第21話 北の果て
バイキンマンへの連絡は翌朝入れた。
通信機越しに、昨日のブラックノワールとの会話をそのまま伝えた。命令の再確認のために引いたこと。ケンに「理解できない」と言ったこと。ジャムおじさんの見立て——設計思想と命令の矛盾。
しばらく沈黙があった。
「……命令の再確認」
「そうです」
「あいつが、自分からそれを言ったのか」
「はい」
また沈黙があった。今度は長かった。
「バイキンマン、どう思いますか」
「……俺が作った時の設計に、そういう機能は入れていない」
「どういう意味ですか」
「命令に疑問を持つ機能は入れていない。ブラックノーズの指示を受けて、より戦闘特化の改修がされていると思っていた。でも——」
「でも」
「疑問を持った。それは俺の設計が根底にある、ということかもしれない」
ケンは少し考えた。
「ジャムおじさんの言葉と近いですね」
「あの人がそう言ったか」
「矛盾し始めているかもしれない、と」
「……そうだな」
バイキンマンが静かに言った。
「ケン、一つ頼みたいことがある」
「なんですか」
「次に会う機会があれば——もう少し、話しかけてみてくれ」
「ブラックノワールに、ですか」
「そうだ。俺には直接話せない。あいつはブラックノーズの指示も受けている。でも——お前の言い方なら、届くかもしれない」
「わかりました。機会があれば」
「頼む」
その日の午後、研究室でジャムおじさんとバイキンマンが向かい合っていた。
テーブルの上に、外壁の図と計算式が広がっていた。
ケンは端に座って、二人の話を聞きながらメモを取っていた。
「実地確認が必要だ」
バイキンマンが言った。
「北の山脈の向こうに行く、ということか」
「そうだ。たかしさんの観測は百五十年前のものだ。外壁の状態が変わっている可能性がある」
「確かにそうじゃな。理論だけでは進めない段階になってきた」
「俺が単独で行けばいい。問題は——戻ってこられるかどうか確認する方法だ」
ケンが口を開いた。
「確認する方法というのは」
「外壁の突破口に触れた時、そこから先に進んでも戻れる経路が確保できるかどうかを、外側から確認する必要がある」
「外側から確認するということは、誰かが外に出るということですか」
「少しだけでいい。突破口に手を入れる程度でいい。それで状態がわかる」
「その役割は誰がやりますか」
「俺がやる」
「バイキンマン一人で行くんですか」
「そうだ。他を巻き込みたくない」
ジャムおじさんが言った。
「一人で行かせるわけにはいかんじゃろ」
「危険は俺が負う」
「それでも一人では心配じゃ。何かあった時、誰も知らない」
バイキンマンが少し黙った。
「……一緒に来たいか、ジャムおじさん」
「来たい」
「お前は飛べないだろう」
「そうじゃな」
ケンが言った。
「アンパンマンさんに頼めますか。移動だけ」
二人がケンを見た。
「アンパンマンさんとバイキンマンが一緒に飛ぶのは——今の関係なら不自然じゃないと思います。現地では探索はバイキンマンが主導する。アンパンマンさんは移動と護衛だけ」
「アンパンマンが了承するか」
「聞いてみます。断るとは思えないですが」
バイキンマンが少し間を置いた。
「……お前も来るか」
「俺は工場を離れられる距離に限界があります。北の山脈の向こうは——難しいかもしれない」
「確認したことはあるか」
「ありません」
「なら試してみればいい。限界が来たら引き返せばいい」
ケンは少し考えた。
「ジャムおじさん、俺が遠く行けなくなるのはこの工場に根っこがあるからですよね」
「そうじゃ」
「工場から離れるにつれて、どういう症状が出ますか」
「足が重くなる感じじゃな。ある距離を超えると、引き戻される感覚がある」
「痛みは」
「ない。ただ——動けなくなる」
「どのくらいの距離が限界ですか」
「わしが測ったわけじゃないが——これまでの様子を見ると、工場から三十キロ程度じゃないかと思っておる」
「北の山脈は」
「飛んで半日というのは——距離にして百キロ以上はあると思う」
ケンは素直に言った。
「無理そうですね」
「じゃろうな」
「では工場で待ちます。通信は維持できますか」
「通信機の範囲であれば可能じゃ」
「わかりました。現地の状況を随時報告してもらえれば、ここで補給の準備ができます」
バイキンマンが静かに言った。
「……後方で待つのか」
「俺の仕事は後方です」
「それで不満はないか」
「不満は——少しあります。行ってみたい気持ちはある」
正直に言った。
「でも、俺が行けない場所では俺の役割は補給を整えること。それで貢献できる」
バイキンマンが短く言った。
「……わかった」
翌日、アンパンマンに話した。
「バイキンマンと一緒に北の山脈に行ってほしい」
アンパンマンが少し止まった。
「バイキンマンと——二人で?」
「ジャムおじさんも同行します。三人で。アンパンマンさんには移動と護衛をお願いしたい。探索はバイキンマンが主導します」
「外壁の実地確認、だね」
「はい。研究の最終段階に入っています」
アンパンマンがしばらく考えた。
「怖くないわけじゃない」
「どのくらい怖いですか」
「バイキンマンと、ちゃんと戦わずに飛んでいけるのかどうか——体が反応するかもしれない。長年の癖だから」
「それを正直に言えるのは、すごいことだと思います」
「そう?」
「普通は言わないです。でも、言ってくれた方が対処できます」
「どう対処するの」
「行く前に、バイキンマンと少し話す機会を作ります。同じ目的で動くことを確認してから出発する。それで体の反応が少し落ち着くかもしれない」
アンパンマンが少し考えた。
「……それはいい考えだと思う」
「行ってくれますか」
「行く」
「ありがとうございます」
「でも——ケンさんも来てほしかったな」
「俺の根っこはここにあるので」
「そうか」
「でも通信でつながっています。何かあればすぐ声をかけてください」
「うん」
出発は三日後に決まった。
その間、ケンは補給の準備を整えた。
三人分の携帯用パン——アンパンマン用のあんパン四個、ジャムおじさんへの非常食、それからバイキンマン用に——バイキンマンは専用パンを必要とするわけではないが、念のため携帯食を用意した。バタコさんが快く手伝ってくれた。
通信機の電池を確認した。予備を二つ用意した。
緊急時の判断基準をメモ帳に書いた。何が起きたらどう対応するか、想定できる範囲でリストを作った。
「細かいわね」
バタコさんが横で見ていた。
「想定できることは想定しておきます」
「想定できないことが起きたら?」
「その時考えます」
「結局そうなるのね」
「でも、想定していた分だけ思考のリソースが空く。想定外のことに集中できます」
バタコさんが少し考えた。
「……なるほどね。あなたの仕事の仕方、少しわかった気がする」
「今更ですか」
「今更でも、わかった方がいいでしょう」
「そうですね」
出発前日の夜、バイキンマンが工場に来た。
翌日の確認のためだ、と言っていたが——実際に話したのはそれだけではなかった。
アンパンマンも呼んだ。三人でテーブルを囲んだ。
最初は事務的な話だった。出発時間、飛行ルート、現地での行動順序。
でも、ひと通り確認が終わった後、しばらく沈黙があった。
アンパンマンが言った。
「バイキンマン」
「なんだ」
「明日——よろしく」
バイキンマンが少し止まった。
「よろしくというのは」
「一緒に行く、ということを——信頼する、ということ」
また沈黙があった。
「……俺もお前を信頼する」
「ありがとう」
「礼を言うことじゃない」
「でも言いたいから言う」
バイキンマンが短く鼻を鳴らした。
「……相変わらず直接的だな、お前は」
「それが俺の設計だから」
「知っている」
二人が、少し笑った。
ケンはお茶を飲みながら、その様子を見ていた。
何も言わなかった。
言う必要がなかった。
夜のメモ帳。
明日、三人が北の山脈へ出発する。アンパンマン、バイキンマン、ジャムおじさん。俺は工場で待機。
補給の準備は完了。通信機の電池も確認済み。緊急時の対応リストも作った。
出発前日に三人が集まって話した。バイキンマンとアンパンマンが互いに「よろしく」「信頼する」と言った。
書きながら、ケンは少し静かな気持ちになった。
明日は行けない。
でも——工場にいることが、俺の仕事だ。
三人が向こうで動いている間、こちらで補給を整えて、通信を維持して、何かあればすぐ対応する。
それで十分だ。
チーズが足元に来た。
窓の外に星が出ていた。
この世界に来て、百二十日を過ぎた。
ケンはメモ帳を閉じた。




