第7話「雨の日の定点、と静かなるぼったくり」
雨の日のすずらん団地は、世界から少しだけ切り離される。
土曜の朝から、雨が降り続いていた。五月の終わりの、しとしとした雨。窓の外は灰色で、向かいの棟が、煙ったように霞んでいる。階段の手すりは濡れて、踊り場の植木鉢に、雨だれがぽつぽつ溜まっていた。
こういう日は、どこにも行けない。商店街までの坂は、傘をさしても、靴の中までびしょ濡れになる。だから、団地の住人は、雨の日はおとなしく家にこもる。俺も、その例外ではない。(外に出る用事もなければ、出る金もない。雨は、俺にとって、外出しない言い訳をくれる、ありがたい存在だ。)
問題は、わが家の四十平米には、快適な場所が、たった一つしかないことだった。
居間の、南向きの窓際。
そこだけは、雨の日でも、ほのかに明るい。窓から差す柔らかい光が、畳をあたためる。背中を壁にもたせかけて、足を伸ばせば、団地で一番の特等席になる。雨音をBGMに、漫画を読むには、最高の場所だ。
晴れの日なら、誰も気に留めない、ただの窓際だ。だが、雨の日は話がちがう。外に出られない一日を、どこで過ごすか。その答えが、この四十平米には、一つしかない。希少だから、価値が出る。そして、価値が出るところには、必ず、あいつが先回りしている。
そして、その特等席には、すでに先客がいた。
わかばだ。
座布団を二枚重ね、その上に、猫みたいに丸くなっている。水色のツインテールが、窓の光を受けて、淡く透けている。膝には、図書館で借りたらしい絵本。傍らには、麦茶の入ったコップ。そして、その隣に、ちょこんと、ためにゃんのがま口が控えていた。トマト色に、金の留め金。守銭奴ネコは、半分眠そうな目で、雨の窓を見ている。集金係も、ちゃんと連れてきている。完璧な、雨の日の陣形だった。
俺が居間に入っても、わかばは顔を上げなかった。ただ、ぼーっと、絵本のページを眺めている。
「……そこ、俺の場所なんだけど」
返事はない。
「おい。聞いてるか」
わかばは、ようやく顔を上げた。その瞬間、ぼーっとしていたはずの瞳の奥に、明かりが灯った。声は出さない。表情も動かない。だが、その目だけが、すっとピントを結んで、俺の財布の重さを値踏みしている。お金の話になったときの、あの光り方だ。キラーン、というやつ――それが、今日は、音もなく発火した。
わかばは、何も言わずに、傍らに置いてあった一枚の紙を、すっと、こちらへ滑らせた。
ノートを破った紙。几帳面な定規の線。鉛筆の、丁寧な字。
『窓際特等席 ご利用料金』
一時間……八十円
半日……三百円
一日……五百円
「は? 場所代を取るのか?」
わかばは、こくり、とうなずいた。それだけだった。また、絵本に目を落とす。
妙だった。いつものこいつなら、ここで「需要と供給」だの「傾斜割増」だの、もっともらしい理屈をべらべら並べてくる。だが、今日は、何も言わない。ただ、料金表を出して、黙っている。
雨の音が、やけに大きく聞こえた。
「いや、おかしいだろ。ここは家族の共有スペースだ。父さんと母さんが、家賃を払ってる。おまえが場所代を取る筋合いはない」
理屈は、完璧だったはずだ。いつだったか、たった一つのリモコンの所有権をめぐって、こいつとさんざんやり合ったときに、嫌というほど考えた論法だ。共有財産には、占有料を取る権利はない――。
わかばは、ちらりと俺を見た。返事は、ない。ただ、絵本のページを、ぺら、とめくった。その音が、まるで「それで?」と言っているようだった。
俺は、なおも食い下がった。
「だいたい、おまえだって、その特等席を、無料で使ってるじゃないか。自分は払ってないのに、俺からだけ取るのか。不公平だろ」
我ながら、いい指摘だと思った。いつぞや、わかばが独自通貨だの何だのを言い出したときにも使った論法だ。胴元が一番得をする、あの手の仕組みへの、まっとうな抗議である。
わかばは、しばらく俺を見て、それから、また、何も言わずに、もう一枚、紙を出した。
『反論オプション』
一回……五十円
「反論にも、金を取るのか!?」
わかばは、こくり、とうなずいた。
ぞっとした。
これは、いつもと、何かがちがう。普段のわかばは、口で勝負してくる。理屈と理屈の殴り合い。そこには、こちらにも反論の隙があった。だが、今日のわかばは、しゃべらない。ただ、紙を出し、うなずくだけ。交渉のテーブルそのものが、有料化されている。
口を開けば、五十円。黙っていれば、特等席は使えない。(しゃべるのも有料、黙るのも敗北。発声という行為が、これほど高くついた日はない。)
完全な、無言の包囲網だった。
俺は、立ったまま、窓際を見下ろした。わかばは、もう俺を見ていない。絵本のページを、ゆっくりめくっている。雨音と、紙のこすれる音だけが、居間に満ちている。
この、しゃべらない感じが、一番不気味だった。
普段の、ぺらぺらと屁理屈を重ねるわかばなら、まだ可愛げがある。理屈で攻めてくる相手には、こちらも理屈で立ち向かえる。だが、無言で料金表だけを差し出してくる相手には、取りつく島もない。値段は、もう決まっている。交渉の余地は、ない。これは、ぼったくりバーの、無言のメニューと同じだ。座った時点で、勝負はついている。
普段なら、わかばが理屈を一つこねるたびに、こちらも一つ反論を返す。言葉のラリーがある分、こちらにも「次は論破できるかも」という希望があった。だが、相手が黙ってしまうと、その希望ごと消える。沈黙には、突っ込みどころがない。暖簾に腕押し、と言うが、今日のわかばは、暖簾ですらない。値札のついた、一枚の壁だ。
(しかも、その壁は、可愛い顔をして麦茶を飲んでいる。たちが悪い。)
考えろ。何か、抜け道はないか。
「……分かった。窓際は、譲る。俺は、別の場所で漫画を読む」
俺は、そう言って、こたつのほうへ移動しようとした。窓際でなくても、漫画は読める。多少、薄暗いだけだ。意地でも、金は払わない。
その瞬間。
わかばが、すっ、と目を細くした。そして、また一枚、紙を差し出してきた。
『こたつ使用料』
一時間……六十円
「こたつも、有料なのか!?」
こくり。
五月も終わりだというのに、こたつは、まだ片付けられていない。わが家では、こたつは年中行事ではなく、ほぼ常設家具だ。夏になっても、布団を外しただけのテーブルとして居座る。その、季節外れのこたつにすら、しっかり値札がついていた。
俺は、居間を、ぐるりと見回した。
窓際。こたつ。テレビの前。畳の隅。どこを見ても、いつのまにか、わかばの「料金表」が、見えない形で張りめぐらされている気がした。気のせいかもしれない。だが、この沈黙が、その「気のせい」を、本物の恐怖に変えていく。
団地の四十平米が、まるごと、わかばの私有地になっていた。立っているこの場所にすら、いつ「起立料」とやらが発生するか、分からない。(実際、さっきから足が疲れてきたが、座る場所はすべて課金対象だ。立っているのも金、座るのも金。重力が、敵に回った気分だ。)
そもそも、雨の日というのは、わかばにとって最高の商機なのだ。外に出られない兄は、必ず家の中で快適な場所を求める。逃げ場のない客に、定価で売りつける。雨という天候そのものが、わかばの味方をしている。天気予報が、こいつには、商売の仕入れ情報に見えているのかもしれない。
雨は、まだ降っている。
外には、出られない。中には、無料の場所がない。
立ったまま、俺は、漫画を一冊、手に持っていた。読む場所がない漫画ほど、間の抜けたものはない。台所で立ち読みするには、明かりが足りない。トイレは、さすがに長居できない。風呂場は、湿っている。消去法で考えても、答えは、窓際か、こたつしかなく、そのどちらにも、値札がついている。
詰んでいた。完全に、詰んでいた。
「……なあ、わかば。一つ、聞いていいか」
わかばは、絵本から顔を上げた。
「これ、答えるのにも、金がかかるのか」
わかばは、しばらく、ぼーっと俺を見ていた。
そして、ゆっくりと、首を横に振った。
ただで答えてくれるらしい。せめてもの慈悲だ。
「なんで今日は、しゃべらないんだ。いつもなら、もっと、理屈をこねるだろ」
わかばは、傍らの絵本を、ちょっとだけ持ち上げて見せた。
表紙には、『せかいの しずかな どうぶつたち』と書いてある。
「……それが、どうした」
わかばは、ぽつり、と言った。
「あおちゃん。今日は、しずかに、すごす日」
久しぶりに、名前を呼ばれた気がした。
「だから、しゃべると、うるさい。うるさいと、この本の、せかいが、こわれる。でも、お金は、しゃべらなくても、もらえる」
つまり、こいつは、絵本に影響されて、「静かに過ごす日」を実践しているらしい。だから、しゃべらない。交渉もしない。ただ、料金表を出して、無言で徴収する。
なんて迷惑な、情操教育だ。
絵本は、子どもに、静けさの美しさを教えたかったのだろう。森の動物たちが、声をひそめて、静かに暮らす。きっと、そういう、心あたたまる話だ。だが、その教えは、わが家では、史上もっとも静かなぼったくりへと、見事に進化を遂げていた。
わかばの手にかかると、どんな善意も、集金の道具に化ける。静けさの美徳すら、値札を貼る口実になる。図書館の司書さんに、謝ってほしい。あの本を勧めた人は、まさか一冊の絵本が、団地の五階で、無言の料金所を生むとは、夢にも思わなかっただろう。
「分かった。もういい。降参だ」
俺は、財布を取り出した。窓際の、半日コース。三百円。雨は、午後まで続くだろう。一時間ずつ払っていたら、かえって高くつく。半日でまとめて買うのが、一番安い。こんなところで、賢い消費者になってしまった自分が、少し情けない。
わかばは、絵本を膝に置いたまま、片手だけ、すっと差し出してきた。ためにゃんのがま口だ。トマト色の本体に、金の留め金。その口が、ぱちん、と、静かに開く。雨の日にふさわしい、控えめな音だった。
俺は、三百円を、その赤い口に落とした。ちゃり、と、小銭の音がした。雨音の中で、その音だけが、やけにくっきりと響いた。守銭奴ネコは、半分眠そうな目のまま、それでも満足げに、小銭を一枚、また腹に収めた。
そして、ようやく、特等席に座れる――と、思った。
わかばは、座布団から、どかなかった。
金は払った。席は買った。なのに、肝心の席には、先客が、丸くなったまま居座っている。
代わりに、わかばは、また、すっと、一枚の紙を出した。
『※当席は、ただいま満席です。空き次第、ご案内いたします。』
雨は、まだ、降っている。
第七話 了




