初めての大敗北
天極閣・月無痕。
彼はゆっくりと立ち上がり、百官の前に進み出た。
「本日は先帝忌辰、めでたい席ではございますが
——どうしても申し上げねばならぬことがあります」
太后が眉をひそめる。
「月無痕……そなた、何用じゃ?」
月無痕は懐から一通の書狀を取り出した。
「これは、三ヶ月前、落雁谷の戦いの直前に、
北戎の陣営から発せられた密書の寫しでございます」
心臓が止まった。
——何だ?
「この密書の差出人は——第三皇子・蕭景瀾にございます」
どよめきが起きた。
「なに!?」
「ありえん!」
「第三皇子が北戎と通じていただと!?」
私は立ち上がっていた。
「でたらめを言うな!」
月無痕が私を見る。その目は冷たく、一切の感情がなかった。
「第三皇子妃。これは北戎の陣營から押収した本物の文書でございます。
筆跡鑑定も済んでおります」
「そんなものは捏造だ!」
「では、お聞きします」
月無痕が一歩前に出る。
「落雁谷の戦いで、第三皇子はなぜ本陣を離れ、元帥本隊三千人単獨で行動されたのか?」
「なぜ援軍を要請されなかったのか?」
「なぜ——三千の將士が死ぬ中、ただ一人、遺體すら見つからなかったのか?」
一言一言が、刃のように私の心臓を刺す。
「黙れ!」
雲霓が立ち上がり、刀を抜こうとする。しかし蕭玉嬛がそれを制した。
「雲霓、今は手を出すな……」
違う。
月無痕の目が、かすかに——同情しているように見える。
——何だ?
——なぜ、同情する?
その時、もう一人が立ち上がった。
天極閣・風無痕。
彼は情報屋、この國で起こることのすべてを知っている男。
「私からも、一つ証言いたします」
風無痕が靜かに言う。
「三ヶ月前、落雁谷の戦いの直前——第三皇子は確かに、北戎の陣營に向けて使者を送った」
「それは戦術的な——」
「戦術的な使者なら、記録が殘るはずです。しかし当時の記録には、
その使者の名も、內容も一切殘されておりません。なぜでしょう?」
風無痕は懐から一通の書狀を取り出した。
「これは、三日前に第三皇子妃が軍營で行った『祭奠』の記録でございます」
——何だ?
——なぜ、今、それを?
風無痕が読み上げる。
「『王二狗、お前の母さんの腳は悪いんだろ』『李三娃、いつまでも軍營でぶらぶらしてないで、
もっと家に帰れ』『趙鉄柱、お前の妹はもう嫁ぐ頃だろう』——」
「これらの言葉、すべて——殿下が生前に書いた手紙の內容だということになっております」
どよめきが起きた。
「手紙?」
「第三皇子が、そんなものを?」
「まさか……あの寡黙な御方が?」
風無痕が続ける。
「しかし、我々天極閣の調べによれば——殿下は生前、
このような個人的な手紙を一通も書いておりません」
「なに?」
「御方は確かに將士を大切にされていた。しかし、それを直接言葉にすることは決してなかった。それが、あの方の性格だった」
會場が騒然となる。
「では、あの手紙は——」
「捏造です」
風無痕が冷たく言い放つ。
「第三皇子妃は、偽の手紙を作り、それを『殿下の遺言』として將士に示した。
將士たちの心を掌握するために」
騒然。
「偽りの手紙で將士を煽動したのか!」
「三皇子の名を汚すとは!」
「あの女、何を考えている!」
——待て。
公の場で証拠を突きつけ、反論の余地を奪い、社會的に抹殺する——
これは、私の戦術。
誰かが、私の戦術を私に使っている。
そして——會場の隅に立つ、殘りの五人の影を見た。
天極閣の七人が、今——私を囲んでいる。
「違う!あれは——」
「では、お聞きします」
風無痕が一歩前に出る。
「あの手紙の原本は、どこにありますか?」
言葉が詰まる。
——原本?
——そんなもの、あるはずがない。あれは私が一晩で書き上げた偽物だ。
「原本は……燃やした」
「なぜ燃やした?」
「それは……殿下の遺言で——」
「遺言で?第三皇子は、自分の手紙を燃やせと?」
風無痕の問い詰める聲が、會場に響く。
淑妃が冷笑を浮かべる。
「なるほど――」
その目が、獲物を見つめた。
「偽の手紙で將士を煽り、夫の名誉で軍心を掌握。
挙句に証拠は燃やした――と」
「違う!」
雲霓が立ち上がる。
「姉さんは、あの兵士たちを勵ましたかっただけだ!」
「勵ますために、偽の手紙を使うのか?」
淑妃の言葉が、會場に刺さる。
——違う。私はただ、あの人たちを勵ましたかっただけだ。
彼が死んで、悲しんでいる人たちを!
しかし、誰も私の言葉を聞かない。
「第三皇子が生きておられたら、このようなことを許されただろうか?」
ある老臣が呟く。
「あの方は、何よりも誠實を重んじられた方だ。偽りの手紙など、最も嫌われたはず——」
——彼が、嫌う?
——彼が、このことを知ったら
私は初めて、そのことに気づいた。
彼のためにやったつもりだった。
でも、もし彼が生きていたら——彼は、このやり方を喜んだだろうか?
偽りの手紙で人を動かすことを、彼は——。
その時、もう一人が立ち上がった。
天極閣・月無痕。
「第三皇子妃の行為は、確かに將士たちの心を癒した。それは否定しない」
「しかし——その結果、何が起きたか?」
「將士たちは言うようになった。『殿下は私たちを覚えていた』『殿下は私たちの家族のことまで知っていた』と」
「そして、こうも言うようになった。『なぜ朝廷は、殿下のことを忘れたのか』『なぜ淑妃は、殿下を死なせたのか』『なぜ七皇子は、何もしなかったのか』と」
……
「第三皇子妃の『勵まし』は、結果として
——將士たちの不滿を煽り、朝廷への不信を強めた。
それが、本当に第三皇子の望んだことだったのか?」
——そうか。
——そういうことか。
天極閣の七人を見た。
彼らは、ただ靜かにそこに立っている。
勝ち誇った顔も、嘲笑もない。
ただ——見ているだけだ。
私の失敗、淺はかさを。
將士たちを勵ましたかっただけだ。
でも、その勵ましが——彼らを、より苦しめることになった。
彼のためにやったつもりだった。
でも、その行いが——彼の名を、より傷つけることになった。
「そして、第三皇子妃に、もう一つ質問が」
「何?」
「太后様、諸侯の皆々様。先ほどの第三皇子妃の詩
——實は、ある疑問がございます」
「疑問?」
「はい。この詩——『玲瓏骰子安紅豆,入骨相思知不知』
——これは確かに名詩でございます。
しかし、この詩の作者は、
いったい誰なのでしょう?」
「王妃は、この詩は『無名の隠士』の作だとおっしゃいました。
しかし、私は調べました。この國に、そのような隠士は存在しません。
過去の詩集をすべて調べましたが、
この詩の記録はどこにもない」
ざわめきが広がる。
「つまり?」淑妃が問う。
「この詩は——王妃の自作、あるいは彼女は嘘をついている、ということです」
——違う、これは溫庭筠の詩!唐の詩人だ。この世界には存在しない——
しかし、私は気づく。
この世界の人々は、唐を知らない。
この世界の人々は、溫庭筠を知らない。
私が「無名の隠士」と言っても、それを証明する手段はない。
月無痕が靜かに口を開く。
「第三皇子妃は、非常に聡明な方だ。その才覚には、我々も敬意を払っている。
しかし——この國では、真実が何よりも重い」
「詩が本物でなければ、それは『偽り』だ」
「手紙が本物でなければ、それは『欺瞞』だ」
「たとえその意図がどんなに美しくても
——結果が『偽り』ならば、それは罪となる」
膝が震える、彼が続ける。
「そして、我々は問わねばならない。
なぜ第三皇子妃は、ここまでして『本物』に見せかけようとしたのか?」
「それは——」淑妃が口を挿もうとする。
「それは——三皇子の名を守るためだったのでは?」
月無痕の言葉に、全員が黙り込む。
「三皇子が死に、その名が風化しようとしている。
彼女はそれを防ぎたかった。將士の心を繋ぎ止めたかった。
國の士気を保ちたかった。その一心で、彼女は——」
「彼女は、一人で背負いすぎた。」
目から、涙がこぼれ落ちた。
しかし、月無痕の言葉は終わらない。
「しかし、その行いが、結果的に三皇子の名を危うくしている」
「どういうことだ?」太后が問う。
「もし今日、この場で『第三皇子妃の詩が偽作である』ことが広まれば、人々は問うだろう。
『では、あの手紙も偽物なのか?』
『三皇子は本当に將士を想っていたのか?』
『三皇子の名譽は、すべて偽りなのか?』と」
「彼女の善意が、殿下の名を疑わせることになる」
——私のせいで、彼が……
月無痕の目には、敵意はなかった。
ただ、靜かな——哀しみ。
「第三皇子妃。あなたは、ただ守りたかっただけだ。それは誰もが分かっている」
「しかし、この國では——『真実』でなければ、人は信じない。
『本物』でなければ、人は疑う。『善意の噓』は、いつか必ず、
あなた自身を——そして殿下を——傷つける」
その時、一人の老臣が立ち上がった。
「待たれよ!」
彼は八十歳に近い、太和殿で最も古い大臣だった。
若い頃、先帝に仕え、三皇子が生まれた時も立ち會ったという人物。
「風無痕、お前の言うことはもっともだ。しかし——わしは聞いたぞ」
「何を?」
「王妃が軍營で行ったことを。彼女は三萬の將士の前で、
一人ひとりの名前を呼んだ。彼女は手紙を燃やし、彼らに希望を与えた。
彼女は——彼女は、泣き崩れる將士たちを、一人ひとり立ち上がらせた」
會場が靜まる。
「確かに、あの手紙の內容の一部は創作だったかもしれぬ。
しかし——あの手紙がなかったら、あの將士たちは今頃、どうなっていた?」
「三ヶ月もの間、主將を失い、給與もなく、未來も見えず
——あの者たちは、ただ絶望の中で腐っていただろう」
「それを——」老臣は私を指さし。「この若き未亡人が、
たった一人で立ち上がり、三萬の男たちを勵ましたのだ」
「詩が偽物だと言うなら、それでいい。手紙が創作だと言うなら、それでもいい。しかし——」
「彼女が將士たちに與えた『心』は、本物。
殿下のために流した『涙』は、本物。
それを、『偽り』だと斷じる者がいるなら——」
老臣は月無痕を睨みつけ。
「その者の心こそ、偽りだ」
その言葉に、會場が揺れた。
「そうだ!」
周虎が立ち上がる。
「俺たちは知っている!王妃様が本気で俺たちを思っていることを!
詩が誰の作だろうが構わない!俺たちは感動した!それで十分だ!」
次々と將が聲を上げる。
雲霓が隣で叫ぶ。
「そうだ!姉さんは何も悪くない!姉さんはみんなのために——」
「雲霓」
私が、そっと彼女の手を握った。
「もう、いい」
「姉さん……」
「私は、間違えた。私は、この世界の『真実』の重さを、知らなかった。
前世の常識が通じると思っていた。私は——」
聲が詰まる。
「私は、殿下を、守りたかっただけなのに……」
涙が、一粒、また一粒とこぼれ落ちる。
「本日の件は、これにて終わりとする。」
「しかし、太后様!」
淑妃が口を開きかけるが、太后の一睨みで黙る。
「第三皇子妃が行ったことは、確かに——議論の余地はある。」
彼女は私を見た。
「その心が本物であることは、わらわが保証する。
それは、軍をなだめることはわらわが自ら彼女に与えた課題である。」
「わらわもまた、同じ過ちを犯したことがある。
若き日、夫を守ろうとして——卻って傷つけたことが」
「だからこそ、分かる。そなたの痛みが、
その必死さが……立ちなさい。
今日は——そなたの負けだ」




