プロローグ 某パン工場への転職
倉庫の中というのは、独特の匂いがする。
段ボールと梱包材の紙臭さ。フォークリフトの排気。どこかで水が漏れているのか、うっすらと漂うカビの気配。それから——今の季節なら——金属棚が冷えて、息を吸うたびに肺の奥が少しだけ痛む、あの冬の空気。
鈴木ケンはクリップボードを持ったまま、三列目と四列目の棚の間を歩いていた。
午後三時十四分。残業が当たり前になって何年になるか、もう数えていない。棚卸しの最終確認を済ませれば、今日の分は終わりだ。といっても事務所に戻ればまた別の書類が積まれているのが目に見えていたが、それも今更どうこう言う気にはなれなかった。
三十九年間、そういう人生だった。
特別に不幸なわけではない。かといって特別に恵まれているわけでもない。食えているし、風呂にも入れる。屋根もある。でかい夢を持ったこともなければ、持てなかったとも思わない。ただ気がつけば、毎朝同じ時間に起きて、同じ道を歩いて、同じ倉庫に入って、同じ作業をして、同じ時間に家に帰る。その繰り返しの中で三十九年が過ぎていた。
悪い人生じゃない、とは思う。
ただ、何かが足りない気がずっとしていた。その「何か」が何なのかは、ついに分からないままここまで来てしまったけれど。
「田中」
声をかけたのは、棚の向こう側にフォークリフトが見えたからだった。
入社して四ヶ月の田中健太。二十三歳。いつも少し慌てていて、失敗するたびに必要以上に落ち込む。どこにでもいる、普通の若者だ。ただ、素直だった。同じミスを二度しない。それだけで、ケンはこの若者をそれなりに見込んでいた。
「あ、鈴木さん。今パレット移動しようと思って」
「そっちのパレット、固定したか」
田中が一瞬だけ動きを止めた。
その一瞬が、すべてだった。
「あ、すみません、今——」
慌てて固定しようとした田中の動きが、わずかにフォークリフトのレバーに触れた。機械が予期しない方向に動いた。棚に接触した衝撃が、鉄製の支柱に伝わった。
支柱が、ゆがんだ。
ケンには見えた。二トン近い段ボールの積み荷が、わずかに傾いた瞬間が。
田中の位置が。
それが崩れ落ちていく先が。
何も考えなかった、というのは正確ではない。
考える時間がなかっただけだ。
体が勝手に動いた。倉庫作業を十五年やってきた体が、反射で走った。田中の背中を両手で押した。
突き飛ばした、という感覚。
田中が棚の外に出た、という感覚。
それから——
音がした。
とても大きな音が。
それだけだった。
痛みはなかった。
それが不思議といえば不思議だった。あれだけの重量が落ちてきたのだから、痛みくらいあってもいいはずだ。でも、何もない。音も消えた。倉庫の匂いも消えた。体の感覚が、ふっと消えた。
ああ、と思った。
これが死ぬということか。
意外と、あっけないものだな。
田中は助かっただろうか。たぶん助かった。ちゃんと押し出せた手応えがあった。それならいい。あの子は素直だから、きっとちゃんとやっていける。自分が怪我させてしまったことを責め続けるかもしれないけれど、それも時間が解決する。時間は大体のことを解決する。
後悔がないかと言われたら、嘘になる。
もう少し、うまく生きられればよかった。もう少し、誰かと笑えればよかった。毎日食べていた一人用の冷凍食品より、ちゃんとした飯を作ればよかった。——でもまあ、それを言い出したらきりがない。
悪い人生じゃなかった。
それだけは、本当にそう思う。
闇の中で、ケンはそっと目を閉じた。
目が覚めると、天井が見えた。
木造の、温かみのある天井だった。
梁が渡してある。古い建物の造りだ。どこかでパンが焼ける匂いがする。甘い、香ばしい匂い。小麦と、バターと、それから——あんこ、だろうか。
ケンはしばらく天井を見上げていた。
ここがどこか、わからなかった。自分が生きているのかどうかも、最初はわからなかった。でも体に感覚がある。背中の下に硬い板の感触がある。息を吸うと空気が肺に入る。
生きている。
どういうことだ。
「おお」
声がした。
ケンは視線だけを動かした。
白い髭を生やした老人が、顔を覗き込んでいた。エプロン姿。両手が小麦粉で白くなっている。丸くて、柔らかそうな顔をしていた。目が細い。でも、その目の奥には何か——深いものがある。底が見えない、と感じる目だった。
「目が覚めたか」
老人は穏やかに言った。驚いていない。まるで最初からこうなると知っていたように。
「……ここは」
声を出そうとして、ケンは自分の声がかすれていることに気づいた。喉が痛い。体全体が、長い間動かしていなかったようにこわばっている。
「わしのパン工場じゃよ」
老人はそう言って、微笑んだ。
パン工場。
ケンは天井を見上げたまま、その言葉を頭の中で繰り返した。
パン工場。
「……俺は、死んだはずなんですが」
「うむ。死んだんじゃろうな」
老人はあっさりと頷いた。
「でも今は生きておる。ここで、な」
「ここというのは」
「ここは、ここじゃ」
答えになっていない。
ケンはゆっくりと上体を起こした。体が痛い。でも、動く。両手を見る。見慣れた自分の手だった。タコができた、作業員の手。三十九年分の手。変わっていない。
改めて、周囲を見渡した。
古い木造の建物だった。大きな窯がある。作業台がある。粉を入れる袋が積んである。道具がある。パン作りの、工房だ。窓の外から光が差し込んでいる。朝の光のように見えた。
どこからどう見ても、パン工場だった。
「あなたは」
「ジャムじゃ」
「ジャム」
「ジャムおじさん、と呼ばれておる」
ケンはしばらく黙った。
その名前には、聞き覚えがある。
子供の頃に見たアニメだったと思う。丸くて赤い顔をした正義のヒーローと、その仲間たちの話。ジャムおじさんは、そのヒーローを作るパン職人の老人だった。
でも、それは漫画の話だ。テレビアニメの話だ。現実に存在するはずがない。
「……もしかして」
「うむ」
老人——ジャムおじさんは、穏やかに頷いた。
「そう思うとる通りじゃ。驚くのは当然じゃよ。わしも昔、ここに来たときは驚いた」
「昔?」
「あんたと同じように、な。ある日突然、ここにおった」
ケンは老人の顔をじっと見た。
その言葉の意味を、頭が処理しようとしている。ゆっくりと、パズルのピースが合わさっていくように。
「……あなたも、転生者ですか」
老人はまた目を細めた。
「賢い子じゃな」
肯定だった。
ケンは深く息を吸った。
死んだはずの自分が、気づけば別の世界にいる。その世界は、子供の頃に見たアニメに似ている。目の前の老人も、また別の世界から来た転生者らしい。
状況を整理しようとして、ケンは一度目を閉じた。
前世の記憶がある。田中を押し出した感触がある。あの音が耳に残っている。
田中は助かっただろうか。
「田中は」
気づいたら声に出していた。
「なんじゃ?」
「俺が——庇った、同僚です。助かりましたか」
老人はしばらく黙った。
「それは」
少し間があった。
「わしには、わからんな」
正直な答えだった。知らない、でも知っているかもしれない。その曖昧さがない、シンプルな「わからない」だった。
「そうですか」
ケンはもう一度息を吐いた。
たぶん助かった。手応えはあった。それを信じるしかない。
「あんたに聞いておきたいことがある」
老人が言った。
「俺に?」
「うむ。あんた、前の世界では何をしておったんじゃ」
「物流会社に勤めていました。倉庫管理です」
「倉庫管理」
「荷物の出し入れの管理。在庫の数。フォークリフトの操作。作業スケジュールの組み立て——まあ、そういうことです」
老人はふむ、と言った。
「料理はできるか」
「一通りは。一人暮らしが長くて」
「体は動くか」
「動きます。頑丈なのだけは自信があります」
「そうか」
老人はにこりとした。
「ちょうどよかった」
ケンは眉を寄せた。
「何がですか」
「うちのパン工場、人手が足りなくてな」
老人は至極当然のように言った。
「あんたに、バイトをお願いしたいんじゃ」
沈黙があった。
ケンは老人の顔を見た。老人は真剣な顔をしていた。
「……バイト」
「うむ」
「俺が死んで転生してきて、最初の話が——バイトの勧誘ですか」
「そうじゃ」
ケンはしばらく老人を見た。
老人は全く悪びれない。むしろ、何かを楽しんでいるような目をしている。
おかしな話だと思う。死んで、転生して、気づいたらアニメの世界にいて、パン工場のバイトに誘われている。十分おかしい。
でもケンは、長い社会人生活の中で一つのことを学んでいた。
おかしな状況に文句を言っても、状況は変わらない。
まず動く。動きながら考える。それしかない。
「……条件を聞かせてください」
「食事と宿は出す。この工場の中に部屋を用意する」
「給料は」
「この世界にはお金という概念があまりなくてな。現物支給になるが、食うには困らせん」
「仕事の内容は」
「パン作りの補助じゃ。材料の管理、焼成のスケジュール——あんたの前世の仕事に、わりと近い」
ケンは一度、窓の外を見た。
空が見えた。
青い空だった。白い雲が流れている。倉庫の中から見上げていた灰色の天井じゃない、本物の空だ。
この世界がどういう世界なのか、まだよくわかっていない。なぜ自分が呼ばれたのか、わかっていない。老人が何を考えているのか、まだ見えていない。
でも。
「わかりました」
ケンは老人に向き直った。
「試用期間は三ヶ月でいいですか。その間に判断します」
老人はもう一度、目を細めた。今度は少し、違う色の笑みだった。安堵のような、確信のような。
「ちょうどよかった、と言っただろう」
「聞こえてます」
「あんたは——」
老人は言いかけて、止めた。
「なんですか」
「いや、いい。まず体を動かせるようになってからじゃ」
老人は立ち上がった。
「今日はゆっくりしなさい。明日からバタコさんに仕事を教えてもらう。あの子は厳しいが、悪い子じゃない」
「バタコさん」
「うちのスタッフじゃ。あんたの直属の先輩になる」
老人はエプロンの粉を払いながら、窯の方へ歩いていった。
「腹が減ったら言いなさい。パンがある」
「……はい」
ケンは老人の背中を見ながら、もう一度窓の外に目を向けた。
青い空。流れる雲。
どこかで鳥が鳴いている。
田中は助かっただろうか。
助かっていてほしい、と思った。
でも今の自分にできることは、何もない。
この世界で生きていくこと。それだけしか、今は選択肢がない。
翌朝、ケンが工場の中を案内されたのは日が昇ってすぐのことだった。
案内役は、バタコさんと紹介された女性だった。エプロン姿。てきぱきとした動き。目つきが鋭い。ケンが自己紹介をしたときの第一声が「あなた、本当に役に立つの?」だったので、第一印象は良くはなかった。
「鈴木ケンです。よろしくお願いします」
「バタコよ。余計なことはしなくていいから、言われた通りに動いてちょうだい」
「わかりました」
「フォークリフトは使える?」
「免許あります」
「重い荷物は?」
「慣れてます」
「在庫管理は?」
「本職です」
バタコさんはケンをじっと見た。探るような目だった。
「……まあ、使えるなら使うわ」
合格点らしかった。
工場の中は、想像より広かった。焼成室。発酵室。材料の保管庫。作業台が並ぶ製造ラインのような空間。それぞれが繋がっていて、動線が考えられている。ジャムおじさんが長い年月をかけて作り上げたのだろう、と思わせる、完成された空間だった。
「ここが主な作業場。毎朝ここでパンを焼く」
「何種類くらいですか」
「その日の状況によるわ。でも必ず作るのが三種類」
バタコさんは三本の指を立てた。
「あんパン。カレーパン。食パン」
「……それは」
「何?」
「いえ、なんでもないです」
アンパンマン。カレーパンマン。食パンマン。
昨日から薄々わかっていたことだが、改めて実感した。本当にあの世界にいるらしい。
「この三種類が最優先。緊急の場合は何を差し置いてもこっちを焼く」
「緊急というのは」
「あの子たちが戦いで消耗したとき」
バタコさんは当たり前のように言った。
「後頭部に扉があってね、そこにパンを入れるの。エネルギーが回復する」
「後頭部に」
「そう。直接交換する場合もあるし、私が投げる場合もある」
「投げる」
「そう」
ケンは少し考えた。
「受け取り損なったりしませんか」
「アンパンマンはしない。カレーパンマンは……たまに。食パンマンは受け取りにこないことがある」
「受け取りにこない?」
「あの子はプライドが高くて、消耗を認めたがらないの。でも本当に限界になったら来るわ」
淡々とした説明だった。ケンはクリップボードのことを思い出した。前の世界でも、こういう作業の説明は同じ口調で聞いていた。
「在庫の管理はどうなってます」
「ジャムおじさんの勘で」
「……勘で」
「何年もやってきたから、だいたい合ってる」
「だいたい、というのは」
「たまに足りなくなる」
ケンは止まった。
「足りなくなる、というのは——あのヒーローたちのエネルギーが、ということですか」
「そう」
「戦闘中に」
「そう」
バタコさんはケンを見た。その目に、初めてわずかな変化があった。困っている、という色。
「それが、一番の問題なの。緊急時に在庫が足りなくなると、焼き上がりまで時間がかかる。その間はあの子たちが消耗した状態で戦い続けることになる」
ケンは頭の中で、前の世界での仕事を思い出した。
緊急出荷。在庫切れ。補充のリードタイム。バッファの設計。
考えることは、同じだ。
「在庫の記録はありますか」
「ジャムおじさんの頭の中に」
「過去の消費データは」
「ない」
「入出庫のタイミングは」
「その都度」
「安全在庫の基準は」
「……なんですか、それ」
ケンはバタコさんを見た。
バタコさんはケンを見た。
少し間があった。
「……あなた、何者なの」
バタコさんが言った。
「物流会社のバイトです」
「バイトがなんでそんな話をするの」
「本職が在庫管理なので」
バタコさんはしばらくケンを見ていた。
それから、ため息をついた。
「……まあいいわ。ついてきて」
歩き出しながら、バタコさんは言った。
「ジャムおじさんに話してみなさい。あなたみたいな人が来たら、あの人が喜ぶと思う」
「喜ぶ?」
「ずっと一人でやってきたから」
バタコさんは振り返らずに言った。
「本当はずっと、誰かに頼みたかったと思うわ。でもなかなか言えなくて」
それは、意外な言葉だった。
ケンは歩きながら、昨日の老人の顔を思い出した。
深い目。底が見えない目。でも、どこかに——疲れの色があった気がした。
何年、何十年と、一人でやってきた人間の疲れが。
「……わかりました」
ケンは言った。
「まず記録を付けるところから始めます」
バタコさんが少しだけ振り向いた。
「よろしくね、鈴木さん」
初めて、名前で呼ばれた。
工場の裏手には、小さな窓があった。
ケンはその日の夕方、一人でそこから外を眺めた。
空が赤く染まっていた。広い空だった。地平線まで続く、どこまでも広い空。前の世界では、倉庫の薄汚れた窓からしか空を見ていなかった。
田中は助かっただろうか。
もう何十回目かの自問だった。
答えは出ない。出るはずがない。でも考えずにはいられない。
あの子は素直だから。きっとやっていける。
そう思いたかった。
背後で、床が軋む音がした。
「景色がいいじゃろ」
老人の声だった。ケンは振り返らなかった。
「……はい」
「この世界に来たとき、わしも毎日ここで空を見ておったよ」
「そうですか」
「元の世界が恋しかった。でもどこへ行けばいいかわからなかった」
ケンは少し考えた。
「俺も似たようなものです」
「じゃろうな」
老人は隣に立った。二人で、赤い空を見た。
「ケン君」
「はい」
「あんたがここに来たのは、偶然じゃない」
老人は静かに言った。
「この世界が——あんたを必要としたんじゃ」
ケンは老人を見た。
老人の横顔は、夕日で赤く染まっていた。その目は遠くを見ていた。ケンには見えない何かを、ずっと前から見ているような目を。
「……俺が、必要」
「うむ」
「なぜ」
「それは——今はまだ言えない」
老人は少しだけ笑った。
「でもいつか、わかる日が来る」
ケンは老人の顔を見た後、また空に目を戻した。
必要とされる、という言葉の感触を確かめるように。
前の世界では、仕事をこなすことはできた。でも「必要とされている」という実感が、薄かった。誰でも代わりができる仕事。誰でも代わりができる人間。それがケンの三十九年だった気がする。
この世界でも、そうなのだろうか。
それとも——
「明日からよろしく頼む」
老人が言った。
「はい」
ケンは答えた。
空の色が、濃い紫に変わっていく。
最初の星が、一つ瞬いた。
前の世界とは違う星の並びだった。
でも、空は同じ色をしていた。
鈴木ケン、三十九歳。元物流会社倉庫管理係。フォークリフト免許保有。現在の職業——某パン工場、バイト。
そうして、少し奇妙な、でも何かが始まるような予感のする夜が、静かに降りてきた。




