### 第1話:天井のひび割れ
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### 第1話:天井のひび割れ
白い天井に、ぼんやりと走る一本のひび割れ。それが、今の僕の世界のすべてだった。
この病院の個室に移ってから、数え切れないほどそのひびを眺めてきた。最初はただの偶然だと思っていたその線の形が、日を追うごとに、まるで僕の人生そのものを表しているような気がしてくる。無機質で、冷たくて、どこへも続いていない線。
病室の窓の外からは、初夏の風が運び込む木々のざわめきと、遠くで生徒たちが部活動に励む声が聞こえてくる。サッカーボールを蹴る乾いた音、誰かの叫び声、そして笛の音。かつて僕もその騒音の中にいた。ピッチを駆け回り、芝を削り、泥だらけになって勝利を目指していたあの時間は、今となっては遠い国の出来事のように思える。
僕、瀬戸蓮の時間は、あの夏の日、時速60キロの衝撃と共に止まった。
バイクに撥ねられたあとの記憶は断片的だ。アスファルトの冷たさ、救急車のサイレンの音、そして母親の泣き叫ぶ声。意識が戻ったとき、僕の足は、まるで他人のもののように重く、そして何より、僕の命令を拒絶していた。
「神経が損傷している」と、医師は淡々と告げた。
その言葉の意味を理解するのに時間はかからなかった。二度と走れない。二度とサッカーボールを追うことはできない。そう悟った瞬間、僕の心の中で何かが決定的に壊れた。
看護師が食事を持ってきても、リハビリの先生が訪ねてきても、僕はほとんど何も反応しなかった。カーテンを閉め切り、意識的に暗闇を作り出した。誰かに見られること、誰かに「頑張れ」と言われることが、当時の僕には耐えがたい暴力に感じられたからだ。
そんなある日の午後、カーテンの隙間から差し込む日差しが、僕の目を射た。
「いつまでそうしているつもりだい?」
聞き慣れない、低く、どこか湿り気を帯びた声がした。
そこには、理学療法士の一ノ瀬が立っていた。いつもは若手のリハビリ担当が来る時間だが、今日は違った。白衣の上からでも分かるほど肩幅の広い男で、その目にはどこか僕の苛立ちを見透かすような鋭さがあった。
「……別に、放っておいてください」
僕は布団を頭から被った。
「放っておくのは簡単だ。だが、君の筋肉は毎日少しずつ死んでいっている。このままでは、ただの『置物』になるぞ」
一ノ瀬の言葉は冷酷だった。だが、僕の心には突き刺さった。置物。そう、今の僕は、窓際のベッドに備え付けられた観葉植物と大差ないのかもしれない。
一ノ瀬は僕の枕元に、一枚のタブレットを置いた。
「明日、リハビリ室に来い。君が今考えている『終わり』よりも、もっとずっと残酷で、もっとずっと美しい世界を見せてやる」
翌日、僕は嫌々ながらも車いすに乗せられ、リハビリ室の隅へと運ばれた。そこには、一台の奇妙な機械が置かれていた。テニスラケットに似たものを持っているが、足元にあるのは鋭角にハの字を描くホイール。競技用の車いすだった。
「これを見ろ」
一ノ瀬がタブレットの映像を再生した。そこに映っていたのは、僕の知っているテニスではなかった。
激しいタイヤの回転音。アスファルトを削る匂いが画面越しに伝わってくるような、緊迫したラリー。選手たちは、まるで生き物のように車いすを操り、弾丸のようなサーブを打ち込んでいる。彼らの腕には、サッカー選手が持っていたような、いや、それ以上の凄まじい筋肉が宿っていた。
「障害者のスポーツなんて、所詮はお遊びだろ?」
僕は思わずそう吐き捨てた。
一ノ瀬は表情一つ変えず、僕の車いすのタイヤを強く掴んだ。
「お遊び? 君、サッカーをやっていただろ。だったら分かるはずだ。あの刹那の判断、重心の移動、相手の裏をかく駆け引き。これがただの遊びに見えるか?」
画面の中で、選手が逆転の一打を放つ。その瞬間、車いすが横転しそうなほどの勢いで旋回し、ボールを拾い上げた。その目は、僕がサッカーの試合で見失っていた「何か」を追い求めていた。
僕は息を呑んだ。心臓が、久しぶりに規則正しくない音を立て始めた。
「君の足はもう動かない。だが、君の体にはまだ動く場所がある。その場所を極めれば、また『風』を切ることができる」
一ノ瀬は、競技用車いすを僕の前に差し出した。
「瀬戸蓮、選べ。一生、天井のひび割れを数えながら死を待つか。それとも、もう一度、闘争の中に身を投じるか」
僕は震える手で、冷たい金属のフレームに触れた。
手のひらに伝わる感触は、死の匂いではなく、生きた金属の熱を帯びていた。
僕はゆっくりと、その車いすに乗り移った。視界が変わる。病院の廊下が、まるで広大なコートのように思えた。
僕の物語は、ここから始まる。
かつて走ることしか知らなかった少年が、車輪を得て、再び世界を駆け抜けるための、長い、長い軌跡が。
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