様々な成功体験からわかってきた新常識は、ベテランのつもりの自分をひどく打ちのめすことがある。
石山たちは、スケッチブックと万年筆を持ち、公衆トイレの浄化作業に使った用具の乗ったカートを押しながら、この公園まで乗ってきた大きなワゴン車にと戻ってきた。
石山はスケッチブックを持った猫田をそのまま待たせ、キャンプ用品として売られているような折り畳みのできる机と、簡易シャワーを車の中から取り出してきた。この間、万年筆は左手に保持して、右手だけで器用に折り畳みの机を展開したりもしている。
「猫田さん、とりあえずそのスケッチブックはここに置いて、手に移っちゃった穢れを落としちゃいましょうか」
自分はしっかりと薄いビニール手袋をつけて万年筆を持っている石山は、展開した机の上にそれを置く。そして慣れた手つきで、両手の指を絡め合わせ、他の部分には触れないように、そして、両方が逆さまになるようにして手袋を外す。そのうえで穢れ汚損専用と書かれたゴミ箱の中に、静かに入れる。もちろん箱にはゴミ袋があらかじめセットしてある。
「ちょっ。石山さん、自分だけ汚染防止してたとかひでぇっす」
「波多野さんが注意してくださってましたし、外道照身灯であの2人のまわりに穢れが漂ってるの見えたじゃないですか」
石山は、腰につけたスイッチを入れると青い光を放つ懐中電灯、穢れなどを照らし出す外道照身灯を外して、まず万年筆を照らす。
そうすると、机の上に置かれた万年筆には、相変わらず青黒い靄が取り巻いている。
次に、猫田の持つスケッチブックが照らされると、万年筆に光を向けた時と同じように、スケッチブックとそれを持つ自分の手にも青黒い靄が、うっすらとではあるがまとわりついているのが見えた。
それを見せつけられて、猫田は自分のミスを責められているのだと感じた。
むしろ、猫田の常識からすれば、このように静かに自分のしでかしたことを指摘されるなど、責められているうちには入らない。今は、研修の身であるとはいえ、石山のもとで指示を受けて動く必要があるというのに、チームとして動けなくなるようなミスは決して許されるものではない。
なぜなら穢れを負ってしまった以上、彷徨い人やその関係者にそのまま接するわけにはいかない。穢れとは、よほど濃密なものでなければ、生きている人間にすぐさま何か害を及ぼすようなものではないが、彷徨い人にとっては、その存在自体を揺るがすような事態を及ぼしかねないものだからだ。
そして、穢れを落とすためには、一般的に少なくない時間が必要とされている。
それは、チームに迷惑をかけることである。だから、穢れに触れるのだけは避けるようにかなり強く教育されてきた。それなのに自分はミスをした。
今は落ち着いた姿を見せて対応してくれている石山であるが、あの課長や班長のようにいつ怒鳴りだしてもおかしくない。そして、それを自分は甘んじて受け入れなければいけいない。
そんな風に考えながら、いつ怒られるかわからない緊張から身を固くし、とりあえず、スケッチブックのほうは言われたままに机の上に置く。
そこでふと、万年筆が置かれた状態で外道照身灯に照らされたにも関わらず、この机には穢れがまとわりついてなかったことに気づく。
が、そんな疑問は次の石山の行動で儚くも霧散する。
「さ。スケッチブックの浄化は後回しにして、まずは手に移ってしまった穢れを落としてしまいましょう」
反省と、若干の怯えを抱いていた猫田に気づいているのかいないのか、むしろ、気づいていたら絶対にありえないほど気楽な様子で、車から取り出してきた簡易シャワーに、同じく車から取り出してきたミネラルウォーターのペットボトルから水を注ぐ姿がそこにはあった。
「あの。石山さん、迷惑かけて本当にすみませんっす」
「ああ。不用意にスケッチブックに触ったことですか。次からは気を付けてくださいね。さ、さっさと洗い流しちゃいましょ」
タンク内に空気を加圧して水を押し出す仕組みなのか、自転車の空気入れのようになっているふたを取り付け、ガシャガシャと上下に動かしながら、石山がやんわりと注意する。
「いや、あの、水では穢れは落ちないんじゃ」
怒り出す雰囲気こそないものの、これは何かの罰を受けることになるのだろうか、それとも本気で穢れを落とすなどと言っているのだろうか。石山の出方が想定の範囲外のため、若干身を引きながら猫田が質問する。
「水だけじゃないですよ。はい。薬用せっけん」
今度は、ポンプ式の泡で出てくる薬用せっけんのボトルを取り出して、猫田に手を出すように言う。どう見ても、市販品、その辺のスーパーで売っているもの、一応除菌をうたっているもののようではあるが、これを使ってどうしようというのだろうか。
「ほら、早く手を出して」
「いや、あの、穢れっすよ。はやいとこ、どっかの法人さんでお祓いみたいなことしてもらわないと」
「ごちゃごちゃ言わないで、とりあえず手を出してください」
穢れとばい菌を同一視しているかのような発言に、猫田がそれは無理だと断ろうとするが、石山はわがままを言っているかのような対応で、さっさと手を出すように促す。
渋々と猫田が手を出すと、そこに2回ほどポンプして泡状のせっけんを落とす。
「はい。手首とか手の間とか、指とか爪の先とかも手のひらでよくこすってくださいね」
そのまま、冬の感染症予防のための正しい手洗いの方法を言われるままに行った後、簡易シャワーからの水を受ける。少し歩けば水道もあるというのに、なぜわざわざ簡易シャワーなどを使うのかも疑問ではあるが、これについては水道の栓を触って穢れを残すのを避けるためであろうと納得できたため、質問まではしない。
「よし、ちゃんと洗い残しはないみたいですね」
しかし、そんな納得いかない作業であったにもかかわらず、再び青い光で手を照らされると、わずかな量とはいえ手にまとわりついていた穢れが、薬用せっけんの泡と一緒に、きれいに水で洗い流されてしまっていた。
「どんな手品っすか。これ」
「手品とは失礼ですね。ちゃんと感染症予防に効果ありと、薬用の認定を受けた液状せっけん泡タイプと、混じり物なし、霊峰富士の湧き水を現地工場でペットボトル詰めしたミネラルウォーターです。ちょっとした穢れぐらい、落ちないわけがないでしょう」
「すんません。穢れが落ちたのに、こんな風に言うのもなんでっすが、石山さん、あなた正気っすか」
いくら自分がもの知らずであるとはいえ、排除課においても穢れから身を守る方法と、穢れを負ってしまったときにどう対応するべきかは嫌というほど研修を受けてきた。
確かに、露出した肌で直接触れないようにビニール手袋等を利用することは自分たちもしていたが、それでも穢れを負ってしまったときには、関連施設にてお祓いを受けていた。
お祓いと一言で言ってはいるが、こればかりはどの程度の穢れを負ったかによって受ける時間も変わり、ひどい例では数か月、今日のような軽微な案件であっても一晩ぐらいはかかるというのが、猫田の常識であった。
「ひどい言われようですが、さっきのトイレと一緒ですよ。穢れは汚れと同じです。放っておくとこびりついて、こすってもなかなか落ちなくなってしまいますが、すぐに対応すると簡単に落ちるもんなんですよ。言い方が気に食わなければ、インフルエンザ菌が電車の手すりとかを媒介して手に移ったとしても、不用意に顔を触らずにしっかりと手洗いすれば、感染をかなりの確率で予防できるのと同じですよ」
「ダメっす。はっきりと落ちているのが目に見えているのに、言われてることが胡散臭すぎて、まったく頭に入ってこないっす」
「水だって、日本最高の霊峰、富士山の湧き水ですからね」
「手で組んできたとかならともかく、工場でペットボトルに詰めたとかいってたじゃないっすか。ありがたみとか欠片も感じないっす」
「それじゃあ、薬用せっけんに限らず、せっけんて、目に見えないものをきれいにするってイメージがあるじゃないですか。そのイメージを利用して、簡易的な禊を行ったような効果があるんですよとかどうです?」
「疑問形なうえに、禊持ち出すとか、冬の寒いさなかに滝行とか水垢離とかしてる神職者に、土下座して謝るっす」
「そんな固いこと言わないでください。ちゃんと落ちてるんだからいいじゃないですか」
「それがおかしいって言ってるんでっすよ!!」
「若いのに頭が固いですねー」
「私っすか。私が悪いって言うんっすか!?」
折角説明したというのに、全く信じようとしない姿に、困ったものだと肩をすくめる石山と、心外なのは自分だと声を上げるが、全く取り合ってもらえない猫田。この場合、悪いのはいったいどちらなのであろうか。
「まあいいです。万年筆とスケッチブックの浄化作業しちゃいますよ」
石山は、新しいビニール手袋に手を通すと、スケッチブックと万年筆をそれぞれ別にラップでぐるぐる巻きにしていく。さすがにこれは市販の家庭用ラップではないが、ホームセンターなどで細長い品物を大量に購入した際に使っているような、棒の先に手で切れるラップが巻き付けられているものである。
「石山さん、今度はなにやってるんっすか?」
これまた、自分たちの常識ではありえない行動に猫田が頭痛を感じながら質問する。
「これですか? もちろん、浄化作業ですよ」
石山は、次の作業でスケッチブックや万年筆が汚れてしまわないように、ラップの巻かれ方をしっかりと確認していく。
次に、黒いビニール袋に2つの物品を入れ、今度はその中にスプレー缶で何かを吹き込んで軽く膨らませ、口をしっかり縛るだけでなく、同じく黒く塗られた段ボール箱の中に入れてふたを閉めたうえで、折り畳み机の上に置いた。
「よし。これで後はしばらく待つだけです」
「今度こそ、正気の沙汰っすか!?」
いよいよ石山のやっていることに理解が追い付かなくなって猫田が叫ぶ。
幸いというか、駐車場の周りには人気はなく、その叫びに視線を向けてくる人はいないが、突然の叫び声に石山が不思議なものを見る目を向ける。
「穢れを負った物品はどんなものでも焼却処分てのが、業界の常識ってもんっすよね?」
「やだなぁ。再利用できないほどに朽ちちゃったものとかならともかく、人が大事にしてるものを故意に傷つけるようなことはできないですよ。見た目はあれですけど、ちゃんと浄化できるんですよ。これ」
「真夏に黒いごみ袋に入れた布団を車内に放置しておくと、布団がいい感じの温度になってダニ退治されるみたいなライフハック的穢れの浄化方法とかありえないっす」
「あ、これ、正にそのライフハックからの着想だそうです。ちなみにこの箱と袋、よくわかんないけど可視外の紫外線だけは透過するらしいですよ」
「まさかの正解とかひいても、欠片もうれしくないっす!! しかも、穢れって紫外線に弱かったんすか!? さっきの除菌用ハンドソープといい、ばい菌扱いでっすか!?」
「まあ、古式ゆかしき浄化方法が悪いっていうんじゃなくて、ものによってはこういったものが代用できるってぐらいのことですから、そんなに気分を害する必要はないですよ」
再びビニール手袋を焼却用ごみ袋に放り込みながら石山が言う。もちろん、手袋も浄化しようと思えば同じ方法がとれるのだが、こちらのほうはビニール手袋を使い捨てにするのと、そのほかの消耗品を使用して再利用するのとでは、前者のほうが格段にお得だからである。
「さて、穢れが出たのを確認した以上、初期対応の義務が発生したところですし、あの2人について、波多野さんにお聞きしないといけないですね」
石山はそんなことを言いながら、先ほど波多野氏に提示したのとは違う様式の書類を取り出し、記録を始める。時間、場所、概要などと書かれた書類に、言い争っていた男女のこと、落としていったスケッチブックと万年筆から穢れが照らし出されたため、浄化措置をとったことなどを記入していく。
「初期対応の義務とかも初耳っすけど、それよりなにより波多野さん何者っすか。聞いたらわかるんっすか」
「わかりますよ。波多野さんですし」
あまりのツッコミどころの多さに、情報処理の限界を迎えた猫田ではあるが、何とか一番の疑問点だけは口にすることに成功する。
が、返ってきた答えに、もはや大きなため息をつくことしかできなかった。
そして悟った。
今までの自分の常識を捨てないと、勉強になる前に、自分の正気が持たないと。




