第5話「冷蔵庫の秘密と、罪滅ぼしプラン」
わかばPayは、わずか四日で滅びた。
帝国の最期は、あっけなかった。木曜の夜、わかばが電卓を手に、しばらく液晶とにらめっこをしていたかと思うと、ぼそりと言った。
「あおちゃん。ポイント、やめる」
「は? あれだけ偉そうに、時代だキャッシュレスだって言ってたのに?」
「もっといい仕組み、思いついたから」
聞けば、こういうことらしい。利息だの手数料だの延滞料だのを盛りすぎた結果、わかば自身、自分が今いくら持っていて、俺がいくら借りているのか、把握しきれなくなったそうだ。電卓に打ち込んだ数字は記録に残らない。気づけば、帳簿は本人の頭の中にしかなく、その頭の中が、すでに渋滞していた。
「制度が、複雑になりすぎた。わたしの手に、負えなくなった」
潔い、と言えなくもない。引き際を知っている。
「だいたい、自分で作った仕組みに、自分で溺れるって、どういうことだ」
「複利を、入れたのが、失敗だった」
「小学四年生が、複利で破綻するな」
聞けば、利息に利息を重ねる計算を、わかば自身が追えなくなったらしい。雪だるま式に膨らんだ数字は、もはや借金なのか貯金なのかも判然としない。電卓の液晶は、桁が足りずに、頭の「E」だけを点滅させていたという。
が、問題はここからだった。
「廃止に、ともなって。残高は、現金で、清算します」
「……俺の残高、マイナス三百五十だぞ」
「うん。だから、三百五十円、ちょうだい」
制度はなかったことになったのに、俺の借金だけは、しっかり現金で回収された。あれだけ「現金は使えない」と突っぱねておきながら、取り立てのときだけ、しれっと現金に戻る。都合のいいときだけ、文明は退化する。
思えば、わかばPayが存在した意味は、ただ一つ。バラバラだった俺の未払いを、ひとつの大きな数字にまとめて、最後に現金でごっそり回収するため。制度そのものが、巨大な集金装置の、回収パイプだったわけだ。滅びてなお、こいつは黒字を出していた。
俺は財布から三百五十円を出した。わかばはそれを、ためにゃんのがま口に、ちゃり、と落とした。トマト色に金の留め金の、あの守銭奴ネコ。腹の中で小銭が一枚増えた音を、こいつは聞き分けている気がする。
ともあれ、これでチャラだ。借金はゼロ。久しぶりに、俺の財布と心に、平和が戻ってきた――はずだった。
その平和は、翌日の夕方、自分の手で粉々にすることになる。
金曜。学校から帰った俺は、喉がからからだった。部活はしていないが、坂と階段の往復だけで、すずらん団地の住人はだいたい喉が渇く。五階は遠い。
冷蔵庫を開ける。庫内の灯りが、ぼんやり手元を照らす。麦茶のポット。卵のパック。しなびかけたネギ。母さんが作り置きした煮物のタッパーが、二段重ねで鎮座している。ドアポケットには、栓を開けて気が抜けかけたコーラ。
その、一番奥。煮物のタッパーの陰に、見慣れない包みが、ひっそり押し込んであった。
ラップで二重に巻かれた、皿。
ラップ越しに、きつね色の何かが、四本、行儀よく並んでいるのが見えた。表面に、青のりらしき緑の粒。衣の、揚げたての気配。
ちくわの、磯辺揚げだった。
俺は、考えるより先に、ラップを剥がしていた。腹が減っていた。喉も渇いていた。判断力というものが、坂の途中で蒸発していた。
一本、つまんで、口に入れる。冷めていても、うまい。むしろ、冷めて油がなじんだぶん、衣がしっとりして、ちくわの弾力と喧嘩しない。青のりの香りが、鼻に抜ける。二本目。考える前に、手が伸びていた。三本目。もう、止まらない。
四本、完食した。我ながら、見事な平らげっぷりだった。皿の上には、青のりの粒と、わずかな油の照りだけが残った。
皿に残った青のりの粒を、指で集めて舐めたあたりで、ようやく我に返った。
そして、思い出した。
ちくわの磯辺揚げは――わかばの、一番の好物だ。
血の気が引いた。冷めていたということは、わざわざ取っておいた、ということだ。誰かが帰ってから食べるつもりで、ラップを二重に巻いて、冷蔵庫の奥に隠していた。その「誰か」が、この家に、俺以外に、一人しかいない。
背後で、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
水色のツインテールが、ぬっと、台所に現れた。わかばだ。ランドセルを下ろしもせず、まっすぐ冷蔵庫へ向かう。その足取りには、明確な目的があった。
俺は、空になった皿を、背中に隠した。手遅れだと分かっていても、隠した。人間、追い詰められると、無意味な行動を取る。
わかばは冷蔵庫を開けた。奥を見た。しばらく、固まった。
庫内の灯りに照らされた背中が、いつもより小さく見えた。冷気が、足元に流れ出してくる。台所の時計の、秒針の音だけが、やけに大きい。
そして、ゆっくりと、こちらを振り返った。
「あおちゃん。冷蔵庫の、ちくわ」
「……知らない」
「お皿、背中にある」
俺は、観念して皿を出した。青のりの粒が、二、三、へばりついている。動かぬ証拠。指紋より雄弁な、油の跡。
わかばは、ぼーーっとした顔のまま、その皿を、じっと見ていた。怒鳴るでもなく、泣くでもない。ただ、見ている。この、無の表情が一番怖い。台風の目みたいなものだ。中心はいつも静かで、その静けさが、一番不穏だ。
「あれ、楽しみに、してたのに」
ぽつりと言った。声に、湿り気はない。だが、その分だけ、効いた。
罪悪感というやつが、胃のあたりから、じわじわ這い上がってくる。さっき平らげたちくわ四本ぶんの、重さ。盗み食いの自覚はある。しかも、相手はわざわざラップを二重に巻いて、冷蔵庫の最奥に隠していた。明日の自分への、ささやかなご褒美。それを、兄が、跡形もなく胃に収めた。弁解の余地が、一ミリもない。
こういうとき、相手が泣いたり怒鳴ったりしてくれたほうが、まだ楽だ。喧嘩になれば、こちらにも言い分の一つや二つ、ひねり出せる。だが、わかばは、ただ静かに皿を見ている。沈黙は、一番高くつく。
「……悪かった。本当に。腹が減ってて、つい」
「うん」
「埋め合わせは、する。今度、買ってくる。倍にして」
我ながら、殊勝な申し出だと思った。誠意ある対応。倍返し。これ以上の謝罪が、あるだろうか。
その瞬間だった。
わかばの目の奥に、明かりが灯った。
しおれていたはずの瞳が、急にピントを結ぶ。ちくわを悼んでいた顔が、一瞬で、別の生き物のものに切り替わる。獲物の傷口を見つけた、あの目だ。キラーン、というやつ。
罪悪感は、こいつにとって、最高の集金材料だ。俺は、自分から傷口を差し出していた。
「あおちゃん。罪滅ぼし、したい?」
「……あ?」
「したいよね。倍にして返すって、言った」
わかばは、ランドセルからおもむろに、一枚の紙を取り出した。もう用意してあったのか、それとも常時携帯しているのか。几帳面な定規の線。鉛筆の、丁寧な字。
『すずらん団地 五号棟 罪滅ぼしプラン ご案内』
「プランが、ある……だと?」
「ちくわ事件、専用」
俺は、紙を覗き込んだ。
『Aプラン(軽率)……ちくわ現物、倍量返却。+肩たたき十回』
『Bプラン(誠意)……ちくわ倍量+デザート(チョコミント)+一週間、皿洗い当番』
『Cプラン(完全謝罪)……上記すべて+「ごめんなさい」を、毎食前に唱和』
「待て。なんで謝罪に、コースがあるんだ」
「罪の重さ、人によって、ちがうから。あおちゃんは、自分で、選べる」
「謝罪に松竹梅があってたまるか。寿司屋か、ここは」
「お寿司も、食べたい。それは、Dプランで」
「増やすな。プラン、増やすな」
選べる、と言いながら、どのプランも、結局あおちゃんが払うことに変わりはない。選択の自由とは名ばかりの、罰の品ぞろえ。レストランのメニューみたいな顔をして、全部、俺への請求書だ。
「だいたい、四本食っただけで、なんでチョコミントまで買わされるんだ」
「精神的、損害。わたしの、楽しみを、奪った。それは、ちくわの値段には、入ってない」
慰謝料、という単語が頭をよぎった。小学四年生が、盗み食いを、損害賠償請求に発展させている。物損だけでなく、精神的苦痛まで算定してくる。法廷でしか聞かないような理屈が、団地の台所で、淡々と展開されていた。
「精神的損害って、いくらなんだ。値段、つくのか」
「つく。あおちゃんが、ちくわを食べた瞬間の、わたしの、がっかり。あれは、お金で、計れる」
「計るなよ、自分のがっかりに、値札を貼るな」
「世の中の、慰謝料も、ぜんぶ、心の値札」
返す言葉がなかった。たしかに、世間の損害賠償というのは、心の傷に金額をつける作業だ。だが、それを小四の妹に、ちくわ四本の件で諭されるとは、思っていなかった。
「……Aプランで。倍量と、肩たたき十回。それでいいだろ」
俺は、一番安いコースを指さした。せめてもの抵抗。最小限の出費で、手を打つ。
わかばは、すっ、と目を細くした。
そして、Aプランの文字の、すぐ下を、つんと指でさした。
さっきは見落としていた、ひときわ小さな、ただし定規でしっかり囲んだ、注意書き。
『※Aプランをご選択の場合、別途、不誠実料を申し受けます。』
「不誠実料って、なんだよ」
「一番安いのを選ぶ人は、反省が、足りない。その分の、追加」
つまり、安いコースを選ぶと、安く済ませようとした罪で、上乗せされる。高いコースを選べば、そのまま高い。どのみち、財布は軽くなる。逃げ道という逃げ道に、ぜんぶ、有料の関所が立っている。
わかばの手の中で、ためにゃんのがま口が、ぱちん、と小さく音を立てた。留め金を、開けたり閉めたりしている。次の獲物の取り分を、もう計算しているのだ。トマト色の口を開いたその守銭奴ネコは、半分眠そうな目で、それでも俺の財布を、しっかり見据えている気がした。
三百五十円を清算して、ようやく取り戻した平和は、ちくわ四本で、もう泡と消えていた。借金を返した翌日に、新しい借金。賽の河原で石を積んでいるような気分だ。積んだそばから、妹に崩される。
なんかもう、いいや。
俺は、白旗を上げかけた。Bプランでも、Cプランでも、好きにしてくれ。皿洗いでも、唱和でも、やってやる。それで、この無の表情から解放されるなら――。
そう思って、顔を上げたとき。
わかばは、もう次の紙を、すっと、台所のテーブルに広げていた。几帳面な定規の線。鉛筆の、丁寧な字。
『罪滅ぼしプラン 分割払いのご案内』
「あおちゃん。一括が、つらいなら」
「待て。分割って、それ、また利息つくやつだろ」
わかばは、ぼーっとした顔のまま、答えなかった。ただ、ためにゃんのがま口を、ぱちん、と、もう一度、閉じた。
第五話 了




