描きたくても描けないのは何故かと自問自答する彼女は。
女性が、公園のベンチでスケッチブックを開いていた。
そこに描かれているのは、水彩絵の具で描かれた暗い水の中の風景。
いくつもページをめくっても、光などささないそこは、海の中なのか、川の中なのか、湖の中なのかもわからない。
そこには、登場人物もいた。
湖の中で泣いているみすぼらしい恰好をした少女。そして、それをつまらなそうに見つめる少年。
少年が無表情に何か口を開いているが、手で顔を覆っている少女は、変わらずにただ泣いている。
開いていた口は、何かを話しかけていたのだろうか、少年は全く反応しない少女に対して、それでも無表情のままそばにいる。
「やっぱりここまでしか書けなかった」
結末は決まっている。最初だって決まっている。
それなのに、どうしても最初と最後をつなぐ絵が描けない。
なんどお話を書いてもそう。それなのに、あんな約束をした。
頑張れば描けると思っていた。今まで以上に頑張れば、やれると思っていた。
なのに、また描けなかった。
そんな自分が嫌でたまらないのに、それでもこんな終わらせることもできなかった物語を、先生に見せに行こうとしている。
わかっている。先生は約束を守れなかったことを責めたりしない。元々約束と言ったって、自分が一方的にしたことで、先生は無理はしないでいいと言ってくれただけだ。
出来ても出来ていなくてもまた来なさい。
そんな優しい言葉に甘えて、また先生に会いに行く自分は、本当に恰好が悪い。
何度か繰り返した自己嫌悪を、同じ公園の同じベンチでした後に、女性はそっとスケッチブックを閉じた。
「行かなきゃ。約束の時間だし」
足取りはいつものように重く、でもいくつかの期待を抱いている心に、またひとつ嫌悪を抱きながら、歩を進める。
野球場やサッカーグラウンド、テニスコートに子供用の遊具まであるのに、しっかりと手入れされた樹木の生い茂る公園の中、他の利用者は皆とても楽しそうに過ごしている。
中でも、公衆トイレの清掃をしている女性の活き活きとした姿は、今の鬱屈とした心でも、本当に楽しそうだなと、思わず気分が軽くなるのを感じるほどだ。
そして、すぐに自分に嫌気がさして落ち込む。自分だって、あの人と同じように好きなことをしているだけなのに、なぜ楽しくできないのだろうかと。
実際に、トイレ掃除をしている彼女が、トイレ掃除が好きで楽しくてたまらなくて活き活きしているかはわからないのだが、そんな風に思い込んで自分をさげすむ材料とする。
そんな風な彼女が足を止めたのは、自分の進行方向に1人の青年が立っていたからだ。
大きな公園だけあって、人はそれなりに歩いている。ここを通るたびに誰かとすれ違うのはよくあることだ。でも、その青年は、彼女の進行方向を塞ぐようにして立ち、そして、眉間にしわを寄せながら、彼女の持つスケッチブック、靴のほう、そして顔を何度も視線を往復させている。
そんな風に険しい顔をしている青年に道を塞がれながら、彼女は、誰かに似ていると、そんな風にぼんやり考えていた。普通に進行方向を塞がれただけならば、この人は自分に何の用だろうかとか、何か自分を害そうとしているのではないかと考えるところだが、そうではなく、青年の顔に誰かの面影を見て、そちらのほうに思考が向いてしまった。
「安藤美由紀さんですね」
「え?」
安藤美由紀。確かに自分の名前だ。
それは間違いないが、誰かに似ている印象を受けたとはいえ、おそらく自分と同じ年ぐらいの青年が自分の名前を知っている理由がわからず、思わず聞き返す。小中高と通っていた学校があるのは、この近くの駅から電車3つ行った先なので、クラスの人間と会うこともありそうだが、目の前の青年に似た同級生はいなかったように感じる。
「私立千ノ葉高等学校卒業生の安藤美由紀さんで、間違いないですか?」
「あ、は、はい」
「僕は、あなたが3年生の時に担任だった桜井の息子、智彦と言います」
自己紹介を受けて、誰の面影があるのかがはっきりとわかる。確かに彼は、今から会いに行く約束をしている先生に似ている。
青年が眉間にしわを寄せて自分に話しかけてきたことへの疑問はなく、先生の息子であるというだけで、勝手に好感度を上げて思わず笑顔になる。
「あなたが、桜井先生の自慢の息子さん。私たちと同じ年なんですよね」
自慢と言っても、先生がわざわざ授業中に息子の話をしたわけではない。職員室や国語科の部屋に訪ねて行ったときに机の上に置いてあったメッセージカードや、父の日のプレゼントにもらったらしい真新しい文房具に気づいたときに、とても嬉しそうに息子からのものだと話してくれたのを覚えていたのである。あの先生があんな風に大事そうに語る息子さんが、悪い人の訳がない。
しかし、そんな思いは次の一言で打ち砕かれた。
「すみませんが、あなたと仲良くお話ししに来たわけではありません」
首を横に振りながら、それでも美由紀の瞳に視線を据えたまま、智彦と名乗った青年はきっぱりとそう口にした。
「安藤美由紀さん、あなたにもう僕の家に来て欲しくない。僕は、それを伝えにここまで来ました」
「え」
言われた言葉に、美由紀の表情がこわばる。
その表情を見て、智彦はぎゅっと目をつぶった後、もう一度美由紀の目を見て口を開く。
「もう一度言います。もう僕の家に来ないでください。理由は僕が来てほしくないからです」
「な、なんで」
ようやく絞り出したのは、それだけだった。
目の前が真っ暗になって、見えるのは自分を拒絶した智彦の顔だけ。
先生に似ているのに、先生が絶対言わない言葉を言ったその顔だけ。
「あなたみたいな若い人が、家を頻繁に訪ねてくると悪いうわさがたちます。だから、もう来ないでください」
嘘だと言ってほしかった。
先生に似たその顔で、困ったような表情をしながら、それでもはっきりと自分を拒絶する言葉を紡ぐ智彦に、頭が真っ白になる。
「や、やだ」
「嫌でも、なんでもかまいません。もう僕を困らせないでください」
「やだ。やだ」
言いたいことはたくさんある。でも、混乱して何一つうまく言葉にできない。
ただ、そんなことは聞けない。どうしても聞けない。その思いだけで、やだの言葉だけが何度も口をつく。
「そんな顔をしないで下さい。そんな風に駄々をこねないでください。僕だって、あなたに好きでこんなこと言ってるわけじゃない」
ひどく傷ついた様子の美由紀に、智彦も顔をゆがめて声を荒げる。
「やだ。絶対にやだ」
「どうして、どうしてあなたは」
納得しない美由紀の様子に憤りを感じたのか、智彦がいらだちに任せて言葉を発する。
「どうして父さんと話しているんだ!!」
「先生は私の恩師です!! なんで話しちゃいけないんですか!!」
ようやく美由紀の口から言葉が飛び出す。自分の恩師に話に行くことの何が悪いというのか、先生にだって許しを得ているのに、違う人間が出てきて否定されたからなんで先生の家に行ってはいけないと言うのか。
目に涙を浮かべながらも、美由紀が必死に智彦をにらむ。
説明されたからって納得なんかしないけど、それでも、そんなひどいことを言った理由を話してもらえなければ納得が出来ない。しかし、その怒りの視線の先で、智彦は手で口を覆っていた。
「なんで、なんでそんなひどいことを言うんですか。なんで、なんで先生と話しちゃいけないんですか!」
「違う。そんなつもりじゃなかった。そうじゃないんだ」
決意の表情から一転、苦しそうに、辛そうに表情をゆがめ、力なく首を振る智彦。その姿に、今度は美由紀の怒りが強くなっていく。
「あなた!!」
「はい。ちょっとまったー」
「きゃぁっ!!」
その間に割って入ったのは、青い作業服姿の大柄な男。
智彦のことしか目に入っていなかった美由紀は、急に目の前に現れたその姿に思わず悲鳴を上げてのけぞる。
「おっと危ないっす」
そのまま後ろに転びそうになった美由紀を、同じく青い作業服姿の女性が横から手を伸ばして支える。
「石山さん、おっさんが急に目の前に出てきたら、普通の女の子は悲鳴上げてころんじゃうっすよ」
「猫田さん、2児の父だしおじさん呼ばわりはいいんだけど、おっさん呼ばわりはやめてくれないかな」
中年男性で、おじさんとおにいさんの呼ばれ方問題についてはもう乗り越えたとはいえ、おっさん呼ばわりは微妙に傷つく男心を吐露する石山にかまわず、猫田は抱き留めた美由紀の様子を見る。
「お姉さん、大丈夫っすか?」
「あ、は、はい」
抱き留められたことで我に返った美由紀は、今いる場所が公共の場所であったことを思い出し、あたりを見渡す。もめている様子に駆けつけてくれたのはこの2人だけのようであるが、公園の利用者の視線の多くが自分たちの方に向いていることを確認して、今までの自分の剣幕を思い出す。
「や、やだっ! すいませんっ! ごめんなさいっ!!」
顔を真っ赤にして猫田から離れ、ペコペコと頭を下げた後、両手で顔を覆って一刻も早くこの場から離れようと走り出す。
「あ、ちょっとっす!!」
その手からスケッチブックが落ちたのを見た猫田が声をかけるが、さっさと公園の出口に向かっていく美由紀の耳には届かないようだ。
「石山さん、ちょっと追っかけてくるっす」
「いえ。猫田さん、それを返すのは今度にしましょう」
「え? なんでっすか?」
スケッチブックを拾って追いかけようとする猫田を止める声に振り向くと、石山も先ほどまで青年が立っていた場所で、黒い万年筆を拾い上げていた。
その持ち主は、美由紀とは反対方向に走っていく背中だけが見える。
「今追いかければ十分間に合うと思うっすけど、なんで止めたんっすか」
先ほどの波多野の様子も、公園内でもめ事が起きるのが嫌だったんだろう程度に思っていた猫田は、石山にそう疑問を呈する。
「そのスケッチブックと、この万年筆。両方に穢れが見られたからですよ」
百聞は一見に如かずと、万年筆を左手で持ち、懐中電灯の青い光で照らす石山。
その手に握られた万年筆の周りには、確かに青黒い靄のようなものがゆったりとまとわりついているのが、猫田の目にもはっきりと映っていた。
「緊急時対応が求められる案件です。猫田さん、すいませんが研修内容を変更しますよ」
懐中電灯をしまいながら、今までのやり取りでは見せなかった真剣な表情をする石山に、猫田も手にしたスケッチブックに先ほどまではなかったずっしりとした重さを感じながら、神妙な面持ちでうなずきを返した。




