### 第3話:摩擦の記憶
### 第3話:摩擦の記憶
リハビリ室の空気は、前日とは明らかに違っていた。僕の体の中に宿る熱量が、わずかな前進によって着火したからだ。
「今日は直線移動じゃない」
一ノ瀬はそう言うと、リハビリ室の床に黄色いテープで正方形の枠を描いた。テニスコートのサービスボックスを模した、わずか数メートルの空間。
「この枠の中だけで、車いすを三回ターンさせろ。スピードを落とすな。ラケットを振る動作を付け加える」
無茶だ、と反射的に思った。車いすで急旋回をするだけでも相当な負荷がかかるのに、そこに上半身のひねりとラケットの素振りを加えるなど、物理的にバランスが取れるはずがない。
「できないと思うか?」
一ノ瀬の挑戦的な瞳が僕を射抜く。
「……やってみる」
僕は競技用車いすに飛び乗った。感覚は昨日よりも研ぎ澄まされている。ハンドリムを勢いよく掴み、加速。テープの枠に差し掛かった瞬間、右手をブレーキのように固定し、左手で推進力を生む。
キィッ! という摩擦音と共に、機体が左へ急旋回する。その勢いを利用して、右手でラケットを大きく振り抜く。
――次の瞬間、バランスを崩して僕は車いすごと横転した。
視界が回転し、冷たい床に叩きつけられる。金属のフレームが床を叩く鈍い音が、静まり返ったリハビリ室に反響した。腕が痺れ、肩に衝撃が走る。
「起きろ」
一ノ瀬は手を貸そうともしなかった。車いすを元の体勢に戻すのは、自分自身の力でやらなければならない。腕の力だけで車いすを抱え上げるのは、骨が折れるような作業だ。呼吸を整え、必死になって機体を立て直す。
服についた埃を払い、再び座席に収まる。心臓が早鐘を打っている。悔しさが、熱となって全身を駆け巡る。
サッカー部時代、ピッチで倒れても誰かが手を差し伸べてくれた。立ち上がるためのチームメイトがいた。でも、ここでは違う。倒れた車いすを起こすのも、その先へ進むのも、すべてが僕の孤独な戦いなのだ。
「もう一度」
僕は自分に言い聞かせるように呟いた。
加速。ターン。そして素振り。
再び横転する。それでも、前より少しだけ、ターンがスムーズになっている手応えがあった。
何度も、何度も繰り返した。
汗が目に入り、シャツが肌に張り付く。腕の筋肉が悲鳴を上げ、皮が剥けかけているのがわかった。それでも、僕は止まらなかった。この「摩擦」の感覚が、僕にとっての唯一の絆だったからだ。車輪が床と擦れるたびに、僕は自分が生きていることを実感していた。
気づけば、一ノ瀬の描いたテープの枠から、一度もはみ出すことなくターンを決めることができていた。
最後の素振りを終え、僕は荒い息を吐きながら車いすを止めた。
「……枠からはみ出さなかった」
自分でも驚くような、確かな達成感だった。
一ノ瀬は少しだけ目を細め、満足げに頷いた。
「いい回転だった。君の体は、車輪の動きを理解し始めている。だが、瀬戸。これはただの『動き』だ。テニスは相手がいるスポーツだ。君がどれだけ速く動けても、ボールがなければ意味がない」
一ノ瀬はポケットから、使い古されたテニスボールを取り出した。
「明日からは、そこに『ボール』を加える。恐怖心との戦いになるぞ」
リハビリ室を出る時、窓の外はすでに宵闇に包まれていた。病院の廊下を車いすで走る音さえ、どこか誇らしい響きに聞こえる。
壁のひび割れ? そんなもの、もう気にも留めていなかった。僕の頭の中は、明日のボールの軌道と、それをどう迎え撃つかという戦略だけで埋め尽くされていた。
僕は確かに前進している。たとえ両足が動かなくたって、僕の人生は、この車輪と共に、どこまでも加速していけるはずだ。
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