第20話 黒と向き合う
護衛体制が始まって四日目、光粉の在庫が底をついた。
前回の採取から二週間以上経っていた。焼成改良の試験で通常より多く使ったのが原因だ。予測より早い消費だった。在庫管理の記録を見返すと、計算ミスではなく想定外の消費があった——試験回数が増えたぶんだ。
ケンはメモ帳に書き込んだ。
試験期間中は光粉の消費量を別枠で管理すること。次回からの改善項目だ。
「行かないといけませんね」
バタコさんに告げると、すぐアンパンマンへの連絡が入った。
「一緒に行く。準備してきて」
アンパンマンの返答は早かった。
山道を並んで歩いた。
アンパンマンは空を飛ばずに歩いた。ケンのペースに合わせている。
「飛んでいいですよ」
「一緒に歩く方が、何かあった時に対応しやすい」
「そうですか」
「それと——」
アンパンマンが少し間を置いた。
「久しぶりに、歩きたかった」
「普段は飛んでいるので」
「うん。地面を踏む感覚が、飛んでいると忘れる。たまには歩かないと」
チーズが先を歩いていた。振り返って二人を確認しながら進む。いつもの動きだ。
山の空気が冷たかった。木の葉が揺れている。鳥の声が遠くに聞こえる。
「アンパンマンさん」
「うん」
「バイキンマンと会ってから、変わりましたか」
アンパンマンが少し考えた。
「変わったと思う。何が変わったかは——まだうまく言えない」
「言えなくていいと思います」
「そう?」
「変わったことに気づいている。それで十分じゃないですか」
アンパンマンが少し笑った。
「ケンさんって、そういう言い方するよね」
「どういう言い方ですか」
「答えを急がない言い方」
「急がなくていい時は急がないので」
「——逆に急ぐ時はどういう時?」
「在庫が切れそうな時です」
アンパンマンがまた笑った。今度はもう少し大きく。
山道を登りながら、二人は話し続けた。
沢を渡って、岩場に差し掛かった頃だった。
チーズが止まった。
吠えなかった。ただ、止まった。
ケンはその動きで気づいた。
何かがいる。
アンパンマンも気づいた。体勢が変わった。緊張が走った。
「上だ」
アンパンマンが低い声で言った。
ケンは空を見た。
岩場の上、少し離れたところに、黒い影があった。
人型だった。全身が黒い。動かない。こちらを見ていた。
ブラックノワールだった。
沈黙が続いた。
ブラックノワールは動かなかった。攻撃してこない。ただ、そこにいる。
「ケンさん、下がって」
「わかりました」
ケンは岩の陰に入った。でも完全に隠れなかった。チーズが足元に来た。
アンパンマンがブラックノワールの方を向いた。
「お前がブラックノワールか」
返答がなかった。
「今日は何の目的で来た」
また返答がなかった。
ブラックノワールが、ゆっくりと動いた。
岩の上を歩いてきた。目的地はアンパンマンではなく——ケンの方だった。
「止まれ」
アンパンマンが前に出た。
ブラックノワールが止まった。
二人の間に、数メートルの距離がある。
「ケンさんに用があるなら、俺を通してからだ」
ブラックノワールが、初めて声を出した。
低い、機械的な声だった。感情の起伏がない。
「邪魔するな」
「邪魔する」
ブラックノワールがアンパンマンを見た。
「お前のデータは取得済みだ。カウンターは用意してある。退くなら退け」
「退かない」
「無駄に傷つく」
「それでも退かない」
ケンは岩の陰から状況を見ていた。
戦闘が始まるかもしれない。
始まったら——俺にできることは何もない。
いや、違う。
ケンはリュックを下ろした。中に、通信機が入っていた。バタコさんに持たされた、小型のものだ。
カレーパンマンの周波数に合わせた。
「カレーパンマンさん、聞こえますか」
『聞こえる。どうした』
「北東の山。沢の上の岩場。ブラックノワールがいます」
『今から行く。アンパンマンは』
「目の前にいます。まだ戦闘は始まっていない」
『三分待て』
「了解です」
三分は長かった。
アンパンマンとブラックノワールは動かなかった。にらみ合いが続いた。
ブラックノワールが、突然ケンに向かって声をかけた。
「鈴木ケン」
ケンは少し驚いた。名前を知っていた。
「はい」
「お前は、バイキンマンの計画を助けている」
「研究を手伝っています」
「ブラックノーズ様はそれを望んでいない」
「わかっています」
「ならなぜ続ける」
ケンは少し考えた。
「バイキンマンが外に出て戻ってこられる方法を作ることは、この世界を壊すことじゃないからです」
「ブラックノーズ様の計画と干渉する」
「ブラックノーズさんの計画が何かは知りません。ただ——俺が手伝っているのは、バイキンマンが外に出ることと、この世界が続くことを両立させる研究です」
「両立などできない」
「できるかどうかは試してみないとわからないです」
ブラックノワールが少し止まった。
「お前は——恐れていないのか」
「少し恐れています」
「少し、か」
「全部恐れていたら動けないので。やることがある分だけ、恐れに使う時間がない」
ブラックノワールがケンを見た。
しばらく、そのままだった。
「……変わった人間だ」
「よく言われます」
「バイキンマンも、ホラーマンも、同じことを言っていた」
「そうですか」
「お前は、この世界に来る前は何をしていた」
唐突な質問だった。
ケンは少し考えた。
「物流会社の倉庫で、在庫管理をしていました」
「倉庫管理」
「荷物の出し入れ、数の管理、作業スケジュール——そういう仕事です」
「戦闘の経験は」
「ありません」
「武器も持っていない」
「持っていません」
「では——なぜお前を排除する必要があると、ブラックノーズ様が判断したのか」
その質問は、ブラックノワール自身への問いかけのように聞こえた。
ケンは答えなかった。
代わりに、別のことを言った。
「あなたは——ブラックノーズさんの命令に、疑問を感じていますか」
ブラックノワールが固まった。
一秒。二秒。三秒。
「命令に従うのが俺の機能だ」
「機能と、あなた自身の判断は別ですか」
「……俺には判断する必要がない」
「でも今、俺に質問した。命令を実行する前に」
ブラックノワールが動かなかった。
アンパンマンも動かなかった。
三人が、岩場に静止していた。
空から影が落ちてきた。
カレーパンマンだった。音もなく岩の上に降り立った。ブラックノワールの斜め後方に位置した。
「カレーパンマン……」
「遅くなった。状況は」
「今のところ、戦闘はない」
カレーパンマンがブラックノワールを見た。
「お前の言う通り、俺のデータも取得済みだろう。でも——今日は戦いに来たわけじゃないらしいな」
ブラックノワールが振り返った。
「カウンターは用意してある」
「知っている。それでも俺は来た」
「なぜだ」
「ケンさんを守るためだ」
ブラックノワールが、カレーパンマン、アンパンマン、ケンを順番に見た。
「……理解できない」
「何が」
「戦闘員でも、武装もしていない人間を、これほどの戦力で守る理由が」
「簡単な話だ」
カレーパンマンが言った。
「ケンさんがいなければ、俺たちの補給が安定しない。補給が安定しなければ、俺たちは満足に戦えない」
「打算か」
「打算もある。でも——」
カレーパンマンが少し間を置いた。
「それだけじゃない」
短い言葉だった。
でも、それ以上は言わなかった。言わなくても、伝わった気がした。
ブラックノワールが、ゆっくりと後退した。
戦闘態勢を解いていた。
「今日は引く」
「どういうことだ」
「命令の再確認が必要だ。ブラックノーズ様に戻る」
カレーパンマンが少し眉を寄せた。
「再確認、というのは」
「俺が理解している命令と、実際の命令に齟齬がある可能性がある」
「……それを自分で言うのか」
「事実だから言う」
ブラックノワールが空に上がった。
黒い影が、南の方角に飛んでいった。
三人が残った。
チーズがケンの足元から出てきた。
帰り道、光粉を採取してから戻った。
袋を満たして、山道を下りながら、アンパンマンが言った。
「ケンさん、さっきブラックノワールに何を言ったの」
「命令を実行する前に質問したことを、指摘しました」
「それが効いたの?」
「わかりません。でも——ブラックノワールは、機能として動くだけの存在じゃないかもしれない」
「そう思った?」
「質問してきた。理解できないと言った。命令の再確認をすると言った。どれも、ただ命令を実行するだけなら必要ない言葉です」
カレーパンマンが横で聞いていた。
「ブラックノーズの指示系統から、切り離せる可能性があるということか」
「可能性の話です。でも——ゼロじゃないと思います」
「それを、今日会ったばかりのブラックノワールに感じたのか」
「カレーパンマンさんが言っていたことを思い出しました。初見では当たった一撃があった、と。初見の時は、相手も学習していない。今日の会話も——初めての会話だった。だから、素の反応が出たと思います」
カレーパンマンが少し黙った。
「……データは取得済みと言っていた。でも会話のデータはない」
「そうです。戦闘パターンは学習している。でも、こういう話し方をされたことはなかったかもしれない」
「なるほど」
山道を下りながら、三人は少し黙った。
チーズが先を歩いていた。
工場に戻ると、バタコさんとジャムおじさんが表口で待っていた。
通信でブラックノワールの件は伝えてあった。
「無事だったか」
「無事です」
「ブラックノワールは」
「引きました。命令の再確認のためだと言って」
ジャムおじさんが少し考えた。
「……再確認、か」
「ジャムおじさん、何か思うことがありますか」
「ブラックノワールは——バイキンマンが三戦士のデータから作った機体だ。でも、ブラックノーズと連携することで別の命令系統も持つようになった。その二つが干渉し始めているとしたら——」
「どういうことですか」
「バイキンマンの設計思想と、ブラックノーズの命令が、矛盾し始めているかもしれない」
ケンはその言葉を頭の中に置いた。
バイキンマンの設計思想——たかしさんから受け継いだもの。善の創造力。
ブラックノーズの命令——何が目的なのか、まだわからない。
その矛盾が、ブラックノワールの内側で起きているとしたら。
「バイキンマンに伝えます」
「頼む」
夜のメモ帳。
ブラックノワールと初遭遇。戦闘には至らず。命令の再確認のために引いた。
ブラックノワールが「理解できない」と言った。命令を実行する前に質問した。その意味を、まだ考えている。
バイキンマンの設計思想とブラックノーズの命令の矛盾——ジャムおじさんの見立て。
光粉、採取完了。二週間分確保。次回から試験期間中の消費量を別枠で管理する。
書き終えて、ケンはペンを置いた。
今日、初めてブラックノワールと話した。
敵だと思っていた。でも——話してみると、わからなくなった。
機能として動いている。でも、疑問を持っている。
それは——どういう存在なのか。
バイキンマンも、たかしさんに「悪役を押しつけてすまなかった」と言われた存在だ。
ブラックノワールは——誰に何のために作られたのか。
今日はわからなかった。
でも、わかる日が来るかもしれない。
チーズが足元に来た。
窓の外に星が出ていた。
ケンはメモ帳を閉じた。




