母が、一袋しかない。
パン作りに酵母は必須だ。これが切れたらパンが焼けない。パンが焼けなければ、アンパンマンたちのエネルギーが補充できない。
昨日バタコさんが言っていた言葉を思い出した。
たまに足りなくなる。
これか、とケンは思った。
保管庫を出て、作業台に戻った。バタコさんは生地を丸め始めていた。
「一つ確認させてください」
「なに」
「酵母が一袋しかありません。これはどこから補充しますか」
バタコさんの手が、わずかに止まった。
「……村の商店から取り寄せるわ。でも時間がかかる」
「どのくらい」
「早くて三日。状況によっては一週間」
「一袋でパンは何回分焼けますか」
「大きさによるけど……四、五回分」
ケンは頭の中で計算した。
一日に何回パンを焼くか。アンパンマンたちの戦闘頻度はどのくらいか。まだ正確なデータがないが、昨日の観察と今朝の保管庫の状態から推測する。
「今日、発注をかけた方がいいと思います」
「今日?」
「安全在庫を下回っています。三日かかるなら今日動かないと、切れるリスクがある」
バタコさんはケンを見た。
「あなた、棚卸しをしに行って、なんで発注の話をしているの」
「棚卸しをしたら状況がわかったので」
「……」
「余計なことでしたか」
バタコさんはしばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「よんどきましょ、ジャムおじさんを」
ジャムおじさんは奥の部屋にいた。
小さな机の前に座って、何かを書いていた。ケンが入ってきても顔を上げず、バタコさんが「ジャムおじさん、ちょっといいですか」と声をかけてから初めて顔を向けた。
「なんじゃ、バタコさん」
「ケンさんが酵母の在庫が少ないと言っていて」
「ああ」
老人はあっさり頷いた。
「確かに少なかったな。そろそろ頼まないといかんと思っておったんじゃ」
「今日発注できますか」
ケンが直接聞いた。
老人はケンを見た。昨日と同じ、底の見えない目だった。
「できる。バタコさんに頼めばいい」
「ありがとうございます」
「ん?」
「助かります。ありがとうございます」
老人はまた目を細めた。
「あんたは、棚卸しを頼んだはずじゃが」
「棚卸しが終わって、問題を見つけたので報告しました」
「問題を見つけた、か」
老人は机の上のペンを置いた。
「棚卸し表を見せなさい」
ケンはメモ帳を差し出した。老人はそれを受け取って、しばらく眺めた。
表情が変わった。最初は普通に読んでいたが、途中からなんとも言えない顔になった。困惑と、感心と、それから——どこかおかしそうな、そういう色が混ざった顔だ。
「……棚に番号を振ったのか」
「管理しやすいように」
「品目ごとに分けて書いてある」
「そのほうがわかりやすいので」
「開封済みと未開封を分けてある」
「先に使うべきものを把握するために」
老人はしばらく黙ってメモ帳を見ていた。
それから、静かに言った。
「わしは四十年以上ここでパンを焼いてきた。こういう表を作ったことは、一度もなかったな」
「……すみません、出過ぎたことを」
「謝るな」
老人はメモ帳をケンに返した。
「助かる。本当に助かる」
その言葉は、短かったが、重かった。
四十年間一人でやってきた人間が言う「助かる」だった。ケンには、その重さが少しだけわかった気がした。
午前の仕事は、保管庫の整理だった。
バタコさんの指示のもと、棚の配置を整理した。種類ごとにまとめる。古いものを前に、新しいものを後ろに。開封済みのものに目印を付ける。それだけで、保管庫の見通しが劇的に改善した。
「……随分変わったわね」
バタコさんが、保管庫のドアのところから中を眺めて言った。
「使いやすくなりましたか」
「なった。認めるわ」
認める、という言葉を素直に使えるのは、それなりに強い人間だとケンは思った。
「ひとつ聞いていいですか」
「なに」
「パンを焼く量は、どうやって決めていますか」
「ジャムおじさんの判断」
「基準はありますか」
「……だいたいの感覚よ。何年もやってきたから」
「一日に何個くらい焼きますか」
「日によって違う。戦闘があれば増える。なければ減る」
「戦闘の頻度は」
「多い時で週に三回。少ない時で月に一回」
ケンは頭の中でメモした。
「緊急時というのは、突然来ますか」
「そう。予告なしに来る」
「バタコさんが投げる時と、直接手渡しする時は、どちらが多いですか」
「投げる方が多い。でも戦場が遠い時は投げても届かないから、その時は——」
バタコさんが言いかけて、止まった。
「その時は?」
「……来てもらうか、こっちが行くか、ね」
「工場から外に出られるんですか」
「私は出られる。あなたは——」
バタコさんはケンを見た。
「どうなんでしょう」
「試してみないとわからないわ」
それは正直な答えだった。
昼になった。
ジャムおじさんが工場の奥から出てきて、三人で食事をした。テーブルに並んだのは、丸いパンと、野菜のスープと、チーズだった。
チーズ——犬のチーズではなく、食材のチーズ——がとても美味しかった。この世界のものだろうか、前の世界で食べたものとは少し風味が違う。
「美味いか」
ジャムおじさんが聞いた。
「美味いです。このチーズは」
「近くの農家から分けてもらっておる。羊のチーズじゃ」
「この世界に羊がいるんですか」
「おるよ。牛も豚も鶏も」
ケンはスープを一口飲んだ。
ふと、犬のチーズのことを思い出した。昨日から工場の中で見かけていない。
「あの——チーズは」
「チーズ?」
「犬の、チーズです。昨日ジャムおじさんに紹介してもらったような……」
「ああ」
老人は微笑んだ。
「今朝から外に出ておる。アンパンマンについて行くんじゃ。今日は哨戒があってな」
「哨戒」
「バイキン帝国が動いていないか、周辺を見て回ることじゃ。定期的にやっておる」
なるほど、とケンは思った。
「アンパンマンは今日も出ているんですか」
「毎日ではないが、週の半分くらいは出ておる。カレーパンマンや食パンマンと手分けしてな」
「三人で分担しているんですね」
「うむ。一人で全部やったら消耗しすぎる。ジャムおじさんがそういう運用にしておる」
ケンはまたメモした——頭の中で。
週の半分が稼働日。残り半分が休養日。補給のタイミングは稼働前後。緊急時は随時。
データが少ない。もう少し観察が必要だ。
「ケン君」
ジャムおじさんが言った。
「はい」
「今日の午後、アンパンマンが戻ってくる。紹介しよう」
「……はい」
「緊張するか」
「少し」
老人は笑った。
「あの子は優しいよ。心配しなくていい」
アンパンマンが戻ってきたのは、午後二時過ぎだった。
工場の前の広場に、影が降りてきた。
空を飛んでいた。マントをなびかせて、ふわりと着地した。
ケンは工場の入り口から、その様子を見ていた。
背は高かった。人間のような体格をしている。でも全身が、どこかが違う。動きが滑らかすぎる。着地の瞬間、地面にかかる衝撃を計算しているような、精密さがあった。
そして顔が——丸い、あんパンだった。
頭部が、まるごとパンになっている。焼き色がついた、丸いパン。ケンが子供の頃にテレビで見ていた、あの顔だった。
本物だ、と思った。
改めて思った。今更だが、これは本物のアンパンマンだ。
「ただいま、ジャムおじさん」
声は、思ったより普通だった。落ち着いた、男性の声。でも温かみがある。
「おかえり。異常はなかったか」
「今日は静かでした。バイキンマンの動きは確認できなかった」
「そうか。チーズは?」
アンパンマンの足元に、小さな白い犬が走り寄ってきた。チーズだ。尻尾を振りながら、ジャムおじさんの周りをぐるぐると回った。
「元気だったよ、チーズ」
アンパンマンは犬に向かってしゃがんだ。大きな手で、小さな頭を撫でた。
その動作が、どうにも自然だった。
ケンはじっとそれを見ていた。アンドロイドが犬を撫でている。でも不自然じゃない。むしろ、その場の空気が柔らかくなった気がした。
「アンパンマン」
ジャムおじさんが呼んだ。
「はい」
「紹介したい人がいる」
アンパンマンがケンを見た。
目が、あった。パンの顔についている目だ。でも、ちゃんと「見ている」という感覚があった。
「こちらはケン君。先日からここで働いてもらっておる」
「はじめまして」
アンパンマンが言った。
「鈴木ケンです。よろしくお願いします」
ケンは頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく。工場で働いてくれるんですね」
「バイトです」
「バイト?」
アンパンマンは少し首を傾けた。
「この世界にその概念があるかどうかわからないんですが——雇われて、仕事をしています」
「ああ、なるほど。じゃあ、ありがとうございます」
素直な言葉だった。
お世辞じゃなく、本当にそう思っている声だ、とケンは感じた。
「いつも顔を焼いてもらってるから……今までジャムおじさんとバタコさんに任せきりで、申し訳なかった」
「仕事ですので」
「でも大変でしょう。緊急の時は急いで焼かないといけないし」
「それが仕事です」
アンパンマンはもう一度、首を傾けた。今度は逆方向に。
「あなた、面白い人ですね」
「そうですか」
「うん。なんというか……落ち着いている」
ケンには、それが褒め言葉なのかどうか判断できなかった。でもアンパンマンの声音は、悪意のない、純粋な観察のように聞こえた。
「疲れていませんか」
突然、アンパンマンが聞いた。
「俺ですか」
「うん。昨日来たばかりで、今日から仕事したんでしょう。大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「無理しないでくださいね」
ケンは少し、答えに詰まった。
心配される、という経験が、ひどく久しぶりだった気がした。
「……ありがとうございます」
「俺のほうこそ。これからよろしく」
アンパンマンは大きな手を差し出した。握手を求めているのだ、とケンは理解した。
その手を、ケンは握った。
固かった。金属の硬さじゃなく、厚い装甲の硬さだ。でも握り方は丁寧だった。力を調整している。相手が壊れないように、計算している。
これがアンドロイドだ、とケンは改めて思った。
夕方、カレーパンマンが戻ってきた。
アンパンマンと違って、音があった。空気を切り裂くような飛行音。スピードが速いのだ。着地の瞬間も、アンパンマンより少し荒い。でも無駄のない動きだった。
顔はカレーパンだった。俵型の、少し茶色みが強いパン。
「ただいま。今日は南側に動きあり。偵察機一機を確認、追跡したが見失った」
着地してすぐ、ジャムおじさんに報告した。感情より情報を優先する口調だ。
「規模は」
「偵察機一機のみ。ただ——新型かもしれない。見たことのない形だった」
「新型か」
ジャムおじさんの顔が、わずかに曇った。
「記録しておく。バタコさんに伝えてくれ」
「了解」
カレーパンマンが振り返って、初めてケンに気づいた。
じっと見た。アンパンマンの時とは違う。評価している目だった。
「あんたが新しいスタッフか」
「はい。鈴木ケンです」
「カレーパンマンだ」
握手はなかった。代わりに、短い問いがあった。
「何ができる」
「在庫管理、倉庫作業、スケジュール管理。パン作りの補助は覚えている最中です」
「戦闘は」
「できません」
「正直だな」
「できないものをできると言っても意味がないので」
カレーパンマンは少し黙った。
「補給の管理をするということか」
「そのつもりです」
「……それは助かる」
アンパンマンの「ありがとう」とは違う重さの言葉だった。こちらは現場を知っている者の言葉だ。在庫切れがどういう事態を引き起こすか、身をもって知っている者の言葉だ。
「カレーパンの在庫が切れたことは今まであります?」
「一度ある」
「その時どうなりましたか」
「戦闘の途中で弾切れになった。アンパンマンがカバーしてくれたから何とかなったが——」
カレーパンマンは少し顔をそらした。
「あまり、思い出したい記憶じゃない」
「わかりました。それが二度と起きないように管理します」
カレーパンマンがケンを見た。
「言い切るな」
「やります」
「……まあ」
それ以上は言わなかった。でもその短い「まあ」の中に、少しだけ期待の色があった気がした。
食パンマンは、その日は戻ってこなかった。
夕食の席でジャムおじさんに聞くと、「今日は工場に来ない日じゃ」とだけ言った。
理由は教えてもらえなかった。
でもケンは、昨日案内してもらった時に、工場の地下に降りる扉があったことを思い出した。ジャムおじさんがその扉の前を通った時、一瞬だけ足を止めたことも。
聞くのは、まだ早い気がした。
夜、ケンは部屋に戻って、今日のことをメモ帳にまとめた。
食材の在庫状況。補充が必要なもの。三戦士の稼働ローテーション。バタコさんとアンパンマンとカレーパンマンの動き方。
今日だけでわかったことは、まだ少ない。でも一日目としては十分だ。
データが積み上がれば、もっと精度の高い管理ができる。緊急時に在庫が切れない状態を作れる。アンパンマンたちが戦闘の途中でエネルギー切れになるリスクを下げられる。
それが自分の仕事だ。
チートはない。魔法も使えない。この世界の何者とも戦えない。
でも在庫が切れたことはない。そこだけは、前の世界で積み上げてきた自信がある。
ケンはメモ帳を閉じた。
窓の外に星が出ていた。
田中は今頃どうしているだろうか。
怪我は大丈夫だっただろうか。あの子は落ち込み方が長い。誰かがフォローしてくれていればいいが。
——考えてもわからない。
ケンは目を閉じた。
明日も六時前に起きなければならない。今日の仕事は終わりだ。
木の天井が、闇の中で溶けていく。
パンの匂いが、まだ空気の中に残っていた。
転生してきた男の、バイトとしての初日は、こうして静かに終わった。




