人にためになる話をする時に、自分の若い時のことを思い出しながら話してはダメです。棚上げ、棚上げするのです。
帰社直前、事務所の扉の前で、一息を整える。
最初に言われたときには、なんでこんな無駄なことをするのだろうと思っていたものだが、今では、どんな精神状態でいたとしても、この間ひとつによって次向かう場に相応しい態度を取れるようにと気分を切り替えることができる。実際に取れているか、自分でもわからない時はあるので、主に気構えの問題ではあろうが。
今日のような何をどう話すか迷う話題の時には、特に有効に活用しているこの教えも、この事業所で教わったのだなと、扉に貼られた自分の名刺と同じマークを見て思いながら、ノブに手をかける。
「お疲れさまです。ただいま戻りました」
「お疲れさまです。石山さん、所長がお待ちですよ。話があるだろうからって」
事務所の中に挨拶をすると、ただ一人事務スペースに座っていた荒田が石山を笑顔で迎える。
「そうですか」
これもまたこの事業所に入って教わったことであるが、事務所に入った際の挨拶はどんなに気持ちが沈んでいたとしても、笑顔で行う。
外回りでどんな思いをしてきたにしても、中の人間にしてみれば、理由のわからない不機嫌を持ち込まれても、職場の空気が悪くなるだけ。
それによって、不機嫌を持ち込んだ人間だけでなく、持ち込まれた側の作業効率まで落ちる。
ここまで伝えられた際には、前職のことを思い出しなるほどと思ったものだったが、続く言葉はひどいものだった。
なにより、私がいらだつ。
なので私以外がそんなことをしたら、とりあえず殴る。
愚痴りたいなら、挨拶をした後に愚痴ってもいいか断ってからやれ。
断られたら、悶々としててもあきらめろ。
断られたのに愚痴るようだったら、これもまたとりあえず殴る。
いいな。
実際に殴られたことこそないものの、それに近い精神的苦痛を受ける説教により刻まれた習慣によってつくられた笑顔をそのまま苦笑の形に変え、石山は頭を掻く。荒田は、その様子に笑みを消さぬまま、所長が待つ理由も告げる。
「ええ。きっと猫田さんを連れて帰ってこないだろうから、そのまま私のところに報告に来るようにって」
「どうやったら、そこまでわかるんですかね。相変わらず」
「まあ、所長は千里眼の持ち主だということで」
荒田がにこにこと言った言葉に、それは冗談なのか、それとも本当にそんな力をお持ちなのかを聞いてみたい気にもなったが、真実であった場合に、目だけなのかどうかの疑心暗鬼に陥ることは間違いないだろうと、石山は苦笑を更に濃くして、まずは自分の机にカバンを置きに向かう。
千里眼よりも地獄耳のほうが、字面からして似合いすぎて、前者があるなら後者がないわけがないだろう。と、自然に確信してしまうのを、忘れようと心で繰り返す。
正直言って、一般的には眉唾とされることを実際に仕事にしているのだ。自分以外の社員に人間以外が混ざっていても、恐ろしいことではあるが、納得してしまえる気がする。
そこでふと、そういえば、事務員の荒田も自分が入社する前からいるスタッフだが、見た目が10年前から全く変わっていないような気もする。
とまで思ったところで、
「石山さん、女性の年齢の詮索は」
「してません。そんなことはしてません」
声色だけは朗らかだが、なにか奥底に冷たいものしか感じない荒田に、必死で無実を訴える石山。
迫力のある笑顔、石山にはそうとしか形容のできない表情の荒田は、その様子を見て、いたずらをした子供が反省しているのを見て、思わず吹き出してし、その雰囲気を和らげる。
「そうですか。それなら所長がお待ちですよ」
「そうですよね。行ってきます」
答えて石山は所長室と書かれた部屋へと向かい報告を行った。
ただでさえ、女性が多数の職場なのだ。余計なことは考えない、口にしない。と、再度心に言い聞かせながら。
報告を受けた鬼塚はあっさりとしたものだった。
「そうか。そのあたりのことは、一応心にとめておこう」
石山としても、この報告ですぐに鬼塚が動くとは思っておらず、猫田の前で伝えることを避けたほうがいいだろうとの判断で早く帰ってきた程度のため、報告を終えたことで一息をつく。もっとも、どこかで自分が感じた危うさに、所長がどのような反応を示すだろうか、危惧か怒りかそれとも、呆れだろうか、ぐらいの思いは抱いていたため、この反応には肩透かしのような思いは抱く。
「ただな。石山」
が、用を終えたと所長室を出ようとした石山を鬼塚が呼び止める。
その声色に、何か言い含めることがあるのかと顔を向けると、鬼塚は何が面白いのか口に笑みを浮かべながら、
「お前、猫田にどう言って仕事を任せてきた?」
と、試すような、それでいてからかうような、そして、答えがわかっているような質問を投げてきた。
「どう言って、ですか?」
質問の意図を読めない石山に対して、鬼塚は笑みを浮かべたままただうなずく。
「スケッチブックを落とし主に返しておいてほしいと、ただそれだけを伝えました。何かまずかったですか?」
「ああ、石山、勘違いしないで欲しい。私は何も責めているわけではない。上司の先輩として忠告をしたいだけだ」
普段の鬼塚も、とてもわかりやすく話しをするタイプではないが、それでも話の意図が読めない事は滅多にない。どうして今日に限ってこのような話し方をするのだろうと、むしろそちらの方が気になって、更に考えがまとまらない石山に対し、鬼塚は声を上げて笑い出す。
「石山、猫田のことはともかくとして、まず今回の要支援者に関わっている2人について考えて欲しい。まず、万年筆の青年の方だ」
鬼塚は人差し指を立てる。
「彼は、君達が要支援者宅に出向いた時点で、自分がそれを落としたことにまだ気がついていないようだった。そのため、そっと庭先の机に万年筆を返してきたのだったな?」
「はい」
石山が鬼塚の真意をくみ取れないまま、頷く。
「これについては、私もそれでかまわないと考える。」
言葉を区切って考えてみろとばかりに立てた人差し指を動かす鬼塚から視線を外し、石山は思考する。
であるならば、もう1人、元教え子の彼女にスケッチブックを返そうとすることに何か問題があるのだろうか。
まず、瘴気の纏わり具合などから、彼女があれに執着してしないとは考えづらい。
瘴気を清掃されているかどうかは、すでにその物品に執着している人間には関係ない。物品とその人間に何か特別なつながりがあったりするわけではなく、あくまでも瘴気をまとっている物に触れているとそれに執着しやすいだけなのだから。
そのため、手元にないことに気づけば、それを探しに来ないとは考えづらく、浄化を行えば、これ以上の執着を招くことはなく、むしろ早めに返すのは流れとしておかしくないはずだ。
では、何がまずい? とまで頭を回したところで、鬼塚からヒントがでてくる。
「もちろん、スケッチブックの彼女に関しても、スケッチブックの浄化が終わっている以上、物品の返却は可及的速やかに行われるべきだと私も思う。そして、執着物を彼女がどれだけ探しているかわからない以上、拾った後に再度落とし主がいないかを探しに来た第三者から返却が行われることの方が、ベンチの上に置いてくるなどするよりは、流れとして不自然ではないとは思う」
そこで鬼塚は石山を見るが、その表情は話を真剣に聞くそれであり、話し手の意図に気づいた様子はない。
「石山、今回私が言わんとしていることに気づいていないことを私は責めない。だが、事実は事実として指摘しなければいけない。この話はそう言う類いのものだ。しっかりとおぼえておいてほしい」
鬼塚はここで1つ区切って石山が頷くのを待つ。
そして、再び口を開いた。
「スケッチブックには瘴気がついていたな?」
「はい」
「と言うことはその持ち主は、スケッチブックに執着を抱いているな?」
「はい。恐らく」
「で、それだけ大きなものが落としたはずの場所に見つからない。お前ならどうする?」
「自分はそこまで物に執着することはありませんが、それでも見つかるまで探すだろうとは思います」
先ほどの思考を、何故最初から口にして再確認を行うのか、そう疑問には思いながらも石山は答えを返していく。
「瘴気に侵されるほどではないが、執着している人間だ。周りの目も気にせずに探し回り、時間がたてば疲れて憔悴しても尚、探しているだろうな」
「はい」
「そこで猫田だ。まあ、この際猫田ではなくてもいいのだが、そんな状態の人間に、この業界に入ってくるような物好きな新人が、ただ物を返すだけで帰れると思うか?」
まだ状況がわかっていない以上、深く関わるのは厳に慎むべきだ。自分ならそう判断するだろうが、それを無意識に猫田に求めていたことを指摘され、思わず額に手をやり天を仰ぐ。
「大丈夫ですか? ぐらいは聞きますね。普通なら」
「そこで、そういう風に自分と他を違うものと考えられるのは、正しく君の善い点だ。ミスと言うほどの物ではないが、そういった状況を想定していなかったのだったら、これから先に困ることもあるだろう。」
石山の表情が理解に移ったのを見て、満足そうに頷く鬼塚。
「上司の先輩としての忠告だ。人に物を頼むときにはこういったことも考えられるといいぞ」
「ああはい。わかりました。猫田君からどのように返却をしたのか、話を聞いて、次に備えます」
何にしても、現時点ではそう言うこともあるかもしれないという話だ。
鬼塚がわざわざ指摘する以上は、まず間違いなく経験談としてか、猫田を見ての推測であるかはわからないが、可能性が高く起こりえることではあるのだろう。何にしても、そのときに、猫田が何をどう感じて、どのように対象とどんな話をしたのか、しっかりと聞いて判断する必要がある。
「そうだな。それで頼む。ああそれとな猫田には」
「注意はしません。あくまでも自分の指示が不十分だから起きたことですから」
鬼塚の意図を組んで発したつもりの言葉だったが、笑って否定される。
「違うよ。たとえどういう流れであったのだとしても、頼んだことをしてきてくれたんだ。ありがとうの一言忘れるなよ。良い上司になるための大事な一言だ」
そういう目の前の上司からその言葉をかけられた記憶があまりない気はしたが、素直に頭を下げ石山は所長室を後にした。
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