軍需官の秘密
兵士たちが徐々に散っていく。周虎が私のそばに立ち、まだ目は赤いが、さっきまでよりはずっと精気を取り戻したように見える。
「王妃様、お疲れでございましょう。お茶を用意させました。天幕でお休みください」
私は頷き、彼について天幕へと歩いた。
天幕の帷をめくると、中はきれいに片付いている。低い机が一つ、數個の蒲団、壁には巨大な地図が掛かっている。
私の目はその地図に釘付けになった。
それは國境地帯の地形図だ。大燕が北に、北戎が南に、いや、待って。
近づいてよく見る。
「北戎が南?」
周虎が歩み寄り、私のそばに立った。
「はい。王妃様はご存じないかもしれませんが、北戎は『北戎国』と申しましても、実は我らが大燕の北西の方角にございます。彼らは草原とゴビ砂漠を佔め、毎年南へ下って略奪を行っております」
彼は地図上の一つの山脈を指さした。
「これが橫嶺で、天然の屏障となっております。橫嶺を越えますと、北戎の放牧地が広がります。そして我らが大燕の雲州、朔州、応州の三州は、この橫嶺の南の平原地帯に築かれております」
地圖を見つめながら、頭の中で情報がぐるぐると迴る。
「この三州は玄関口なの?」
「その通りでございます」周虎の聲が沈む。「三州を失えば、北戎の鉄騎は5日で京城に到達いたします」
ただ5日?
「それじゃあ、今は……」私は言いかけてやめた。
周虎はしばらく黙り込み、それから地図上の一つの區域を指さした。
「三ヶ月前、第三皇子は軍を率いて關所を出ました。本來は北戎の者たちを橫嶺の北へ追い返すつもりでおりました。ところが……」彼の手が止まった。「ところが伏兵に遭いまして。三萬の鎮北軍、死傷者半數以上。第三皇子は……お亡くなりになりました」
彼が指す區域を見た。
そこには三つの文字が記されている。落雁谷。
「北戎側は、誰が率いていたの?」
「阿史那骨篤禄という男でございます。北戎国の『左賢王』、可汗の実の弟でございます」周虎は歯を食いしばった。「この男、狼よりも獰猛でございます。戦では決して正面からはぶつからず、もっぱら伏兵、奇襲、兵糧攻めを用います。去年の冬、奴は部下を率いて橫嶺を迂回し、雲州周辺の三つの城を奇襲しました……」
彼の聲が小さくなる。
「どうしたの?」
周虎が顔を上げ、目がまた赤くなった。
「その三つの城は、老若男女5千餘り、一人殘らず殺されました。男は斬首され、女は……女は……」
彼は言えなくなった。
分かった。
5千餘り。一人殘らず。
「朝廷は何もしなかったの?」
周虎は苦笑した。
「何もしない?何ができましょう?摂政王は三十萬の北境軍を握っておりますが、彼の軍は東北の防衛に当たっており、東胡を警戒しております。摂政王は、北戎は鎮北軍の管轄だ、自分の軍は動かせぬと申しました。淑妃の者たちは、金がない、兵糧がないと言い放つ。七殿下は……七殿下はその頃、まだ太子の座を爭っておられ、國境のことなど顧みる餘裕などございませんでした」
「だから三皇子殿下は自ら行ったの?」
「はい」と周虎は言った。「殿下は仰いました、待てないと。これ以上待てば、次に虐殺されるのは三つの村ではなく、三つの城だと」
私は彼を見て、何も言えなかった。
心の中では、何かに塞がれたような気分だった。
あの男は、三ヶ月前、こうして兵を連れて、死に向かって行ったのだ。
周虎の言葉を聞きながら、私は彼――蕭景瀾という男の背中を思った。
彼は知っていたはずだ。誰も助けてはくれない。
それでも、三千の兵を率いて、死地へと向かった。
「……待てなかったんだな」
これ以上待てば、次に死ぬのは雲州の、朔州の、応州の、名もなき民だから。
「周將軍」
「はい」
「その地図、いただけますか?」
周虎は一瞬間を置いて、それから言った。「もちろん。これは元々、殿下のものでございます」
彼は地図を外し、巻いて、両手で私に差し出した。
地圖を受け取る。ずっしりと重い。
ただの紙の重さじゃない。
あの男の心の重さだ。
「王妃様……」
「うん?」
周虎は私を見て、言いたげに口を開きかけては閉じた。
最後に「この周虎、無骨な者で、うまく言葉にできません。でも言いたいのです、殿下は、お人を間違えませんでした」
彼は私を見つめた。
「あなた様は本当に、殿下のことを自分のこととしてお考えだ。この周虎、三萬の兄弟を代表して、お禮を申し上げます」
彼は片膝をつき、拳を抱えた。
「この周虎、無骨な者で――」
彼はそこで言葉を切った。
そして、ひざまずいた。
「お禮を申し上げます」
私は、彼を起こさなかった。
このひざまずきが、私に向けられたものではないと、知っていたから。
あの棺桶に橫たわる男、5千餘りの無実の民、國境でまだ待つ者たちに。
「周將軍、お立ちなさい」
彼は立ち上がった。
地圖を見て、
「一つお願いがあるの」
「王妃様、なんなりと」
「落雁谷の位置を書き込んでほしいの。それと、あの三つの城の位置も。それから北戎の兵力配置を、そなたが知っている限りでいいから、全部書き込んで」
「王妃様、それは……」
顔を上げて、天幕の外の空を見た。
「私たちが直面しているものが何か、知っておかないといけないから」
「その上で、彼らに償わせるのよ」
周虎の目が輝いた。
「承知いたしました!」
彼が去った後、私は本棚を調べ始めた。
本をめくるのではなく、隠し棚や秘密の區畫がないかを探すのだ。
前世で見た大河ドラマや中國古代ドラマでは、重要な人物は必ず住む場所に何かを隠しているものだ。
しばらく探したが、何も見つからない。
諦めかけたその時、外から突然聲がした。
「王妃様」
振り返ると、六十歳ほどの老人が立っている。軍需官の袍をまとい、背中が曲がり、手には帳簿を一冊抱えている。
「そなたは?」
「老いぼれは鄭と申します。鎮北軍の軍需官を務めております」彼は中に入ってきて、私を見た。「王妃様の先ほどのお言葉、老いぼれ、聞かせていただきました」
私は彼を見て、続きを待った。
彼は本棚の前に行き、一番上から一冊の本を抜き出して、私に差し出した。
「王妃様、これをお目通しください」
受け取って、開いた。
中に一枚の紙切れが挿んであった。
紙切れには、一行の文字が書かれている。
「もし私のために成し遂げられぬことを成し遂げてくれる者が現れたなら、その者が焼いた手紙は、必ず本物である。便箋の折り方は、私が獨自に考案したものだからだ」
下を向いて、手にした便箋を見る、さっき焼いたあの手紙だ。私は適当に折った。あの日本でよくある「メモ折り」、両側から半分に折って、さらに半分に折るやつ。
これが第三皇子の獨自の折り方?
老人は私を見て、言った。「殿下は生前、こう仰っていました。もし自分に何かあれば、代わりに來る者が現れると。老いぼれはずっと待っておりました。今日、ついにその日に巡り合えました」
彼は私を見て、言葉を失った。
老人は続ける。「王妃様が先ほど焼かれた手紙、老いぼれ、見ておりました。あの折り方、確かに殿下のものでございます。この世に、あのように折れる者は他におりますまい」
私は下を向いて、手にした紙切れを見た。
胸の中に、不思議な感覚が湧き上がる。
適当に折っただけなのに、偶然彼の癖と一致した?
偶然?それとも……
首を振って、その考えを押しやった。
「鄭翁、他に私に伝えることはありますか?」
老人は頷き、懷から小さな冊子を取り出して、私に差し出した。
「これは殿下が生前に調べさせたものです。あの方は仰いました、いずれ必要になるだろうと」
冊子を開く。
中にはびっしりと名前が書き連ねてある。
王二狗、并州の人。母王氏、腳の古い病あり、年中膏薬を貼る必要あり。
李三娃、幽州の人。妻劉氏、妊娠七ヶ月、家は貧しく寒し。
趙鉄柱、冀州の人。妹趙小娥、十六歳、嫁ぐのを待つ。
孫大牛、青州の人。父孫老憨、咳の病、多年にわたる。
……
指が、一ページ、また一ページと、なぞっていく。
王二狗の母のこと、李三娃の妊娠した妻のこと......彼が、一人ひとりの肩に手を置いて、「大丈夫だ」と語りかけているかのようだった。
三ヶ月前。彼は、自分が死ぬことを知っていたのか。
そして、自分が死んだ後に、誰かがこの兵士たちの面倒を見ることを、願っていたのか。
どうしてその者が私だと分かった?
どうして私が來ると分かった?
「鄭翁、ありがとうございます」
「老いぼれはただ命を奉じたまで。王妃様、殿下も天にあって、お喜びになりましょう」
私は頷いた。何も言わなかった。
心の中では考えていた、
天にあって?そうとは限らない。
もしかしたら、彼は全然死んでいないのかもしれない。
もしかしたら、このすべてが、彼の背後からの操縦なのかもしれない。
軍營を出た時には、もうすぐ日が暮れようとしていた。
周虎が自ら私を送り出してくれた。道すがら、何度も口を開きかけては閉じている。
ついに、彼は堪えきれなくなった。
「王妃様、一つお尋ねしたいことが……」
「どうぞ」
「あの……」彼は頭をかいた。気まずそうな顔で。「あの王二狗の母の件で……何人かに聞いてみたんですが……どうも皆、知らないようで……」
私は彼を見て、急に笑いたくなった。
「私が作りました」
「つ、作り話?」
「ええ」と「王二狗の母が本当に腳が悪いかどうか、私には分からない。でも兵士たちに、殿下が彼らを覚えていると信じさせたかった。だから作ったの」
周虎は口を開けたり閉じたりした。しばらく何も言えず、きっと私を責めるだろう。しかし彼は懐から一つの財布を取り出し、私に押し込んだ。
「これは……」
「膏薬代でございます」と「本物か偽物かは別として、末將が出します」
「これは受け取れません……」
「受け取ってください!」彼は譲らない。「この周虎、殿下には借りがある。女房も、息子の名前も——。王妃様、これで一つ、チャラにしてください!」
彼を見ていると、この無骨な男が急にちょっと可愛く思えてきた。
「いいわ」財布を受け取った。「彼の代わりに受け取るわ」
「私も出す!」
私はびっくりして振り返った、
雲霓がいつの間にか現れていて、私の後ろに立ち、さらに大きな財布を掲げている。
「……なんでここにいるの?」
「ずっといたんだよ!三兄が私にお前を守れって言ったから!」雲霓は当然のように言った。
私は彼女を見て、言葉を失った。
彼女は遠くの地面を指さし。
「さっき誰かがお前に矢を射ようとしたんだ。私が処理しといた」
彼女の指す方を見た。
遠くの地面に、一本の矢が突き刺さっている。
矢のそばに、一人の黒裝束の男が橫たわっていて、びくりとも動かない。
「それは……」
「刺客だよ。天極閣の奴。私が気絶させといた。お前が帰ってから尋問しなよ」
地面のあの男を見て、また雲霓を見た。
彼女の槍の穂先には、まだ拭いきれていない血がついている。
「いつ……手を出したの?」
「お前が手紙を焼いてる時だよ」と雲霓は言った。「あの時、みんなの注意がお前に向いてて、そいつは紛れに紛れて矢を射ようとしたんだ。私が一発お見舞いしといた」
彼女を見て、急に何と言っていいか分からなくなった。
この娘は、朝からずっとついてきていたのだ。ずっと暗闇で私を守っていた。
私はまったく気づかなかった。
「雲霓……」
「きもいこと言うなよ。三兄が私に守れって言ったから、守っただけ、それだけ。」
彼女は財布を私に押し込み、振り返らずに行こうとした。
「そうだ、そいつを尋問し終わったら教えろよ。もし私が知らない情報があったら、共有しろよな!」
そして彼女は馬に飛び乗り、走り去った。
私はその場に立ち、彼女の背中を見つめながら、思わず口元が緩んだ。
この子、本当に可愛い。
周虎が近づいてきて、小さな聲で尋ねた。
「王妃様、まさかあの方は……雲霓郡主様では?」
「ええ」
「あの方は……王妃様のことがお好きなようで」
「そう見える?」
「あの方の王妃様を見る目、殿下を見る目と一緒でございました」
あの人を見る目?どんな目?私は尋ねなかった。でも心の隅っこが、少し溫かくなった。




