### 第5話:境界線の向こう側
### 第5話:境界線の向こう側
退院の日が近づいていた。
あの白い天井のひび割れを見上げて絶望していた日から、どれだけの時間が経っただろう。数え切れないほどの摩擦熱と、筋肉痛に耐えた日々。僕の体には、かつてのサッカー選手としてのしなやかさとは違う、鋼のような上半身の筋肉が刻まれ始めていた。
その日の午後、リハビリ室ではなく、病院の敷地内にある古いアスファルトのテニスコートへ一ノ瀬に連れていかれそこには、本物のネットが張られていた。
「おい、瀬戸」
一ノ瀬はラケットを二本抱え、コートの反対側に立っていた。白衣ではなく、動きやすいジャージ姿だ。
「いよいよ、僕が相手をしてやる。お前の今の実力がどれほどのものか、このコートで試してみろ」
「……本気で来るんですか?」
僕は車いすのタイヤをきつく締め直し、冷たい金属のフレームを握りしめた。
「当然だ。手加減などしない。お前が絶望の淵から這い上がってきたのか、それともただの気まぐれだったのか、ここで全てをぶつけてみせろ」
一ノ瀬がボールをトスし、鋭いサーブを放った。
初速の鋭さに、体が反射的に動く。車いすを前方へと激しく加速させ、ボールの落下地点へと滑り込む。ツーバウンドする直前、全身のバネを使うようにラケットを振り抜いた。
バチンッ!
手応えがあった。ボールはネットを越え、一ノ瀬のコートの深くに突き刺さる。
一ノ瀬はわずかに体勢を崩したが、素早く車いすを回転させてそれを拾い、強烈なクロスへのリターンを返してきた。
「甘い!」
ラリーが始まった。
アスファルトを削るタイヤの摩擦音。激しい息づかい。心臓が早鐘を打ち、汗が頬を伝う。
かつては「走れない絶望」に縛られていたはずの足元は、今や自由自在に加速し、旋回し、僕をどこへでも連れていってくれる翼になっていた。ボールを追いかけるその瞬間、僕は障害の有無など忘れていた。あるのは、ただ「勝ちたい」という純粋な闘争心だけだ。
激しい打ち合いの末、一ノ瀬のショットがわずかにアウトになった。
ラリーの勝者は、僕だった。
僕は車いすを止め、荒い息を整えた。胸が激しく上下している。
一ノ瀬はボールを拾い上げると、満足そうにふっと笑った。
「……やるようになったな、瀬戸。お前の目は、もうあの日の死んだ魚の目じゃない」
コートの脇には、春の暖かな風が吹き抜けていた。
明日、僕はこの病院を退院する。家に戻り、そして普通の高校生活が待っている。けれど、もう以前の僕ではない。
僕はポケットからスマートフォンを取り出し、画面に映る自分の顔を見た。そこには、あの夏の日から失われていたはずの強い光が宿っていた。
車いすは、不自由の象徴なんかじゃない。
僕を新しい世界へと連れて行ってくれる、最強の相棒だ。
「行くぞ、一ノ瀬さん。次の試合の準備はできてます」




