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すずらん団地五号棟 〜わかばとお小遣いと、時々ちくわ〜  作者: 夕凪 鏡介


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第9話「なんにもいらない くまさんと、疑り深い兄」

挿絵(By みてみん)


その日のわかばは、どこか様子が、おかしかった。


朝、起きて居間へ向かうと、こたつの上に、麦茶が一杯、置いてあった。 氷まで入っている。わかばは、こたつの向かいで、膝を抱えて、絵本を読んでいた。


「……これ、誰の」


「あおちゃんの。暑いから」


俺は、麦茶のコップを、じっと見た。表面に、水滴が、つうっと伝っている。氷は、ご丁寧に、三つも浮いている。罠だ。これは、罠に決まっている。(この家で、無料で出された飲み物を、警戒せずに飲める日は、来るのだろうか。)


「いくらだ」


「ううん。ただ」


ただ。今、こいつは、確かに、ただ、と言った。


この家において、それは、警報音に等しい。無料という言葉ほど、後の請求額を予感させる単語はない。安価な前菜には、法外な締めの勘定が続く。 長年の経験が、そう告げていた。差し出された善意の裏には、必ず、計算高い帳簿が控えている。


俺は、身構えた。経験上、わかばが「ただ」と言うときは、必ず後で、何倍にもなって請求が来る。いつだったか、肩たたきが、知らぬ間に金融サービスの加入手続きに化けたこともあった。

あのときの「ただ」は、高くついた。「ただ」ほど高くつくものはない。

この家では。


「どういう風の吹き回しだ。何を企んでる」


「企んでない」


わかばは、ぼーっとした顔のまま、絵本を、ちょっと持ち上げて見せた。


表紙には、『なんにもいらない くまさん』と書いてある。

森の中で、くまが、小鳥に木の実を分けてやっている絵だ。

柔らかい色づかい。見るからに、心温まる系の、絵本だった。


「この、くまさん。なんにも、いらないんだって。あげるのが、すき。

見返り、もとめない」


「……それで?」


「わたしも、今日は、くまさんになる。無償の、愛」


嫌な予感がした。


こいつは、前にも絵本に感化されたことがある。

あのときは『せかいの しずかな どうぶつたち』とかいう本に影響されて、無言で料金を徴収する、静かなぼったくりに進化した。

絵本は、わかばの中で、必ず、ろくでもない方向に作用する。

今度は「無償の愛」。どんな地獄が、待っているのか。


俺は、麦茶に、手をつけなかった。


喉の渇きと、警戒心を、天秤にかける。普段なら、迷わず喉を取る。

だが今日は、相手の出方が読めない。

氷入りの麦茶という、一見なんの変哲もない親切が、かえって不気味だった。無防備な好意ほど、信用できないものはない。

少なくとも、この団地の五階では。


毒味をするように、しばらく眺めて、それでも、飲まなかった。

後で「飲んだから三十円」と言われるのが、目に見えている。

喉は渇いていたが、意地でも、その罠には、かからない。


わかばは、そんな俺を、ちらりと見た。その目が、すっ、と細くなった気がして、俺は、身構えた。来るぞ。料金表が来るぞ。


だが、わかばは、ただ、眠そうに、まばたきをしただけだった。

料金表は、出てこなかった。

拍子抜けした俺は、なぜか、よけいに警戒を強めた。

手の内を見せないつもりだな、と。


わかばは、また、絵本に戻った。何も、言わなかった。


昼。漫画を読んでいると、わかばが、皿を運んできた。


ちくわの、磯辺揚げだった。四本。揚げたて。湯気が立ち上っている。


「あおちゃん。これ、どうぞ」


俺は、凍りついた。


ちくわの磯辺揚げは、わかばの、いちばんの好物だ。

前に、俺がこれを盗み食いして、「罪滅ぼしプラン」とやらで散々ふんだくられたことがある。

そのわかばが、自分の大好物を、四本も、俺に差し出している。


「……どういう、つもりだ」


「あげる。くまさん、だから」


「いらない。おまえの好物だろ。自分で食え」


「ううん。あおちゃんに、食べてほしい」


俺は、皿を、押し返した。


好物を手放す、という行為の異常さを、考えずにはいられなかった。

普段のわかばなら、自分の取り分は一ミリも譲らない。

その鉄則を破ってまで差し出してくる以上、相応の見返りを、後で要求してくる算段に違いない。

投資には、必ず回収が伴う。

それが、こいつの行動原理の、根幹だったはずだ。


これは、ぜったいに、何かある。

自分の好物を無償で差し出すなど、わかばの行動原理から、完全に逸脱している。きっと、後で「あのとき食べた一本につき百円」とか言い出すに決まっている。

先払いの罠だ。恩を売って、利息をつけて、回収する。

そういう、長期的な投資に違いない。


俺は、ちくわに、手をつけなかった。


わかばは、しばらく皿を持ったまま、立っていた。それから、ぼーっとした顔のまま、皿を、そっと、こたつの隅に置いた。


「ここ、置いとくね。食べたく、なったら、どうぞ」


夕方になっても、ちくわは、こたつの隅で、冷めていった。


俺は、その日、ずっと、わかばを警戒していた。


麦茶も、ちくわも、手をつけなかった。

風呂に入る前に「背中、流そうか」と言われたときも、断った。寝る前に「明日の朝、起こしてあげる。ただで」と言われたときも、「いい、自分で起きる」と、突っぱねた。


何をされても、裏を読んだ。

優しさの一つ一つに、見えない請求書が、貼りついている気がした。

(人間、毎日財布をはたかれ続けると、最終的に、影に怯えるようになる。)


これまでさんざん、むしり取られ続けてきた俺の体は、わかばの親切を、純粋な親切として、受け取れなくなっていた。条件反射だ。

電卓の音を聞くと財布が身構えるように、わかばの「どうぞ」を聞くと、

心が、防御の姿勢を取る。


警戒し続けた一日が、終わろうとしていた。


夜。

布団を敷いていると、わかばが、部屋の入り口に、立っていた。

手には、何も持っていない。電卓も、料金表も、ない。

いつもなら脇に控えているはずの、ためにゃんのがま口すら、今日は、見当たらなかった。(武器を持たない取り立て屋ほど、不気味なものはない――そう思った自分が、後で恥ずかしくなる。)


「あおちゃん」


「……なんだ。何の請求だ」


「ううん。請求じゃ、ない」


わかばは、ぼーっとした顔のまま、少し、うつむいた。


「あおちゃん。今日、なんにも、受け取って、くれなかった」


「……当たり前だろ。どうせ、後で金を取るんだろ」


「取らないよ。くまさんだもん」


「信じられるか。おまえが、無償で何かするなんて」


口にしてしまってから、しまった、と思った。


わかばの顔が、ほんの少し、曇った。

普段の、ぼーっとした無表情とは、ちがう。ためにゃんのがま口も、電卓も、持っていない、ただの、小学四年生の女の子の顔だった。


「わたし、ほんとに、あおちゃんに、なんかして、あげたかっただけ、

なのに」


ぽつり、と言った。


その声には、いつもの、お金の匂いを嗅ぎつけたときの、あの抜け目なさが、なかった。ただ、しょんぼりと、しおれていた。


俺は、何も言えなかった。


胃のあたりが、冷たくなった。前に、ちくわを盗み食いしたときの、あの罪悪感に、よく似ていた。いや、あれより、性質が悪い。

前回は、現に好物を奪った、明白な加害だった。

だが今回、俺は、何ひとつ盗んでいない。

ただ、差し出された妹の善意を、片端から拒絶した。

物理的な被害は、ゼロ。にもかかわらず、この胸の重さは、

盗み食いのとき以上だった。

心を踏んだ罪は、財布を痛めた罪より、後を引く。


わかばは、それ以上、何も言わずに、部屋を出ていった。


俺は、布団の上に、座り込んだ。


考えてみれば、こいつは、毎日のように、俺から金を巻き上げてくる。それは、確かに、そうだ。

だが、それは、いつも、堂々としていた。

電卓を構え、料金表を出し、キラーンと目を光らせて。

後ろめたさなど、微塵もなかった。


その、いつも堂々としているこいつが、今日は、しおれていた。


金銭の交渉では、一度も見せたことのない表情だった。

料金を吹っかけるときのわかばは、常に強気で、揺るぎがない。

値切られても、論破されかけても、眉ひとつ動かさない。

その鉄面皮が、今日にかぎって、崩れていた。

皮肉なものだ。金を取ろうとしたときは無敵だった妹が、

無償で与えようとした途端、こんなにも脆くなる。


無償の愛、なんて、柄じゃない。きっと、絵本に影響された、一日かぎりの気まぐれだ。明日になれば、また、いつものわかばに戻る。

電卓を構えて、俺の財布を狙ってくる。

それで、いい。それが、いつもの、我が家だ。


だが――今日のあいつは、本当に、ただ、優しくしたかっただけ、

なのかもしれない。


そう思った瞬間、自分が、ひどく、ちっぽけな人間に思えた。


毎日むしられているうちに、俺は、

人の親切を、まっすぐ受け取れない人間に、成り果てていた。

妹が、たった一日、くまさんになろうとしただけなのに。

それを、根こそぎ、疑った。


俺は、立ち上がった。


居間へ向かう。こたつの隅に、冷めたちくわの皿が、まだ、置いてあった。四本、そのまま。


俺は、それを、一本、口へ運んだ。


冷めて、油が、しっかり馴染んでいた。青のりの香りが、鼻に抜ける。

あいつが、俺のために、揚げてくれたものだ。


うまかった。


なのに、なぜか、味が、しなかった。




【わかば視点】


くまさんは、なんにも、いらない。あげるのが、すき。


絵本に、そう書いてあった。

だから、今日は、わたしも、くまさんになろうと、決めた。


あおちゃんは、いつも、わたしのお金集めに、付き合ってくれる。

文句を言いながら、ちゃんと、最後は、払ってくれる。

電卓を構えると、嫌な顔をするけど、本気で怒ったことは、一度もない。


だから、今日は、お返し、しようと思った。


麦茶を、入れた。氷も、いれた。だいすきな、ちくわも、揚げた。

ぜんぶ、あげようと、思った。なんにも、いらないから。


でも、あおちゃんは、なんにも、受け取って、くれなかった。


わたしの、あげかたが、へただったのかな。


そっか。お金を取るより、あげるほうが、ずっと、むずかしい。


くまさんは、すごいや。




【あおば視点】


翌朝、目が覚めると、枕元に、見慣れた電卓が、置いてあった。

液晶の横では、ためにゃんが、いつもどおり、半分眠そうな目で、俺を見ている。


来た。

とうとう、昨日のぶんの請求が来た。

やはり、無償の愛なんて、一日かぎりの夢だったのだ――そう身構えて、

俺は、おそるおそる、その液晶を覗き込んだ。


液晶には、数字が、打ち込まれていた。


『0』


その下に、わかばの、几帳面な字で、短いメモが添えてあった。






『きのうの麦茶とちくわ、サービスです。』








             第九話 了

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