### 第2話:回転の洗礼
### 第2話:回転の洗礼
リハビリ室の片隅、普段はマット運動に使われるスペースが、その日だけは「コート」に見えた。
一ノ瀬は、僕に競技用車いすの操作を教えるつもりらしかった。しかし、それは想像以上に過酷な道のりだった。普通の車いすしか知らなかった僕にとって、この機体は別の生き物のように感じられた。タイヤは外側に大きく傾斜し、指先ひとつで急旋回するように設計されている。
「蓮、まずはタイヤを真っ直ぐ漕いでみろ。壁まで十メートル、そこを折り返して戻ってくるだけだ」
一ノ瀬の指示に従い、僕は力任せにハンドリムを掴んだ。だが、両手の力の入れ具合がほんの少し違っただけで、車いすは無情にもその場でくるりと回転し、明後日の方向を向いてしまった。
「違う。腕の力だけで漕ごうとするな。体幹を使え。車いすは君の身体の延長だ。足で歩くときと同じように、重心を移動させるんだ」
何度やっても上手くいかない。地面を叩くような音だけが室内に響く。汗が額から滴り落ち、視界を滲ませた。かつてサッカーで何キロも走り回っていた足は、今はただ座面の上に置かれた重たい重りに過ぎない。苛立ちと、情けなさが混ざり合った感情が喉元までせり上がる。
「……くそっ!」
僕は思わずハンドリムを強く叩いた。金属の乾いた音が響く。一ノ瀬は僕の前に仁王立ちしたまま、動じない。
「君は『足がない』ことを嘆いているが、それは言い訳に過ぎない。君は今、歩く方法を忘れた赤ん坊と同じだ。歩けないなら、その車輪で世界を掴むしかないだろう。一度でもいい、自分の意志でこの車輪を『加速』させろ。風を感じるんだ」
風、か。
僕は深呼吸をした。サッカーのピッチで、相手の裏を突くために一瞬の加速を求めていたあの感覚を思い出す。足ではなく、上半身全体で車いすを操る。ハンドリムを掴むのではなく、手のひらのひらで回転のエネルギーを伝える。
再び挑戦する。
一漕ぎ、二漕ぎ。今度は腕を大きく振るのではなく、肩甲骨から動かすイメージで。
――グッ、と機体が前に出る感覚があった。
車輪が床を噛む。重かった機体が、まるで軽い羽のように加速し始めた。壁が迫ってくる。僕は反射的に、以前サッカーで身につけた瞬発力を活かして重心を左に預け、右手でハンドリムを止める。
キュルルッ!
タイヤが床と激しく摩擦し、鋭い音を立てて車いすが反転した。
止まった。そして、再び加速した。
直線距離を往復するだけの、何の変哲もない練習。しかし、その時、僕は確かに感じた。自分の腕から伝わる力が、金属のフレームを伝い、タイヤへとダイレクトに伝わり、景色を後ろへと流している。
時速0キロの景色が、動き出した。
「……できた」
僕が顔を上げると、一ノ瀬が薄く笑った。
「ようやく、スタートラインに立ったな。だが、これが始まりだ。明日はもっと負荷をかける。覚悟しておけ」
帰りの車いすを押す腕はパンパンに腫れ上がり、肩には鉛が入っているような重みがあった。それでも、僕の心の中には、かつて失ったはずの「前へ進む感覚」が、確かに灯っていた。
病室の窓の外、夕焼けが校庭を赤く染めている。その光景を眺めながら、僕は今日初めて、自分の足(車いす)で明日を迎えたいと思えた。
壁のひび割れは相変わらずそこにある。けれど、今の僕にとってそれは、単なる天井の模様に過ぎなかった。僕の視線は、すでにその先、テニスコートという未知の舞台へ向かっていた。
明日、また一ノ瀬に会いに行く。
もっと速く、もっと強く、もっと激しく――。
この車輪がどこまで行けるのか、自分の限界を試したくてたまらなくなった。
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