### 第70話:加速するラリー
### 第70話:加速するラリー
「甘い、もっと深く入れろ!」
一ノ瀬コーチの鋭いゲキが、西日の傾き始めた特設コートに冷徹に響き渡る。
アスファルトのサーフェスに摩擦するタイヤのゴム音と、乾いたボールの打撃音。その二つが複雑に混ざり合い、夕方の空気を切り裂くような緊張感を作り出していた。基礎反復から実戦形式へと移行した僕たちのラリーは、日を追うごとにその激しさと密度を増している。
ただ決まった軌道へ打ち返すだけの練習ではない。コーチのラケットから放たれるボールは、予測不能なバウンドを描き、左右のコーナー、あるいは浅い位置や深い位置へとランダムに散らされる。
かつての僕なら、その一球一球に振り回され、慌てて腕の力だけでラケットを振っては体勢を崩し、コートの隅で息を荒げていたはずだった。
しかし、今の僕には違うものがある。
野田さんの手によってミリ単位でアライメントが調整され、驚異的なレスポンスを取り戻したマットブラックの車いす。そして、一ノ瀬コーチにしごき抜かれたことで、骨盤の底からしっかりと上半身を支えられるようになった体幹の軸。
(来る……!)
コーチのフォームから繰り出される軌道を瞬時に見極め、僕は右手のハンドリムを強く叩いた。
かつてなら車体が外側に流れ、無駄な力みが生じていた急旋回も、今の相棒はピタリと僕の意思に追従する。最短距離で落下地点へと滑り込み、ピタリと車体を静止させる。その瞬間、上半身が前に突っ込むことも、無駄なブレが生じることもない。
――骨盤を立て、腹筋と背筋で生み出したパワーを、ロスなくラケットの芯へと伝える。
パァンッ!!
空気を切り裂くような、ひときわ重く鋭い打球音がコートにこだました。
腕力だけに頼っていた頃の薄っぺらい球ではない。体幹のバネと車体の推進力を完全に同期させたそのショットは、美しい放物線を描きながら、相手コートの最も深いコーナーへと正確に突き刺さった。
「……いいぞ。今のレシーブは合格点だ」
コーチが小さく頷き、次のボールを構える。その瞳の奥には、確かな手応えの色が宿っていた。
胸の奥で、じわりと熱いものが広がる。最初の大会で味わった、あの絶望的なまでの無力感。自分たちの無知と準備不足によって、何もできずにコートから引きずり出された悔しさが、いまやこうして確かな技術と自信に変わり始めている。
ふと、視線を隣のコートへと向けた。
そこでは、相棒である翔太が、己の限界と必死に向き合っていた。
「くそっ……!」
翔太の車体が、鋭いキネティックな動きで右へ左へと奔る。
コーチから放たれた強烈なクロスボールに対し、翔太はしっかりと重心を落とし、車輪を巧みに操りながら体勢を維持していた。以前の彼なら、甘い球をただ当て損ねるか、体勢を崩して転倒しかねない場面だ。しかし、彼もまた基礎の反復と過酷な特訓を経て、劇的な進化を遂げていた。
パチンッ!
翔太のラケットが振り抜かれ、力強いストロークがネットの網目をすり抜けるようにしてクロスへと突き進む。
それはただのやけくそな強打ではない。しっかりと体幹で受け止め、ラケットの面をコントロールしたうえでの、泥臭くも美しい一撃だった。
「おっ、今のラリー、悪くねえだろ!」
翔太が息を荒げながらも、ニヤリと笑ってこちらを見る。その額には玉のような汗が浮かび、制服のシャツは完全に汗で濡れそぼっていた。だが、その表情にかつての焦りや迷いは微塵もない。
「油断するな、次はこっちだ!」
僕は負けじと声を張り上げ、再び目の前のボールへと全神経を集中させた。
お互いの未熟さをぶつけ合い、足りない部分を補い合いながら、僕たちはここまで這い上がってきた。
一人では折れていたかもしれない心も、二人で声を掛け合い、一ノ瀬コーチという厳格な道しるべがあり、野田さんという最高の職人の支えがあるからこそ、こうして前へ進み続けることができる。
最初の大会での敗北は、決して終わりではなかった。
あれは、僕たちが本当の意味で「車いすテニスプレイヤー」として生まれ変わるための、痛みを伴うスタートラインに過ぎなかったのだ。
「行くぞ、瀬戸! 次のラリーは絶対に落とさねぇ!」
「ああ、こっちこそ!」
夕日に染まる特設コートで、再びボールが打ち返される。
その軌道は、あの日の絶望を塗り替える未来へ向かって、どこまでも力強く、真っ直ぐに伸びていった。




