### 第14話:白線の内側
### 第14話:白線の内側
新しく引かれた白いチョークの線は、アスファルトの黒さの中で鮮烈に浮かび上がっていた。
ほんの数センチの境界線。けれど、その線があるだけで、ただの「空き地」だった場所が、紛れもない「テニスコート」へと姿を変えていた。
「どうだ、この方が気合が入るだろ」
翔太はサーブを打つ体勢を作りながら、にやりと笑った。
「ああ。狭く見えるけどな」
僕は競技用車いすのタイヤをチョークの線に合わせ、位置を微調整する。普通のテニスコートと同じシングルスの広さを再現したつもりだったが、車いすの旋回半径を考慮すると、実際に動けるスペースは健常者のそれよりも遥かに狭く、窮屈に感じられた。
「文句言ってないで、いくぞ!」
翔太のトスから放たれたボールが、夕暮れの空気を切って飛んでくる。
新しく引かれた白線を跨ぐように、僕はハンドリムを強く叩いた。
キィッ!
タイヤがアスファルトを噛む。昨日までの「なんとなくのラリー」とは空気が違った。足元に明確な「インとアウトの境界」があるだけで、ボールの落下地点を見極める目の色が変わる。
ボールは白線の内側、わずか数十センチのところへ落ちてバウンドした。
「早い――!」
僕は反射的に重心を右へ預け、車いすを急旋回させる。削れかけたタイヤが嫌な音を立てたが、そんなことを気にしてる余裕はない。右腕を大きく伸ばし、ラケットのスイートスポットにボールを乗せるように捉えた。
ガツンッ!
返球したボールは綺麗な放物線を描き、翔太のコートの深い位置へと飛んでいく。
翔太は素早く横に走り、それをバックハンドで力強く押し返してきた。
「くっ……!」
ラリーが続く。一往復、二往復。
白いチョークの線が視界の端をかすめるたび、心臓の鼓動が早くなる。もしタイヤがこの線を踏み越えてアウトになれば失点だ。しかし、内に留まろうと意識しすぎると、今度は動きが小さくなり、次のボールに追いつけなくなる。
空間と距離の支配権を巡る、シビアな駆け引き。
ふと、サッカーのピッチでゴールライン際をドリブルしていた時の感覚が蘇った。あの時も、目の前にあるラインと敵のディフェンスという「境界」の中で、わずかな隙間をこじ開けていた。
形は違えど、本質は同じだ。ここは僕の新しいピッチなのだ。
「甘い、瀬戸!」
翔太の声と共に、鋭い角度のクロスショットが放たれた。僕の予想を超える深さ。
――間に合わない。
頭の中でそう警報が鳴り響いたが、体が勝手に動いていた。僕は限界まで腕を伸ばし、車いすのタイヤを逆回転させて急ブレーキをかける。
タイヤとアスファルトが激しく摩擦し、焦げ臭い匂いが鼻をかすめた。
ガィィンッ!
執念で当てたラケットの面から、ボールは力なくネットの方向へ転がり、そして……コテン、とネットの手前に落ちた。
「……アウト、か」
僕は肩で息をしながら、車いすを止めた。
ボールは無情にも、新しく引かれた白い線の外側に転がっていた。
「はぁ、はぁ……惜しかったな!」
翔太も両膝に手を突き、汗を拭いながら声を上げる。その顔には、先ほどまでの余裕は消え、真剣勝負を楽しんでいる者の表情が浮かんでいた。
僕は荒い息を整えながら、自分の足元を見た。
削れかけたタイヤのゴムくずが、白いチョークの粉にまみれている。決して理想的な環境ではない。けれど、この手で掴んだ一打一打の感触は、確かに本物だった。
「もう一回だ、翔太」
僕は顔を上げ、不敵な笑みを浮かべて見せた。
「次は、そのラインの内側に絶対に沈めてやる」
夕暮れの冷たい風が、僕たちの熱を帯びた頬を撫でていく。
白線の内側という限られた世界のなかで、僕たちの戦いはさらに熱を帯びて加速していった。




