第8話「兄の抜け毛と、回収業務」
ある朝、洗面台で顔を洗っていたとき、俺は、人生で最初の、本物の絶望を知った。
排水口に、髪の毛が、絡まっていた。
それも、一本や二本ではない。指でつまみ上げると、黒い塊が、ずるりと出てくる。湿って、束になって、まるで小さな生き物の死骸みたいに、てのひらの上で、ぐったりしていた。
一本ずつなら、まだ、生え変わりだと言い張れる。だが、塊で出てくると、話がちがう。塊には、不吉な説得力がある。これは抜けたのではなく、抜け落ちたのだ。見送るような気持ちで、俺は、それを見つめた。
俺は、まだ十六歳だ。高校一年生だ。髪が抜けるような年齢では、断じて、ない。(クラスの誰一人、生え際の話なんてしていない。みんな、前髪のセットに夢中な、健やかな頭皮の持ち主だ。)
だが、現実は、てのひらの上にあった。
鏡を覗き込む。前髪を、かき上げてみる。生え際は……たぶん、まだ、大丈夫だ。たぶん。だが、この「たぶん」という二文字が、これほど不安なものだとは、知らなかった。
思い当たる節は、ある。このところ、夜更かしが続いていた。深夜ラジオを聴きながら、ハガキのネタを練る。手元では、塩気の強いスナック菓子をかじる。睡眠は慢性的に不足し、食生活は乱れ、自覚のないストレスも溜まっていく。毛根にとって、これ以上ない、過酷な労働環境だ。労働基準監督署があれば、とっくに是正勧告が出ている。
俺は、抜けた髪の塊を、そっと、ティッシュにくるんで、ゴミ箱に捨てた。誰にも、見られたくない。特に、あいつには。
その「あいつ」は、なぜか、洗面所の入り口に、立っていた。
「あおちゃん。今の、見た」
わかばだった。いつから、そこにいたのか。気配がまるで、なかった。省エネモードで動くこいつは、足音すら、ろくに立てない。
「な、何を」
「抜け毛。いっぱい、出てた」
「……気のせいだろ。髪なんて、誰でも、毎日多少は抜ける。生え変わりだ。生理現象だ」
俺は、必死に、平静を装った。動揺を、悟られてはいけない。こいつに弱みを握られたら、どうなるか。この数日――いや、生まれてこのかた、嫌というほど、思い知らされている。
わかばは、ぼーっとした顔のまま、洗面台に近づいてきた。そして、排水口を、じっと覗き込んだ。
「まだ、ある」
「やめろ。見るな」
わかばは、すっ、と目を細くした。排水口の底で湿っている黒い塊を、まるで宝石の原石でも見るような目で、じっと見つめている。
「これ……資源だね」
「は?」
聞き間違いかと思った。資源。今、こいつは、よりにもよって、兄の抜け毛を、資源と呼んだ。地下に眠る石油でも見つけたみたいな顔で。
わかばは、どこからともなく、例の電卓を取り出した。液晶の横で、ためにゃんが、相変わらず半分眠そうな目をしている。だが、その守銭奴ネコの目が、今日はなぜか、いつもより輝いて見えた。気のせいであってほしい。
「あおちゃんの抜け毛、わたしが、回収してあげる」
「……なんで、おまえが、俺の抜け毛を回収するんだ」
「だって、放っておくと、排水口、詰まる。掃除、大変。だから、回収業務。プロの、お仕事」
また、プロだ。ゲームのレベル上げを代行したときも、こいつは自分をプロだと言い張った。今度は、抜け毛回収のプロらしい。資格も、研修も、何もいらない。本人が名乗った瞬間に、その道のプロが一人、誕生する。世の中に、そんな手軽な職業があってたまるか。
だいたい、回収業務という言葉の選び方が、もう不穏だ。普通、家族が髪を片付けてくれるなら、それは「手伝い」と呼ぶ。それを、わざわざ「業務」と言い換えるあたりに、こいつの本性が出ている。手伝いは無料だが、業務には対価が発生する。言葉ひとつで、親切が、商行為に化ける。
「いらん。自分で掃除する。おまえに頼んでない」
「でも、あおちゃん、さっき、自分の抜け毛、こわごわ、捨てていた。直視、できてなかった」
図星だった。
俺は、自分の抜けた髪を、まともに見ることが、できなかった。ティッシュにくるんで、見ないようにして、捨てた。あの黒い塊を、正面から見つめる勇気が、なかったのだ。
「わたしは、平気。だから、代わりに、処理してあげる。一回、五十円」
回収業務。一回、五十円。
つまり、俺が自分で直視できない抜け毛を、わかばが代わりに排水口から回収して、捨ててくれる。その手数料が、五十円。一見、親切なサービスのようにも、聞こえる。
だが、こいつが、ただの親切で動くわけがない。(この家で「無料の親切」を最後に見たのが、いつだったか、もう思い出せない。)
「断る。抜け毛くらい、自分で処理できる。見たくないだけで、できないわけじゃない」
「そう。じゃあ、いい」
わかばは、あっさり引き下がった。電卓を置いて、洗面所を出ていく。
また、これだ。いつぞや、ゲームのレベル上げを代行させられたときと、同じ手口。押して駄目なら、引く。そして、こちらが自分から泣きつくのを、岸辺でじっと待つ。学習している。俺は、こいつのやり口を、もう知っている。今度こそ、引っかからない。
引っかからない、と決めた以上、自分で始末をつけるしかない。
俺は、自分で排水口を掃除することにした。台所の下から、ゴム手袋を引っぱり出してくる。母さんが食器洗いに使う、黄色いやつだ。少し大きいが、文句は言っていられない。
ゴム手袋をはめる。排水口の蓋を、外す。中を、覗き込む。
黒い、髪の塊が、排水口の底で、ぬめりと光っていた。
無理だった。
直視した瞬間、ぞわりと、背筋が冷えた。これは、自分の体から抜け落ちた、自分の一部だ。その事実が、想像以上に、こたえる。指が、震える。手袋ごしでも、触れるのが、つらい。十六歳の生え際の危機が、こんなにも、生々しい形で、目の前にある。
俺は、蓋を、そっと、元に戻した。
見なかったことにしよう。そうだ。今日は、もう、見なかった。明日の俺が、なんとかする。明日の俺は、たぶん、今日の俺より、メンタルが強い。根拠はないが、そう信じたい。
そもそも、人間は、見たくないものを見ない権利がある。臭いものに蓋をする、という言葉があるくらいだ。排水口の蓋は、まさに、そのためにある。先人の知恵だ。蓋を閉じれば、抜け毛は、存在しないことになる。少なくとも、俺の心の中では。
だが、現実は、蓋では、隠せない。
「あおちゃん」
背後に、わかばが、立っていた。やはり、待っていたのだ。岸辺で、じっと。
「自分で、できなかった」
「……うるさい」
「回収業務、頼む?」
俺は、ゴム手袋をはめた手を、見下ろした。指先が、かすかに震えている。情けない。心底、情けない。だが、これが現実だ。十六歳の男が、自分の抜け毛ひとつ、直視できない。それが、俺という人間の、器の大きさだった。
誇りを取るか、平和を取るか。天秤にかけるまでもなかった。誇りは、もう、排水口のぬめりと一緒に、底に沈んでいる。
「……頼む。五十円だな」
その瞬間、わかばの目の奥に、明かりが灯った。
ためにゃんの、半分眠そうな目まで、つられて輝いた気がした。獲物が、自分から罠に歩いてきた。あの、キラーンというやつだ。今日のキラーンは、いつにもまして、嬉しそうに見えた。
わかばは、慣れた手つきで、排水口の蓋を外し、抜け毛の塊を、ひょい、と回収した。ティッシュにくるんで、ゴミ箱へ。ものの十秒だった。直視できない俺が、あれほど苦しんだ作業を、こいつは、眉一つ動かさず、片付けた。
肝が据わっている、という言葉では、足りない。兄の頭髪の抜け殻を、何のためらいもなく素手で――いや、さすがに素手ではなかったが、ほとんど躊躇なく処理する小学四年生。将来、どんな仕事についても、たぶん、動じない。むしろ、心配なのは、その将来のほうだ。
「終わり。五十円」
俺は、ためにゃんのがま口に、五十円を落とした。ちゃり、と、小銭の音。これで、終わりだ。情けないが、平和は、買えた。
そう思って、洗面所を出ようとした、そのときだった。
「あおちゃん。待って」
わかばが、ゴミ箱から、さっき捨てたばかりのティッシュの包みを、ひょい、と拾い上げた。
「……なんで、拾うんだ。捨てただろ」
「これ、まだ、価値ある」
「は?」
「あおちゃんの、抜け毛。これから、もっと、増える。たぶん。生え際、心配だし」
「心配じゃない! まだ大丈夫だ!」
わかばは、ぼーっとした顔のまま、電卓を、ぺた、ぺた、と叩いた。
「だから、今のうちに、ストックする。将来、もっと抜けたら、貴重になる。今の抜け毛は、まだ、若い。質がいい」
俺は、言葉を失った。
つまり、こいつは、俺の抜け毛を、ただ捨てるのではなく、保管しようとしている。将来、俺がもっと薄くなったとき、「まだ髪があった頃の抜け毛」として、価値が上がる、と。
抜け毛の、先物取引だった。
小学四年生が、兄の頭髪の未来を、空売りしている。生え際が後退すればするほど、ストックした抜け毛の希少価値が上がる。つまり、こいつは、俺が将来ハゲることに、賭けている。実の妹が、兄の薄毛に、全力で投資している。(応援される薄毛より、投資される薄毛のほうが、たぶん、つらい。)
考えてみれば、これほど確実な投資先も、ない。人の髪は、放っておけば、いつか必ず薄くなる。下落が約束された銘柄を、底値で買い集める。リスクは、ほぼ、ゼロ。わかばは、俺の頭という、絶対に値上がりする市場を、見つけてしまった。
「やめろ! 縁起でもない! 俺は、ハゲない!」
「わからないよ。夜更かし、やめないと」
「説教まで、するな!」
わかばは、ティッシュの包みを、大事そうに、両手で包んだ。そして、ぼーっとした顔のまま、ぽつりと言った。
「だいじょうぶ。あおちゃんがハゲても、わたしは、見捨てない」
不覚にも、少しだけ、じんときた。こんな強欲な妹でも、兄の将来を案じてくれている。やはり、家族とは――。
「ハゲたあおちゃんの抜け毛も、ちゃんと、買い取る。プレミア価格で」
じんときた俺が、馬鹿だった。
わかばは、ティッシュの包みを、ためにゃんのがま口の隣に、そっと並べた。守銭奴ネコの、半分眠そうな目が、その新しい資産を、満足げに見守っている――気がした。
俺は、その夜から、夜更かしを、やめた。
第八話 了




