### 第13話:摩耗するタイヤと掌
### 第13話:摩耗するタイヤと掌
翌朝、目を覚ました僕を待っていたのは、全身を苛むような強烈な筋肉痛だった。
特に酷いのは、背中の肩甲骨周りと、両腕の上腕二頭筋だ。ベッドから身を起こそうと腕に力を入れた瞬間、ピリッとした鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめた。サッカーをやっていた頃、走り込みの翌日に下半身が鉛のように重くなることは何度も経験していたが、上半身がここまで悲鳴を上げるのは初めてだった。
さらに、両手の手のひらには無数のマメができ、そのうちのいくつかは無惨にも潰れていた。
昨日の放課後、翔太と夢中になってラリーを続けた代償だった。競技用車いすのハンドリムを素手で何度も激しく押し出し、そして急激なブレーキをかけるために摩擦熱ごと握りしめたせいだ。赤く腫れ上がった掌を見つめていると、痛みを通り越して、どこか誇らしいような不思議な感情が湧き上がってきた。
これは、僕が昨日、確かにあのコートで戦っていたという証だ。
洗面所に向かい、救急箱からテーピングを取り出す。指の関節と掌の皮が剥けた部分に、白いテープをぐるぐると巻きつけていく。薬品の匂いが鼻を突く。サッカーのスパイクの紐をきつく結び直す時と同じような、戦いに赴く前の静かな儀式のように感じられた。
学校に登校しても、僕の頭の中はすでに放課後のことでいっぱいだった。
教室を移動する際、日常用の車いすを漕ぐ手にはテーピングが巻かれている。クラスメイトの何人かがそれに気づいてチラチラと視線を向けてきたが、僕は気にも留めなかった。以前なら「かわいそうに、車いすを漕ぐだけでも手が痛むんだ」というような彼らの勝手な同情の声を幻聴として聞いていただろう。けれど、今の僕には「これはテニスの名誉の負傷だ」という確固たる自信があった。
昼休み、購買部に向かう途中の廊下で、ふいに前を塞がれた。
「よお」
見上げると、テニス部のジャージを着た翔太が、購買のパンを片手に立っていた。
「翔太」
「お前、手、ボロボロじゃねえか。テーピングだらけだぞ」
翔太は僕の手元を顎でしゃくって、少し呆れたように笑った。
「お前のボールがしつこいせいだよ。おかげで全身筋肉痛だ」
「へっ、あの程度でへばってたら、この先もたねえぞ。……今日、放課後どうすんだ?」
「当然、やるよ。コートで待ってる」
「おう。俺も部活の基礎練が終わったら抜けていってやるよ。覚悟しとけよ」
それだけ言うと、翔太はひらひらと手を振って人混みの中へ消えていった。
ほんの短い会話。しかし、そこには障害者と健常者という壁も、先輩と後輩(彼は二年生だが)という変な気遣いもなかった。ただ純粋に、放課後にコートでまみえるライバル同士の会話だった。それが、ひどく嬉しかった。
放課後。
校舎裏のアスファルトコートに着いた僕は、車のトランクから競技用車いすを下ろして組み立て始めた。メインフレームにキャンバー角(八の字の傾斜)のついた大きな車輪をカチリとはめ込む。
その時、ふとタイヤの表面に目が留まった。
「……嘘だろ」
黒いゴムの表面が、ひどく毛羽立ち、削れていたのだ。
一ノ瀬の病院の室内コートや、整備されたオムニコート(人工芝に砂を撒いたコート)なら、ここまで急激な摩耗は起きない。しかし、ここはひび割れ、ざらざらとした古いアスファルトだ。紙やすりの上でタイヤを擦り付けているようなもので、昨日の激しいストップ&ゴーの連続が、タイヤの寿命を劇的に縮めてしまっていた。
車いすテニスにおいて、タイヤは足の裏そのものだ。グリップ力が落ちれば、初速への反応が遅れ、旋回時に横滑りをしてしまう。
「環境が悪すぎる……か」
僕はため息をついた。情熱だけで全てが解決するわけではない。機材のメンテナンスや消耗品にかかるコスト。スポーツを、それも車いすという特殊なギアを使う競技を続けることの現実的な壁が、いきなり目の前に立ちはだかった気がした。
「おい、何ボケッと突っ立って……いや、座ってんだ?」
背後から声がして振り返ると、ラケットバッグを肩に担いだ翔太が立っていた。彼の手には、なぜか体育倉庫から持ち出してきたらしい、太い白墨と長い巻き尺が握られている。
「それ、どうしたんだ?」
「見りゃわかんだろ。コートの線引きだよ」
翔太は巻き尺の端を僕に投げ渡した。
「昨日は適当にやってたけどよ、お前、本気で試合に出るつもりなら、ちゃんとしたコートのサイズで感覚掴まねえとダメだろ。テニスってのは、数センチのインとアウトで勝負が決まるんだからよ。ほら、そこのネットの端っこ押さえとけ」
僕は巻き尺の端を車いすで踏みつけ、翔太が手際よくアスファルトに白い線を引いていくのを見つめた。
ひび割れて、埃っぽくて、誰も見向きもしなかった空き地。そこが今、翔太の引く真っ白なチョークの線によって、明確なルールを持った「戦場」へと書き換えられていく。
「よし、こんなもんだろ。シングルスのラインだけな」
チョークの粉を払いながら、翔太が満足そうに腰に手を当てた。
引かれたばかりの白いラインは、アスファルトの黒とのコントラストで鮮やかに浮かび上がっていた。タイヤの摩耗への不安は、ひとまず胸の奥に押し込んだ。今は、このコートで一球でも多くボールを打つことの方が先決だ。
「ありがとう、翔太」
「礼なんていらねえよ。俺がお前をボコボコにするための土俵を作っただけだ」
翔太がベースラインに立ち、ボールをポンポンと地面につく。
僕も車いすのハンドリムを強く握り、低い姿勢をとった。テーピング越しに伝わる金属の冷たさが、心地よい緊張感に変わる。
「いくぞ、瀬戸!」
「来い!」
翔太のラケットから放たれたボールが、夕日を切り裂いて飛んでくる。
僕はタイヤの摩耗を忘れ、全身のバネを解放してハンドリムを叩いた。キィィッ! という甲高い摩擦音が、放課後の空に響き渡る。
新しい白線の中で、僕たちの本格的な打ち合いが、今度こそ始まった。




