第22話 工場で待つ
三人が出発したのは、朝の六時だった。
空が白み始めた頃、アンパンマンがジャムおじさんを両腕に抱えて浮き上がった。バイキンマンが隣に並んで飛んだ。
チーズが広場から空を見上げて、一度だけ吠えた。
ケンとバタコさんが並んで見送った。
三人の影が北の空に消えていった。
「行ったわね」
「行きましたね」
バタコさんが少し間を置いた。
「心配?」
「少し」
「少しだけ?」
「少ししか言えない」
「そういうもんね」
バタコさんが工場の中に入った。
ケンはもう少し空を見てから、後に続いた。
最初の通信は、出発から三時間後に来た。
カレーパンマンからだった。カレーパンマンと食パンマンは工場の哨戒に残っていた。
『北方向に問題なし。バイキンマン一行の通過を確認した。今のところ追跡はない』
「ありがとうございます。こちらも問題ありません」
『ブラックノワールの動きは』
「今のところ確認できていません」
『了解。定期報告を続ける』
通信が切れた。
ケンはメモ帳に時刻と内容を書き込んだ。
通常の焼成作業を続けながら、三十分ごとに通信機を確認する。それが今日のルーティンだ。
午前の作業は静かだった。
バタコさんが食パンマン用の食パンを焼いた。ケンが在庫の整理をした。スライス隊のバター補給の日だったので、地下にも降りた。
ワンさんが計器の前にいた。
「ジャムおじさんはご不在ですか」
「今日は北の山脈に向かっています」
「存じています。本体が少し落ち着かない様子です」
「ジャムおじさんが遠くにいるから、ですか」
「そうかもしれません。バターを多めに用意しました」
さんちゃんが小さな瓶を持ってきた。
「ケンさん、これ」
「なんですか」
「新しいジャムです。今日暇だから作りました。ケンさんに試してもらいたくて」
「ありがとうございます。後で食べます」
「感想を教えてください。いつも参考にしているので」
「わかりました」
地下から上がって、また作業に戻った。
昼過ぎの通信は、アンパンマンからだった。
『ケンさん、聞こえますか』
「聞こえています。状況は」
『山脈に入りました。気流が複雑で、飛行に集中が必要です。ジャムおじさんは元気です。バイキンマンは——前を飛んでいます。黙って飛んでます』
「問題はありませんか」
『今のところは。でも——』
少し間があった。
『空気が違います。山脈に入ってから、なんか、重い感じがします』
「外壁が近いからかもしれません」
『そうですか。ケンさんはそういうこと、すぐ言えるんですね』
「ジャムおじさんに教えてもらったことです」
『ジャムおじさんは今、バイキンマンと少し話してます。珍しい光景です。二人が並んで飛んでる』
「いいですね」
『うん。いい感じです。じゃあ、また連絡します』
「はい。気をつけて」
通信が切れた。
ケンはメモ帳に書き込んだ。
山脈入り。気流複雑。外壁の影響か。アンパンマンとバイキンマンとジャムおじさん、問題なし。
午後二時頃、工場の裏口に音がした。
チーズが短く吠えた。
ケンが裏口を開けた。
ドキンちゃんが立っていた。
いつもより少し表情が違った。ジャムを買いに来る時の、楽しそうな顔ではなかった。
「いらっしゃいませ」
「バイキンマン、どこにいるの」
開口一番それだった。
「北の山脈に向かっています」
「北の山脈って——外壁のところ?」
「その近くです。実地調査のために」
ドキンちゃんが少し黙った。
「……一人で行ったの」
「アンパンマンさんとジャムおじさんが一緒です」
「アンパンマンと一緒に?」
「はい」
ドキンちゃんが、なんとも言えない顔をした。
「……そう」
「入りますか。お茶を入れます」
ドキンちゃんが少し迷った。
「……入る」
テーブルに向かい合って座った。
チーズがドキンちゃんの足元に来て、くんくんと嗅いだ。
「チーズ、慣れたわね」
「慣れたみたいです」
「前は追いかけてきたのに」
「変わります」
ドキンちゃんがお茶を一口飲んだ。
少し間があった。
「バイキンマン、危なくないの」
「今のところ、問題ないという報告が来ています」
「外壁のそばって、なんか変なの?」
「空気が重い感じがするとアンパンマンさんが言っていました。でも飛行に問題はないそうです」
「そう」
ドキンちゃんがお茶の椀を両手で持った。
「私、ホラーマンからも聞いてなかったのよ。今朝になって知った」
「バイキンマンから聞かなかったんですか」
「聞かなかった。バイキンマン、私には黙って行くことにしたんだと思う」
「なぜだと思いますか」
「……心配させたくなかったんじゃないの」
ケンは少し考えた。
「心配していますか」
「してるわよ」
ドキンちゃんが少し声のトーンを上げた。
「当たり前でしょ。バイキンマンが外壁のそばに行くなんて、今まで一度もなかったんだから」
「そうですね」
「あなたは心配じゃないの」
「心配しています」
「少しだけ、って言うんでしょ」
「今回は——少しより多いです」
ドキンちゃんが少し止まった。
「多い?」
「ジャムおじさんも一緒なので。二人分心配です」
「アンパンマンは?」
「アンパンマンさんは——たぶん大丈夫だと思っています。あの方は強いので」
「バイキンマンだって強いわよ」
「そうですね。でも——精製炉のことがあるので」
ドキンちゃんが黙った。
精製炉の話は、ドキンちゃんも知っているはずだった。ホラーマンから聞いていると思っていたが——
「精製炉のこと、知っていましたか」
「……ホラーマンから少し聞いた。体が、壊れていってるって」
「はい」
「だから外に出たいんでしょ。バイキンマン」
「それも理由の一つです」
ドキンちゃんが椀を置いた。
「ねえ、ケン」
「はい」
「バイキンマンが外に出たら——戻ってこられるの?」
ケンは少し間を置いた。
「戻ってこられる方法を研究しています。今日の実地確認も、その一環です」
「戻ってこられる、という保証はあるの」
「今の段階では、保証はできません」
「じゃあ——」
「でも、戻ってこられる可能性を最大にするための研究をしています。それが今できることです」
ドキンちゃんが少し黙った。
「……バイキンマンは、戻ってくるつもりがあるの?」
「あると思っています」
「なんで」
「この工場に、何度も来ているから」
ドキンちゃんが少し首を傾けた。
「それと戻るつもりがあることに、関係があるの?」
「繋がりを作っている人間は、切りたくない繋がりがある。その繋がりの場所に戻ろうとする。俺はそう思っています」
ドキンちゃんがしばらく黙った。
「……そういう考え方、嫌いじゃない」
「ありがとうございます」
「褒めてないわよ」
「わかっています」
夕方、バタコさんがお茶のおかわりを持ってきた。
ドキンちゃんを見て、少し目を細めた。でも怒った様子はなかった。
「またいたの」
「バイキンマンの話を聞きに来た」
「そう」
バタコさんがドキンちゃんの横に座った。
「心配してるの?」
「……してる」
「素直ね」
「素直に言って悪い?」
「悪くないわよ」
バタコさんがお茶を飲んだ。
「私も心配してる。ジャムおじさんがいないと、工場が静かすぎて」
「ジャムおじさんのこと、好きなの?」
「好きよ。長い付き合いだから」
「私もバイキンマンのこと好き。長い付き合いだから」
二人がほぼ同じことを言った。
少し間があって、二人が目を見合わせた。
「似てるわね、私たち」
「そう?」
「長い付き合いの人を、工場から心配して待ってる」
ドキンちゃんが少し考えた。
「……確かに」
夕方の通信は、ジャムおじさんから来た。
『ケン君、聞こえるか』
「聞こえます。どうですか、状況は」
『山脈を越えた。今、外壁の前にいる』
ケンは体が少し緊張するのを感じた。
「外壁の状態は」
『バイキンマンが確認している。予想より——薄くなっておる。たかしさんの時代より』
「薄くなっている」
『そうじゃ。これは——いい話か、悪い話かはまだわからない。ただ、突破口はある。ちゃんとある』
「バイキンマンは今何をしていますか」
『外壁に手を触れておる。静かに、ずっと触れておる』
ケンは何も言わなかった。
ジャムおじさんが続けた。
『アンパンマンが横で見ておる。何も言わずに、ただ見ておる。いい子じゃな、あの子は』
「そうですね」
『ケン君、今日ここに来られなくて、悔しかったか』
「少し」
『そうか。でも——お前がここにいる理由がある。今日も工場で待ってくれているから、わしらは安心して来られた』
「……ありがとうございます」
『しばらく外壁の観測を続ける。夜には戻れると思う』
「わかりました。補給の準備をしておきます」
『頼む』
通信が切れた。
ドキンちゃんが聞いていた。
「外壁の前にいるんだ」
「はい」
「……バイキンマン、どんな顔してるのかな」
「見えないのでわかりません」
「でも、ジャムおじさんは——静かに触れているって言ってた」
「はい」
ドキンちゃんが少し遠い目をした。
「バイキンマン、ずっとそこに行きたかったんだと思う。百五十年以上」
「そうだと思います」
「やっと行けたんだね」
「はい」
ドキンちゃんが、静かに言った。
「……よかった」
その言葉は、小さかった。
でも、本物だった。
夜、三人が帰ってきた。
空が暗くなった頃、表口の外に影が降りてきた。
アンパンマンが先に着地した。次にバイキンマン。最後にジャムおじさんを抱えたアンパンマンが、老人をそっと地面に下ろした。
ケンとバタコさんとドキンちゃんが、表口で待っていた。
ドキンちゃんがバイキンマンを見た。
バイキンマンがドキンちゃんを見た。
「……心配させたか」
「した」
「すまなかった」
「次は言ってよね」
「言う」
ドキンちゃんが少し頬を膨らませた。でも、目が赤かった。
バイキンマンがドキンちゃんの頭に手を置いた。
ドキンちゃんが何も言わなかった。
ケンはその様子を、少し離れたところから見ていた。
夜のメモ帳。
三人、無事帰還。外壁の確認完了。突破口の存在を実地で確認。外壁は百五十年前より薄くなっている。詳細は明日の研究会議で。
ドキンちゃんが午後から工場にいた。バイキンマンを心配して。帰還後、バイキンマンがドキンちゃんの頭に手を置いた。
書きながら、ケンはその場面を思い返した。
バイキンマンがドキンちゃんを作ったのは、善の創造力だとジャムおじさんが言っていた。
愛護から生まれた存在への、愛護の行動。
その事実に、バイキンマンはまだ気づいていない。
でも——今日の場面を見て、ケンには少しだけわかった気がした。
バイキンマンは、この世界に繋がりを持っている。
だから戻ってくる。
チーズが足元に来た。
窓の外に星が出ていた。
ケンはメモ帳を閉じた。




