第4話「リモコンの所有権と、レンタル料」
我が家に、テレビのリモコンは、一つしかない。
二十年もののブラウン管――ではなく、さすがに数年前に薄型へ買い替えたが、リモコンだけはなぜか一つきりだ。電池の蓋が外れかけていて、輪ゴムで留めてある。ボタンの「3」だけ、印刷が消えかかっている。恐らく、誰かが教育テレビを見すぎたせいだ。(犯人は、向かいで膝を抱えている小学生だと、俺は睨んでいる。)
そんな、家電量販店なら回収ボックス行きの代物が、ある日突然、我が家で一番の権力装置になった。
断っておくが、テレビ本体は無事だ。問題は、操作する手段が、この世にたった一つしか存在しない点にある。スマホのアプリで操作する機能もあるらしいが、設定の仕方が分からず、説明書はとっくに行方不明。結局、我が家のテレビを支配する者は、この輪ゴム留めのリモコンを支配する者と、完全に一致する。
きっかけは、土曜の夜だった。
俺は風呂上がりに、コーラ片手にこたつへ戻ってきた。観たい深夜番組がある。お笑い芸人がひたすら大喜利をするやつで、俺の数少ない楽しみのひとつだ。ハガキ職人として、勉強にもなる。
こたつの天板の上、いつもの定位置に、リモコンがない。
「あれ……リモコン、知らないか」
わかばは、こたつの向かいで、膝を抱えて座っていた。水色のツインテールが、テレビの光を受けて、青白く揺れている。アニメの再放送を、ぼんやり眺めている。
その手の中に、リモコンが、あった。
「あ、それだ。チャンネル変えるから、貸して」
「だめ」
「は?」
「これ、わたしの」
わかばは、リモコンを、すっと自分の胸に引き寄せた。まるで、大事なぬいぐるみでも抱えるみたいに。
「いや。それ、家のリモコンだろ。みんなのだ」
「ちがう。今、わたしが持ってる。だから、わたしの」
理屈が、原始時代まで巻き戻った。
先に握った者が所有者。早い者勝ち。無人島に流れ着いた漂流者が、椰子の実に最初に手をつけたら自分のもの、みたいな。法治国家を二千年分ほど遡った理論だ。
「いいか、よく聞け。所有権ってのはな、誰が今たまたま手に持ってるか、で決まるもんじゃないんだよ。買ったのは父さんと母さんだ。家族の共有財産。一時的に占有してるだけで、おまえの私物にはならない」
「あおちゃん、くわしいね」
「兄として最低限の自衛だ」
四日連続だ。
「でも、あおちゃん。共有財産って、言った」
「言った」
「共有なら、わたしにも、半分、権利ある」
「ああ、そうだ。半分は、おまえのものだ」
「だから、あおちゃんが使うときは、わたしの半分を、借りることになる。半分ぶんの、レンタル料」
共有財産という俺の主張が、そのまま、課金の根拠に化けた。論破したつもりが、武器を手渡していた。自分の刃で、自分の首を刈られた気分だ。もう自分でも、口癖というより、呪文に近い気がしてきた。唱えても、何の魔法も発動しない。
わかばは、ぼーっとした顔のまま、空いている手で、例の電卓を取り出した。
来た。この、電卓を構える動作を見るたびに、俺の財布(正確には、すでに財布ですらない、マイナスのポイント残高)が、ひゅっと縮む気がする。
その目の奥で、明かりが灯った。ぼーっとアニメを眺めていたはずの瞳が、急にピントを合わせる。リモコンを娯楽の道具から、収益を生む資産に切り替えた瞬間の、あの光り方だ。キラーン、というやつ。
「あおちゃん、リモコン、使いたい?」
「使いたい。っていうか、使わせろ」
「じゃあ、レンタル」
わかばは電卓を、ぺた、と叩いた。
『30』
「リモコン・レンタル料。一回、三十円」
「一回って、なんだ。一回の定義は」
「電源つけてから、消すまで。ワンセット」
俺は、頭を抱えたくなった。
一回の定義が、こちらに不利すぎる。電源を入れてから消すまでがワンセットということは、途中でトイレに立って、戻ってきて続きを観たら、それは二回目の利用と数えられかねない。チャンネルを一度変えるごとに、何か別の名目をつけられても、こちらに反論の材料はない。料金体系を作る側が、定義をすべて握っている。
つまり、テレビを観たければ、リモコンを借りる。借りるたびに、三十円。チャンネルを変えるのにも、恐らく、追加で何かしらの料金がかかる。我が家のテレビは、いつの間にか、有料放送になっていた。受信料を払う相手が、NHKじゃなくて、小学四年生だ。
「ふざけるな。リモコンなんか使わなくても、テレビは観られる」
俺は、テレビ本体に歩み寄った。確か、側面のどこかに、手動のボタンがあるはずだ。電源とチャンネルくらいは、本体だけで操作できる。文明の利器に頼らずとも、人間には指がある。
側面を、手で探る。
ない。
正面も上も下も、手で探る。
どこにも、ボタンが、見当たらない。
最近の薄型テレビという物は、デザインを優先するあまり、本体のボタンを、異様に目立たない場所に、極端に小さく配置している。背面の、下のほう。手探りで、ようやく、ぽちっとした突起を見つけた。
「あった」
押した。
『入力切替』
画面が、真っ青に染まった。
もう一度押す。今度は、設定メニューが、英語で出てきた。さらに押す。砂嵐になった。元の番組には、戻れない。
背面の、見えない場所にある、たった一つのボタンで、すべての操作をしようというのが、そもそも無理な話だった。長押しと短押しの区別、二回連続と三回連続の違い。一つのボタンに、複数の機能が、暗号のように割り当てられている。解読の手がかりは、行方不明の説明書の中。リモコンという発明が、いかに偉大だったか、画面の砂嵐を前に、身をもって思い知らされる。
指先で、何度も背面の突起を探る。プラスチックの縁が、爪に当たって痛い。汗ばんだ手が、艶のある背面パネルに、べたべたと指紋を残していく。明日、それを拭くのも、たぶん俺だ。
俺が背面と格闘しているあいだ、わかばは、こたつの上で、ぼーっとアニメの続き――は、もう砂嵐になっているので、その砂嵐を、ぼーっと眺めていた。
そして、すっ、と目を細くした。
「あおちゃん。テレビ、壊した?」
「壊してない! ちょっと、設定が、迷子になっただけだ!」
「直せる?」
「……」
直せる自信が、まったくなかった。
俺は、しぶしぶ、テレビの前から退散した。背面のボタンでは、もはや、どうにもならない。元の状態へ戻すには、リモコンの『戻る』ボタンと、メニュー操作が要る。その、唯一のリモコンは、妹の手の中だ。
「……貸してくれ。設定を、戻したいだけだ」
「レンタル?」
「いや、これは俺が観るためじゃない。テレビを、元に戻すためだ。原状回復だ。おまえだって困るだろ、砂嵐のままじゃ」
完璧な理屈だと思った。これは個人的な娯楽の利用ではなく、共有財産の保全作業だ。料金が発生する筋合いはない。
わかばは、ぼーっとした顔のまま、電卓を、ぺた、ぺた、と叩いた。
『50』
「原状回復は、リモコン・レンタルより、高いの?」
「専門作業だから。技術料、込み」
「俺が直すんだぞ! おまえ何もしないだろ!」
「リモコン、貸してあげる。それが、わたしの仕事」
貸すことが仕事。座って、リモコンを握っているだけで、技術料が発生する。テレビを壊したのは俺だが、壊す原因を作ったのは、リモコンを独占したこいつだ。なのに、その尻拭いにも、金を取られる。自作自演という言葉が、頭に浮かんで、消えた。
俺は、こたつに座り込んだ。
リモコン一つで、ここまで人間は無力になれるものか。所詮は、輪ゴムで留めた、ボタンの印刷が剥げかけた、プラスチックの板きれだ。それを握っているか、いないか。たったそれだけで、テレビという家庭内最大の娯楽の、生殺与奪が決まる。
権力とは、こういうものなのかもしれない。武力でも財力でもなく、ただ「皆が欲しがるもの」を、自分だけが握っていること(しかも、そのものが、輪ゴムで留めた板きれであること)。わかばは、それを本能で理解している。小学四年生のくせに。
「わかった。三十円払う。レンタルでいい。だから、まずテレビを直させろ」
「原状回復は、五十円」
「だから、それは俺が直すんだろうが!」
「でも、リモコン使う。レンタル発生」
堂々巡りだった。
「じゃあ聞くが、おまえが砂嵐のテレビを観続けるのと、俺が直すのと、どっちが得だ。直したほうが、おまえも得だろ。だったら、その作業に金を取るのはおかしい」
「わたしは、困らない。砂嵐、けっこう好き。ザーザーしてて、落ち着く」
嘘をつけ。さっきまでアニメに夢中だったくせに。だが、こう言われると、俺の「困るだろう」という前提が崩れる。困っているのは、俺だけ。需要があるのは、俺の側だけ。足元を見られている。
何を言っても、結局「リモコンを使う以上、料金は発生する」に着地する。詰んでいる。完全に、詰みだ。将棋でいう、何手詰めかも分からない、絶望的な局面。
考えてみれば、リモコンというのは、所有よりも占有が物を言う、奇妙な道具だ。所有権は両親にある。だが現実に番組を選べるのは、今それを手に握っている人間だけ。法律上の権利と、物理的な支配が、見事に分離している。わかばは、その隙間に、ちゃっかり料金所を建てた。通行料を取る関所みたいに。
しかも厄介なのは、減価償却という概念まで持ち出してくる気配がある点だ。古いリモコンほど、貴重で、替えがきかない。希少価値が上がる。新品より、この輪ゴム留めの一台のほうが、わが家では高値で取引される。経済の教科書とは、まるで逆の現象が、こたつの上で起きている。
なんかもう、いいや。
俺は、心の中で白旗を上げた。五十円。原状回復料。技術料込み。払おう。それで、平和が戻るなら、安いものだ。いや、安くない。テレビを壊したのも、それを直すのも俺で、金を取るのはあいつだ。どう考えても、理不尽だ。でも、もう、砂嵐を見続けるのは、つらい。
「わかった……五十円、払う。出すから、リモコンをくれ」
俺は、財布に手を伸ばした。
そのとき、ふと、思い出した。
現金は、もう、使えないんだった。
おとといの「キャッシュレス宣言」。あれ以降、我が家の中で、現金は流通停止になっている。俺の支払いは、すべて、あの「わかばPay」のポイントで処理される。そして俺のポイント残高は、今、マイナス三百のはずだ。
「待て。俺、現金使えないんだよな。じゃあ、この五十円、どうやって払うんだ」
「ポイントで」
「ポイント、マイナス三百だぞ」
「うん。だから、マイナス、三百五十になる」
借金が、増えた。
テレビを直すために、借金が、五十ポイント増える。直さなければ砂嵐。直せば借金。どちらを選んでも、俺の敗北が確定している。
わかばは、ぼんやりした顔のまま、リモコンを、ようやく差し出してきた。
俺は、それを受け取ろうとした。
「あ、待って」
わかばが、すっ、と手を引っ込めた。
「受け取った瞬間から、レンタル時間、スタート。一分ごとに、延滞料、つくから」
第四章 了




